天下御免の人嫌い、無双の偏屈者と名高い篠原忍であったとしても、義理もあれば縁もある。たまにはこうしてパーティーに出てくることもあった。
「これって、なんだったかな」
 真人もまた同席している。と言うより、水野琥珀が出席しないのならば自分も出ないと編集者辺りに言い張ったらしい。
 おかげで真人も誰かの受賞記念だか出版社の創立何周年だかよくわからない宴会に出席する羽目になった。
「別にね、いやじゃないけどね。僕は」
 著名な小説家が綺羅星のごとくいる会場では歌人の真人などさほど注目もされない。もっとも、ありがたいが。
「頑張ってる、頑張ってる」
 こうして壁の華と言うには問題がある性別だけれど、会場の端で夏樹を眺めていられるのは中々面白い。いまも女流作家の一群に彼は捕まっていた。
「水野先生」
 不意に声をかけられて驚く。顔馴染みの篠原の編集者だった。軽く目礼すれば、すでにほろ酔い気分なのか彼はにこやかに話しかけてくる。
「相変わらずおもてになりますなぁ」
「誰がですか」
「もちろん。篠原先生に決まってますよ」
 ちらりと見やれば、女流作家がことごとく集まってしまったのではないかと思うほど、たかられていた。
「もう少し笑顔と言うものを覚えるべきだと思いますよ」
 心にもないことを言って真人は笑う。酒を含めば苦かった。
「いやいや、篠原先生はあれがいいんです。仏頂面ぎりぎりの調子と言いましょうかね」
「変わったご趣味ですね」
「いやいや。私じゃなく。ご覧になれるでしょ、すごいもてようだ」
 羨ましそうに言った編集者の目を避けるよう、真人は夏樹を見やった。表情が、引きつっている。
 彼の人嫌いは本物で、別に格好を付けているわけではないと真人はよくよく知っていた。ただそれはそれとして、立派な壮年の男性として、社交がまったくできないわけでもない。
「本当に、男にしておくのがもったいないような美形ですからなぁ」
 編集者の呟きに、真人は思わず吹き出していた。言われるとおりだ、と思わないでもない。
 出逢ったころから、あまり変わっていないのではないかと思ってしまう。年相応の恰幅と言うものには縁がなかったけれど、いまだに大変な美男だ。髪も黒々として肌など艶めいて色白だ。
「あの顔がお好みですか。伝えておきましょうか、僕から篠原に」
「いやいや、とんでもない。そんなことを申し上げた日には原稿がいただけなくなっちまいます」
「そんなこともないでしょう」
 言ったけれど、多少自信がない。本質的に我が儘で偏屈なのは事実なのだ。
「それにしても、おもてになるなぁ」
 心の底から羨ましそうに言う編集者から、真人は逃げ出したくなった。会場を渡り歩くのだ、と言う顔を作って目礼する。
 去りがてに振り返れば、彼は気づいた風もなかった。だいぶ酔っているらしい。苦笑して、夏樹を背中に真人は歩く。
 見ていたくなかった。わかっている。心から理解している。夏樹が愛したのはこの自分。他に目が向くはずはない。
 そんなことは誰に言われるまでもなく知っている。それでもなお。
「見ていたく、ないんだ」
 きれいな女性に囲まれている夏樹を。彼は自分のものだと言ってしまえたなら、どれほど気が楽になるだろう。
「――言えるわけがない」
 呟いて、酒を飲み干した。立食式の会場は、呆れるほどボーイがうようよとしている。客の酒がなくなったと見るやすぐさま飛んできて新しい酒を勧めた。
「洋酒を」
 普段は、あまり飲まない。嬉しそうに笑ったボーイから酒盃を受け取れば、グラス越しの氷が手に快い冷たさをもたらす。
 飲まない酒でも飲まなければやっていられない気分なのは、すでに酔っているせいかもしれない。
「しのぶもぢずりたれ故に――」
 気づけば口ずさんでいた。そんな自分に呆れてしまう。が、後悔するより先にまた捕まった。
「水野さん」
 百人一首解説を請け負ってしまった、あの雑誌の編集者だった。慣れない文章に四苦八苦していると知っているせいか、何くれとなく世話を焼いてくれる。
「いまの、百人一首ですよね。今度はそれで決まりですか」
 言われてみてそういえばそうだ、と思い出した。苦笑する真人をどう思ったのか、連載が実に好評だと編集者は嬉々として語る。
「それはありがたいです。本職ではないので、嬉しいです」
 それほど深い付き合いをしている相手ではないので、どうしても口調が固くなる。夏樹の性癖が染ったか、と思って小さく真人は微笑んだ。
「そういえば」
 ふと思いついた、といった調子で編集者が言おうとしている言葉が、真人はわかる気がした。
