春は名のみの、と言うほど浅くはないはずなのに、今日は妙によく冷える。ここしばらく暖かかったせいかもしれない。 「夏樹」 縁側の定位置について庭をぼんやり眺めている夏樹を呼べば、あからさまな生返事が返ってきた。 「ねぇ、聞いてるの」 「聞いてる、聞いてる」 「嘘、夏樹ったら。ちょっと」 苛立った真人の呼び声にはじめて気づいたかのよう彼はのろりと振り返った。 「なんだ」 その眉間にはくっきりと皺が刻まれていて、もしもここにいるのが真人でなかったのならば不機嫌に怯むほど。 「だから、聞いてるの」 けれど真人であった。この程度の不機嫌には不本意ながら慣れてしまっている。 「なんだ、と言っている」 しかし夏樹であった。癇症な真人の声に、こちらもまた怯まない。拳を握り込んだところを見れば、声を荒らげるのをこらえているのが明らかだった。 「風邪をひくよって言ってるの。一枚、羽織りなよ」 「要らない」 「夏樹」 「――ちょっと黙っててくれないか」 「そう。もういい」 ふい、と顔をそむけて見せるのに夏樹は気づいた様子もなかった。真人だとて長い付き合いだ、わかってはいた。 いま彼は小説の構想を考えている。あるいは何か良い種を思いついたのかもしれない。 本当ならば、放っておくべきだ。ここにいるのが彼の編集者ならば一も二もなく黙ったことだろう。だが、真人は違う。 足音高く台所へと下がっていく。夏樹は気づかず庭を見ている。見てなどいないと言うことも、嫌々ながら真人はわかっていた。 「……別に、看病するのが嫌だとか、そういうんじゃないけれど」 むっとしながら洗い物などすれば、間違いなく食器を割る羽目になる。案の定、ひびの入っていた皿を一枚、割った。 「もう」 溜息まじり、裏庭にまわる。履き古しの下駄の音すら、腹が立つ。ちらりと庭のほうを見やったけれど、ここから彼が見えるはずもない。 「まぁ、いいよね」 言い訳をする自分にも、腹が立った。どうせだったら思い切り金切り声でも上げて怒れればどれほどすっきりすることだろうかと思わないでもない。 「わかってるけどね、無理だって」 長い溜息をついておいて、そして真人は割れた皿を土に叩きつける。派手な音がして、割れた皿は更に粉々になった。 「あぁ、もう。すっきりなんかするわけないじゃないか」 八つ当たりに物を壊してみても、それが元々壊れたものであったとしても、自分がよけいに苛立つだけだ。 「ほんと、いやだ」 こんな自分がか、それともこんな気持ちにさせた彼がか。思った途端にちらりと笑った。そのまま庭へとまわってみれば、物音に気づいた気配もない夏樹がじっと佇んでいた。 「夏樹」 小さく呼んでみる。返事をされたらかえって困ってしまっただろう。予想通り、返答はない。 けれどこんなとき、少しだけ真人は夏樹が怖くなる。じっと身じろぎ一つせず、どこを見るでもない目をした夏樹は人形のようだった。呼吸すら止まってしまっているかのようで、それが少し怖い。 じっと眺めていると時折思い出したかのよう、息をする。だから彼は息さえ止めて考えている。 「止めてるわけじゃ。ないんだよね」 呼吸をすることを、彼は忘れる。それほど必死に考えている。本人は必死になっているつもりなどないだろう。 「わからなくは……ないけど」 たぶん、自分もそうなのだ。どのような形で表出しているか、真人は知らない。けれど自分も間違いなく同じだと思う。 彼は小説を考える。自分は歌を考える。そのとき自分はここにあってここにない。それがわからなくはない。 「でも――」 元々人形のように美しい人だから。真人は怖くなる。今ここに立っている自分さえ、夢のような気がして怖くなる。 「真人」 不意に呼ばれた。ここにいることに気づいているとは思っていなかった真人は飛び上がるようにして驚いた。 「な――なに」 思わず言葉がもつれたのに、夏樹は気づかない。まだ、彼はここにいなかった。 「視界に入ってくれるな」 無造作な言葉。真人は物も言わずに背をひるがえす。わかってはいた。わかってはいる。 あれは夏樹が言わせた言葉ではない。夏樹がいま何を書いているのか、書こうとしているのか真人は知らない。けれどどうやら性格のきつい登場人物がいるらしいことは見当がついた。あれは、その言葉だ。 「――悪いな」 まだ庭に向いたまま、真人の背中に夏樹は言う。とても遠い声だった。 「わかってるよ」 真人も振り返らず答える。その言葉は夏樹のものだとわかったから。 無言で、春真のおやつ作りに精を出す。学校が終われば、飛んで帰ってくるだろう。