百人一首用の原稿を書きながら、真人は思わず苦笑を漏らした。
「本当に、そうだったな……」
 今回取り上げたのは、思いが叶う前よりもなおいっそう叶ったいまのほうが狂おしい、そんな歌。
「どうした」
 本職ではない真人を気遣ってのことか、夏樹はちょくちょくこうして原稿を覗いてくる。ありがたいことではあるのだけれど、面映くもあった。
「ううん。別に」
「と、言う顔には見えなかったが」
「ちょっと思い出していただけ。本当だよなぁ、と思って」
 なにがだ、と訝しそうな顔をする彼に歌の内容を話して聞かせる。実のところ、これが一番ありがたい。
 真人は歌人で、歌の用語などと堅苦しく言わなくとも、身のうちにすっと歌の意味が入ってくる。だが、余人はそうではない。
 少なくとも、夏樹は違う。なにがどう違うのか、自分はなにが疑問なのか、それを真人にわかる言葉で教えてくれる彼がいるからこそ、この随筆は成り立っている、と真人は思っていた。
「ちょっとだけ、昔のことを思い出してね」
 知り合った当事のこと。思い合うようになってからのこと。それから一方的に真人が身を引こうとしたこと。
「若かったな、と言うべきかな」
「僕がってことなの」
「いや、どちらかといえば両方とも」
 自分勝手に動いたと自覚のある真人は、思い出すだけでも恥ずかしくなる。ただ、それでもやはり露貴のことは避けては通れなかったと思う。
「あなたがね、気づいたら好きだった」
 零れ落ちたような言葉に夏樹が息を飲む。偏屈とは彼の場合純の裏返しなのではないかと真人は時折思うのだ。
「信じられなかったよ」
「俺がか」
「違うよ。あなたが僕を好きなんだってことが」
 いまだに思いを告げたあの一瞬、真人が硬直して答えなかったことを夏樹は恨みに思っているらしい。口にこそ出さないものの、言葉の端々に感じないはずもない。
「本当にね、僕はただ思いがけず会った人が、作家で、気づいたら好きで。そのときはあなたが篠原だとは知らなかったけど、作家なんだったらもう書生を、できれば一生続けられればいいやって。本当にそれだけ思ってた」
「おい」
「でも、本当」
 にこりと真人は笑う。いまだからこそ、こんなことが言えるのだと、もう過去のことなのだと。
 その表情に夏樹の口許がほころんだ。軽く真人の頭を引き寄せては額をこつりとぶつける。小さな吐息の音がした。
「それでさ、びっくりすることに、思い思われだったわけじゃないか。こんなに幸せなことってあるのかなって」
「――お前」
「ん、なに」
「悩んだか」
「夏樹。いくら僕でも怒るよ」
「いや、そういうわけじゃ……」
「――悩んだよ。僕だってまともな男だ。どうしてあなたなの。そりゃ見た目は美形だけど。でも、縦にしようが横にしようが、あなたは男にしか見えないしね」
 悪戯っぽい真人の口調に夏樹こそ苦笑する。そして気づく。はて、自分はそれほど悩んだか、と。断られるだろうことを前提にして手放したくない、ならば黙っていようと悩んだような気はするが、真人の性別がどうのと悩んだかどうかは我ながら疑問だった。
「どうしたの、夏樹」
「いや、別に」
 話してもよかったが、なにやら誤解を招きそうなので夏樹は黙って微笑むだけにした。
「そうか、お前」
「なに」
「俺の口から言うのもなんだがな。俺を手に入れる前も悩んだが、それより後のほうがよほどつらかった、とそういうことか」
「夏樹」
「なんだ」
「それ、自分で言うの」
「だから断っただろうが」
 呆れ顔の真人に夏樹はあえてにやりと笑う。つられるように彼の口許がひくつき、そして笑みになる。
「もう、あなたは」
 じゃれるよう肩の辺りを撫でるように叩いた。真人は決して夏樹の肩を叩きはしない。痛みもしない古傷を思いやって。
「でも、まぁね。否定はしないよ」
 どれほど露貴のことがつらかったか。言うまでもない。言葉にはできない。しても言い尽くせない。
 だが真人は知っている。たぶん、夏樹もわかってはいる。
 露貴のほうが、よほどつらかったことを。知らないふり、見ないふり。何も気づかないふり。それが優しさにもなる関係だと真人は飲み込んだだけだ。
 理解したわけではない。今でも自分の体より露貴を優先する夏樹に腹を立てることがある。原稿を放り出して露貴の頼みを聞きにいった夏樹に苛立ったこともある。
「まぁね、長いこと一緒にいれば、それだけ腹にたまるものもあるよね」
「俺はないぞ」
「なんだ、まだ聞いてたの」
「……それはないんじゃないか」
「ごめん。ちょっと集中してたものだから」
「そりゃ、悪かった。退散しよう」
 言葉面だけ取ればこの上ない嫌味のくせに夏樹は実に爽やかに言う。
