「今日はね、学校の桜がきれいだったんだよ、真人さん」
 せっせと夕食を口に運びながら春真が言う。今夜は食べ盛りの春真のためにコロッケだった。食の細い夏樹には小さく作り、ほうれん草を混ぜてみた。どちらかといえば偏食の子供のための食事ではないかと思うのだが、中々に効果がある。
「そう、よかったね」
 にこりと笑って言ったけれど、夏樹が表情を険しくさせた。
「春真、よしなさい」
「あ――」
「いいよ、夏樹。大丈夫。きれいだったの、ハル」
「あ、うん。ごめんね」
「いいんだよ、伯父様の気にしすぎ」
 もう何度も春真はこの家で春を迎えている。真人が桜の花を好まないのも知っている。それでもきれいなものはきれいだ、と言ってみたいのだろう。
「ねぇ、真人さん」
「ん。なに」
「桜、嫌いなの」
 箸を持ったままの春真の手を、夏樹は音がするほど打った。はっとして春真は言葉を止め、真人は夏樹を睨む。
「あのね、夏樹。躾ならそれはそれで理由がある時にして。そうじゃないならそれは躾とは言わないよ」
「人が嫌がることをわざわざ聞くような男にするつもりはない」
 だから躾だ、と夏樹は嘯く。あながち間違ってはいないと思わなくもないけれど、春真はまだ子供なのだ。
「あんまりね、好きじゃないよ」
 だから真人は言う。痛そうに手を押さえている春真が可哀想になってしまったのかもしれない。
「どうして。きれいだと……思うけど、な」
 ちらりと夏樹を見やった目つきにまた夏樹が渋い顔をした。
「人の顔色を窺いながら口にするならば、はじめから言うんじゃない」
「だって」
「口答えするのか」
「夏樹。言ってよければね、その言い方は子供の喧嘩」
 一刀両断して真人は何事もなかったかのよう、食事を続けた。むつりと黙ったから、夏樹にも自覚はあるのだろう。
 嬉しくないわけではない。長い時間を共に過ごしてもまだこうして見せてくれる気遣いに心が温かくもなる。
 ただ、できれば春真の前では、やめて欲しかった。子供とはいえ、物事がわからない年でもない。気恥ずかしいのが半分、困惑が半分と真人は苦笑する。
「真人さん」
 苦笑いに春真が不思議そうな顔をした。口許についた米粒に真人は笑い、伯父様に叱られるよ、と言いつつ取ってやる。
「ありがと」
「春真」
「なに、伯父さん」
「ありがとう、だ。言葉はきちんと使え」
「はぁい。……じゃないよね、はい、伯父さん」
 にっと笑って言うところなど、間違いなく夏樹の血縁だと真人は笑いをこらえた。むしろどちらかといえば露貴の血縁、と言ったほうが近いかもしれない。少なくとも生真面目な夏樹の弟が実の父と言うより、よほど夏樹の息子と言ったほうが信じられる気がした。
「春真」
 怖い顔をして見せても春真は実はこの伯父が自分を心から慈しんでくれていることを知っている。殊勝げに頭を下げて、けれどちらりと真人を窺って笑みを浮かべた。
「ハル」
 これには真人が今度は怖い顔をして見せる。それに春真はきゅっと唇を引き締めて、きちんと伯父に詫びた。
「いい子だね、ハル」
「小さな子みたいな褒めかた、よして欲しいな。真人さん」
「だって小さいじゃないか」
「そんなことないもん」
 言う辺りが子供なのだ、と真人は言わない。夏樹が無言のうちに同意しているのを感じた。
「ねぇ、真人さん」
 自分のコロッケを食べ終わってしまってもまだ、春真は食べたりない様子だった。それを見るともなしに目に留めた夏樹が自分の分をそっと春真の皿に移す。
「やった」
 真人に話しかけたのをそっちのけにして、春真はコロッケにかぶりつく。
「ハル、ご飯は」
「うん、いただく。お願いします」
 差し出した茶碗にご飯をよそいつつ、真人は育ち盛りとは立派なものだと思う。そして食べたいだけ食べられる春真に幸福を覚えた。
「それで、ハル。何か言いかけたのじゃなかったの」
「あ、うん。その、さ。なんで桜の花、嫌いなの」
「春真、いい加減にしないか」
「いいよ、夏樹。別に隠すようなことじゃないけど――」
「あ、真人さん。言いたくないんだったらいいんだ。ちょっと気になっただけなんだもん」
 つくづくこの伯父甥はよく似ている、と真人は微笑みたくなった。なぜか、泣きたいような気分だった。
「隠すようなことじゃ、ないんだけどね。でもね、ハル」
 一度言葉を切り、春真を見つめる。はじめてこの家にきたときには本当に小さな子供だった。いつの間にか、ずいぶん背丈も伸びた。子供らしいふっくらとした頬も、そう遠くないうちに引き締まるだろう。