成長期の彼は腹を空かして帰ってくるだろう。 「……ほんと、いや」 今度こそ、こんな自分が。何かに集中していなければ声を上げて喚きたくなる自分がいる。 「わかってるけど。わかってはいるけど」 自分だとて、歌に必死なときにはたぶん、同じ態度を彼にとっているのだろう。 「でも、僕はこれほど酷くない」 むっとして出来上がったおやつをしまう。夏樹にいつもだったら少し、持って行く。食が細い人だから、少しでも何かを口に入れて欲しいから。 「でもいや。今日はもういい」 そう思う自分に苛立ち、真人は音を立ててしまったばかりの菓子を取り出す。思い切り睨みつけておいて、やはり少し皿に取り分けた。 無言で縁側に持っていく。皿を置いたときにも黙ったままだった。夏樹は気づかない。 いいけど。小さく呟いて、真人は無言で自分も机に向かった。本当ならば、こんなときに歌を詠みたくはない。 「絶対に、後悔する」 わかっているのにしてしまうのは、それでしか自分の心をなだめようがないから。 何枚もの紙が乱舞する。苛立ちの歌。腹立ちの歌。離別の歌を詠んだときにはさすがにすぐさま破り捨てた。 「……そこまでは、ね」 それでもまだ気持ちが修まらず、何首も何首も詠み続ける。 「――真人」 声をかけられて、はっと顔を上げた。気づけば薄暗い。道理で字が見えにくくなっていたわけだった。 「……何」 「いや、これ。旨かったよ、ありがとう」 「ふうん。そう」 「……真人」 自分の態度を夏樹が詫びていた。口になどしなくとも、理解できないわけがない。それでも真人はそっぽを向く。わかっているからかも、しれない。 「ずいぶん、久しぶりだよね」 「なにがだ」 「口をきくのが。そんな気がするんだけど、僕の気のせいかな」 腹立ちが、まだ納まらない。そんな態度で真人は言う。けれど、どうだろうか。自分でも馬鹿馬鹿しいほど、彼が名を呼んだとき、気持ちが涼しくなった。 「人の気持ちってのは、わからないものだな」 「なにが。夏樹、わかってるの。僕は――」 思い切り睨もうと振り返れば、薄明かりの中で夏樹が微笑んでいた。それがあまりにも先ほどの彼と違って、体温が感じられそうなほど、温かで。真人はそれにこそ、怯んだ。 「お前、怒ってるだろう。真人」 「この顔見て、わからないの。えぇ、怒ってますよ、僕はまだ怒ってますとも、もちろんね」 「だから」 ふっと夏樹の口許がほころぶ。いつまでも怒っているのが難しいほど、きれいな笑みだった。 「そもそも、なんで怒ってたんだ、お前は」 からかうような声音。真人は言葉を返せない。 「俺が風邪をひくのひかないので、怒ってたんだろう」 尋ねる彼に真人は驚く。聞こえていたのか、ちゃんと。自分の声が、届いていたのか、あの状態で。 「お前の声は、聞こえてはいるんだ、俺には」 うなずいて、夏樹は言う。その言葉にどれほど真人の心が温かくなることか。 「まぁ、聞こえているだけ、なんだがな」 「それだよ。それじゃ、意味がない。――僕にとってはね。わかってはいるよ、でも」 「心配かけたな」 言い募ろうとする真人の言葉を鮮やかに夏樹は奪った。息さえ止められたよう、真人はじっと彼を見つめる。 「わかってても、どうしても止められないこともある」 「それは、僕もわかる」 「そう言ってくれると思ってた」 はらりと夏樹が微笑った。いい年をした男に対する言葉ではない。けれど真人は思う。まるで花が咲くようだ、と。 それに夏樹はどうしたのか。一度背後を振り返り、そしてかがみこんでは真人にそっとくちづけた。そしてにやりと笑う。一瞬前までの透明なそれとはまったく性質を異にする笑顔だった。 「続きは春真が寝てからだな」 「ちょっと、夏樹。待って。なに、それ。どういうことなの」 「もう帰ってきてるぞ。腹減らして騒いでた」 「嘘、ちょっと、本当なの」 「うるさいから風呂入れたぞ」 「夏樹ッ」 ありがたいのだか、もう一度腹を立てたらいいのだかわからなくなって、結局声を荒らげた。憤然と立ち上がるのは、照れ隠しだと通じるだろう。 「声をかけてくれたらいいじゃない。どうして放っておくかな」 小声で文句を言いつつ台所へ夕食の仕度に立った真人の背中に夏樹は笑い声を漏らす。 「なにがおかしいの」 むっとして振り返った真人に夏樹は目許で笑って見せる。どことなく苦笑めいていた。 「何度も呼んだぞ」 お互い様だ、と夏樹は声にはせず言う。思わず見つめ合う。それからお互いに仕方ないな、とばかり力なく笑いあう。風呂の中、腹が減ったと騒ぐ春真の声が聞こえた。 |