「同じ物書きの情けだ。放っておいてやるよ」
「ありがたいけど。僕があなたと同じ物書きって言うのは納得できないな」
「長いか短いかの差だ」
 あっさり言って夏樹は庭に降りていく。そんなものではないだろう、と思いはしたものの、真人はそれ以上を言わず原稿用紙に目を落とす。
 もしもいま、露貴と自分とどちらを取るのか、などと夏樹に問えば彼が困るのはわかっていた。
 どちらを愛しているのか、と問うのならば答えは一つ。だが、露貴の頼みと真人の頼み、同時にされたのならば優先するのはどちらなのだろう。
「……物分りよく引くべきだね」
 そうすれば夏樹が感謝してくれるから。また自分のところに確実に帰ってきてくれるから。
 これは間違いのない打算でしかない。そんな自分が若いころから嫌いだった。いまなお直らないのだから、たぶん一生直らないのだろう。
「諦めて一生付き合うしかないよね」
 こんな自分だから。こんな自分でも夏樹はいいと言ってくれるのだから。
「本当に」
 思い思われた幸福など一瞬だ。それからはこうしてそばにいてすら悩む日々。
「それでも、幸せだ」
 呟いてみれば、口許に笑みが浮かぶ、零れる。眼差しが庭を向く。いるはずの人を探して。
「また、あの人は。どこ行っちゃったんだか」
 文句を言う口調も柔らかい。思えばこうして過ごしてきた日々だった。
 これがたぶん、幸福と言うものなのだろう。大きくはなく派手でもない。ただ、気づけばここにある。それが何よりありがたい。
 そんな思いが原稿用紙に焼きついてしまいそうで、慣れない文章に真人は苦労する。不意に手が止まった。
「ねぇ、夏樹」
 呼びかけてから、出かけているらしいことを思い出す。だが意外にも返答があった。
「なんだ」
「あれ、どこかに行ってたんじゃなかった」
「もう帰ってきたよ」
 言って彼は包みを掲げる。気に入りの和菓子屋の包みだった。
「あぁ、おやつなの。お茶、淹れるよ」
「ありがたい」
 ほっとしたよう夏樹が茶筒を手渡してきた。どうやら茶っ葉の分量で悩んでいたらしい。知らず浮かぶ笑みをこらえかねれば悪戯に睨まれた。
「それで、なんの用事だったんだ」
「ん。三千世界の鴉を殺しって、あるじゃない」
「あぁ、都都逸か」
「うん。あれ、志士の誰かの作だったよなって思って。誰だっけ」
「――知らんな」
 新撰組贔屓の夏樹はそっぽを向いて答えない。それどころか腕まで組んで口を固く結んでいる。ここまでくると子供じみていて、おかしい。
「笑うな」
「笑ってない」
「嘘をつけ」
「本当なのに。僕を信じてくれないんだね」
「いや、それは……」
 途端にしどろもどろになる夏樹が可愛いと思う。出逢ったころは凛とした刀のような人だった。いまはどうだろう。少なくとも、自分といるときだけは可愛らしい人でもあると真人は思う。
「本当に、あなたって人は――」
 文句を言おうとしたのか、それとも本人に向けての惚気だったのか。生憎と夏樹はそれを聞くことができなかった。
「よう。久しぶりだな」
 ふらりと庭から顔を覗かせ、それに留まらず勝手知ったる他人の家とばかりに上がりこんだ男。
「露貴、よく来たな」
 夏樹が微笑む。自分に向けるそれと違うからと言って妬く理由はないはずなのに、ちくりと胸が痛むのもいつものこと。
「ご無沙汰してます、露貴さん」
 にこりと笑ってちょうど入ったばかりの茶を差し出す。おかげで自分の分は淹れなおしだ。
「ちょうど夏樹がおやつを買ってきたところなんです。中は僕も知らないんですけど。召し上がりませんか」
「そりゃありがたい」
 まるでこだわりなく露貴は微笑む。こんなとき、自分の未熟さに真人は腹を立てる。何も思っていないはずはない。それなのにあれほど見事に立ち振る舞う露貴。
 情けなさに悩むのは後にして、とにかく茶菓の用意を調えた。見れば和菓子は案の定。
「やっぱり夏樹が買ってきたの、お団子でしたよ」
 笑いながら出せば露貴も笑う。少し不満そうに夏樹も笑っていた。それから二人は用事があるのかないのか取りとめもないことを語り合う。
 見ていてもよかったけれど、真人は少し下がって原稿の続きを書きはじめた。あと少しで終わるのだから。耳が二人の会話を心地良く聞いていた。
「そうだ、露貴さん。三千世界の鴉って都都逸。作者は誰でしたっけ」
「誰だったかな。諸説あった気もするし自信はないけど、高杉晋作じゃなかったかな」
「ありがとうございます」
 知っていて答えなかった夏樹は露貴のほうを向いて顔を顰めていた。真人は小さく微笑み、これもまた幸せなのかもしれない、そう思う。




モドル