「いつか、そうだね」
 けれどいまはまだ。真人は口をつぐむ。強いて笑みを浮かべれば、目の端に夏樹の気遣わしげな表情が映った。
「ハルがもっと大きくなって、僕の話をちゃんと受け止められるくらいになったら、そうだね。そのときには話してあげるよ」
 もっと何かを言うかと思った。小さな抗議くらい、せめてするだろうと思った。けれど春真は。
 黙って真摯な目をして、子供ながら精一杯の真剣さで、うなずいた。
「わかった、真人さん」
 それは早く大きくなるから、と言ってでもいるようで、真人は不意にこの子供が愛おしくなる。血を分けた我が子と言うわけでもない。けれどもしも自分に子があったとしたら、こんな気持ちにもなるのだろうかと思うほどに強い思いだった。
「待ってるよ、ハル」
 この子には、父もあれば母もある。いまは離れている実家に戻れば、この子を深く慈しむ両親がいる。春真はただ、預かっているだけだ。伯父である夏樹が、預かっているだけだ。自分はただその手伝いに過ぎない。
 それなのに、どうしてこれほどまで愛しいのだろう。
 夕食の後片付けを済ませ、春真が寝てしまってもまだ、真人はそんなことを思っていた。ぼんやりと、春の朧に潤む夜空を見上げる。庭に出れば夜はまだ寒いだろう。
「真人」
 普段の夏樹の定位置に座って空を見上げる真人の肩、手が置かれた。
「うん」
 返答にはなっていない。それでも二人の間ならばそれでよかった。
「なんだかね、ハルが自分の子みたいな気がしてきちゃったよ」
「今更なにを言っている」
「だって」
 笑う夏樹に真人は目を向ける。先日の口論が響いているのか、きちんと上着を羽織っていた。
「冬樹は、お前に預けたんだ。俺にじゃない」
「そんな」
「いいや、本人が言ってたぞ。兄さんだけだったらそんな無茶はとてもできなかったってな」
「……一理あるけどね」
「おい」
 憤慨した風な声。真人は小さく笑い声を漏らした。
「お前は春真の親にはなれん。でも育ての親ならば、いいんじゃないのか」
「僕みたいなのが育ての親を名乗るのはちょっとね」
「俺よりはましだ」
「まぁね」
「真人、ひどくないか」
 いい年をして拗ねて見せる夏樹に胸が温まり、真人はちらりと春真の寝間を窺ってから、彼に身を寄せる。
「今日は一日、何かおかしかったな、お前」
「気づいてたの」
「わからいでか」
 自慢そうに言う声も慕わしい。頬を寄せた肩先から、彼のぬくもりが伝わってくる。
「百人一首、あるでしょ」
「あぁ」
「春だから、桜の歌をってね、言われて。ちょっとね」
「断れ」
「そうも行かないよ。だいたい桜の歌はいくらでもあるんだ。僕の気にし過ぎってだけだよ」
「元々本業じゃないんだ」
「でも、一度引き受けた。だからこれは僕の仕事」
 きっぱりと言う真人に夏樹は胸を打たれる。いつからこれほど彼は強くなったのだろう。これが本来の彼なのかもしれない。
 あるいは、と夏樹は思う。自分と知り合い、そしてここ数年では子育てまで押し付けられているせいかと。
「お前――」
 なにを言いたかったのか、言葉の途中で見失った。お前は強いと言いたかったのかもしれない。お前が愛しいと言うつもりだったのかもしれない。どちらでも、同じことかもしれない。
「まぁね、ちょっと気にし過ぎだって言うのは、わかってるから」
「そうでもないだろう」
「ううん、わかってる。ただ、これも僕だって、いまは思うだけ」
 そして真人は夏樹から身を離す。真正面から彼を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「巧く言葉にはできないけどね、夏樹」
 ゆっくりと、夏樹の頬を指でなぞる。出逢ったばかりのころの精悍さは失った。若さだけが持つ鋭い刃物のような張りを彼は失くした。代りに緩やかに大きくなった。真人はもちろん、本人とは関わりのないところで色々あった弟すら、手助けできるほど。
「泣いたり笑ったり、色々あって、色々あるのが、生きてるってことだって、教えてくれたのはあなただよ」
「そんなに偉そうなことを言ったかな」
「言ってない。でも、僕はあなたからそう教わった。生きていていいんだって、教わったんだ」
 死んでしまった戦友たち。生き残ってしまった自分。夏樹に拾われて、そして今ここに至る。何のためらいもなく幸福だ、と言い切れるほど胸のつかえは取れてはいない。それでもいつかは言える、そんな気がした。




モドル