「水野さんは恋歌ばかりお詠みになるんですよね。やっぱりあれですか、どこかに人知れず恋人がいたり、とか……」
「まだそんな話になっているんですか」
「あ、違うんですか」
「さぁ。どちらとも言いません」
「巧いなぁ、水野さん」
 案の定の言葉に案の定のやり取り。決まりきっていて、もしかしたら出版業界には定型文でもあるのではないかと疑いたくなってくる。
「それはそうと。水野さんだったらご存知でしょう」
「なにをです」
 問う前から、こちらもわかっていた。氷の溶けた洋酒を喉に流し込んで笑みを浮かべる。どうかせめて強張ってはいませんように。
「篠原先生ですよ、篠原先生。決まった方、いらっしゃるんでしょ」
 まさかいないとは言いませんよね。そんな声まで聞こえてきそうな、これも定型文。いっそ様式美にまでなれば諦めようも愛でようもあるものを。
「仮にいたとしても、私が口にすることじゃないですから」
「またまた、そう堅いことを言わずに」
「私は篠原の書生にすぎません」
 何度も何度も繰り返してきた言葉。昔から繰り返し見てきた女性に囲まれる夏樹。溜息を必死で飲み込む。
「誰が書生だ」
 はっとして振り返った。動揺のあまり、手の酒がこぼれて指をぬらす。
「篠原さん……」
「一人前の立派な歌人だ。いつまでも書生扱いしていいものでもあるまいよ」
「していただきたいです、僕は」
「まぁ、公には、と言うところか」
 そう言った夏樹の眼差しが仄かに和んでいた。ほとんどの場合、どこに出るにも夏樹はいまだに和装を貫く。
 洋装が苦手だというのももちろんあるのだろうが、単にせめても気が楽でいたい、と言うことなのだと真人は知っている。
 その気を楽にするはずの着物の袖を夏樹は気にしていた。振ったり揺すったりと忙しい。
「いかがなさったんです、篠原先生」
 途端に夏樹が仏頂面を取り戻す。もっとも、編集者に区別はついていないだろう。それがどことなく嬉しい真人だった。
「何でもありません」
 言い捨てて、けれどまだ袖が気になっているらしい。
「僕が見ましょう」
 そこまで不器用だとは思いがたいのだが、自分ではなにが気になっているのか、彼はわからないらしい。
 編集者にグラスを預け、濡れた手をまず拭おうとすれば、手品のように鮮やかに夏樹が手巾を差し出した。
「篠原さん」
「なんだ」
「どうしてご自分で袖が見られないんですか」
「我ながら疑問だ」
 また目が柔らかくなる。それにかすかな笑みを返し、真人は袖を探った。
「これはまた……古風な」
「ちょっと待て」
「見たりしませんよ、ご心配なく」
 袖の中から出てきたのはある種の手紙、だろうか。この際、恋文と言うべきかもっとあからさまに付文と言うべきか、悩む。
「お前ね……」
 何かを言いかけ、けれど夏樹は言葉を止めてボーイを呼び止めた。なにを、と思っているうちに灰皿をもらう。
「そのままそこに。あぁ、火は持っているか」
「こちらに。どうぞ」
「けっこう。そのまま」
 笑みもなくこれを言うのだから人によっては夏樹を横柄だという。無理もない、と真人なども常日頃から思っているのだが、これは違った。本当に横柄だ。
「篠原さん――」
 止める間もなかった。灰皿の上に掲げた手紙に火は移り、あっという間に燃え落ちる。
「洒落た依頼か何かだったら、どうするおつもりなんですか」
 間違ってもそれはない、と思いつつ真人はあえてそう言う。人嫌いの偏屈者の上に奇矯までついてしまってはさすがに夏樹も後々困るだろう。
「仮にこれが依頼であったとする。だったらなんだと言うんだ。こんなやり方は目的がどうであれ、気に入らない」
 声音に感情を染み込ませずに夏樹は言う。それだけ、怒っているのだと見当がつく。
「興がそげた。帰ります。琥珀」
「はい、篠原さん。では、お先にお暇いたします」
 さらりと編集者に礼をして真人は夏樹の背を追う。こんな調子だから、書生風情だのと陰口を叩かれるのだとわかってはいるのだが、望むところなので文句もない。
「夏樹」
 会場を遠く離れるまで夏樹は一言も口をきかなかった。無理もない。人ごみにいるのだけでも、疲れているだろう。
「……悪かったな」
 ぼそりと言うのは、まだまだ不快が残っているからか。真人はだから微笑む。
「こういう時って、やっぱり妬いて見せるべきなのかな」
「……たまにはな」
「だったら、どうしようかな。こんな気持ちにさせてくれたお詫びに、なにをしてくれるの、夏樹」
「お前の望むことならなんでも」
 間髪入れずに返ってきた言葉に真人は晴れやかに笑う。つられたよう、夏樹の強張った口許が緩み、そして笑みになった。




モドル