ぱたぱたと、軽い足音が迫ってくる。土曜の午後だった。半日で学校を終えた春真が帰ってくる。 「聞いて、真人さん」 振り返れば、満面の笑みを浮かべていることだろう。すげなく扱うには可哀想だと思いはするものの、振り返った真人はそっと唇に指を当てる。 「あ……」 真人の仕種に春真は口をつぐむ。それから居間を振り向けば、万年筆を手に微動だにしない夏樹の姿。 「伯父様、考え事してるから。ね」 「うん」 「ごめんね、ハル」 「どうして。悪いのは真人さんじゃないでしょ。いままで仕事してなかった伯父貴が悪いと思う」 実に偉そうに言った春真に思わず真人は笑い出しそうになり、慌てて口許を押さえる。そんな真人に目を留めて、春真もまた微笑んだ。 「お散歩行こうか、ハル」 いま帰ってきたばかりではあるけれど、彼は彼で話したいことがあるようだったし、かと言ってこのまま話していては夏樹の邪魔になってしまう。 「うん」 にこりと、それは嬉しそうに春真は笑った。だから真人はどこに連れて行こうか、考えてしまう。 連れて行きたい場所がないのではない。逆だった。色々なところに春真をつれて歩きたい。季節は春。見たいものも見せたいものもいくらでもある。 「まずは、おなか空いたよね。ご飯にしよう」 まめに食事の仕度をする真人のいる家庭だ。男所帯とは思えないほど、外食は稀だった。だからこそ春真は喜ぶ。ぱっと表情が光るようだった。 「――もう、昼か」 不意に声が上がって、なぜか二人で飛び上がってしまった。顔を見合わせて笑う。別に悪いことをしていたわけでもないのに、どうしてそれほど驚いてしまったのだろう。そんな笑みが互いの顔に浮かんでいるのを見て、また笑い出した。 「どうした、真人。――春真、帰っていたのか」 いまのいままで春真の帰宅に気づいていなかったらしい。ならばこのまま話していてもたいして問題ではなかったな、と真人は思う。もっとも、春真と出かけたい気持ちも嘘ではなかったから、どちらでもよかった。 「うん、帰ってた。ただいま帰りました、伯父さん」 「あぁ、お帰り。早いな」 具合でも悪いのか、と言わんばかりの不思議そうな声音に、真人は笑いを隠すのに忙しい。 「伯父さんじゃあるまいし。僕は丈夫だよ、今日も元気です。伯父さん、忘れたの、今日は土曜日」 「あぁ……そうか、土曜日か」 「本当に、大丈夫なの、伯父さんってば」 呆れ返った、と春真の頬に書いてあった。真人としてはどちらかといえば夏樹の肩を持ちたい。文筆業の人間に曜日の感覚を持て、というのが間違っているのだ、と。さすがに小学生相手に言うことはできないが。 「夏樹。ご飯にしようか」 言った途端に、春真ががっかりした。あとで埋め合わせはするから、と目顔で言えばしょんぼりとうなずいている。 「どこかにいくとか何とか、言っていなかったか、いま」 「あ、うん。聞こえてたの。あなたは忙しいみたいだったから、ハルと散歩ついでにご飯食べてこようかと思って」 「そうか。……だったら、同行しようかな」 「夏樹」 本当にか、なにを言っているか自分でわかっているか。疑いもあらわな真人の声に夏樹は小さく笑う。目許がずいぶんと和らいでいた。 「俺が外食するのがそんなに変か」 ここでうん、とは真人は言えない。長い付き合いとはいえ親しき中にも礼儀あり、と言う言葉もある。だが。 「変。思いっきり変」 勢いよく言った春真に、夏樹は微笑った。どことなく遠い目をしているような気がして、気が気ではない真人に、夏樹は眼差しを向ける。 「まだ半分頭の中にいるようなものだがな、それでもよかったら、一緒に行こうか」 「それは僕の台詞。いいの、仕事」 「言いたくないが、行き詰った。気分転換がしたい」 すらりと立ち上がり、夏樹は羽織を手に取る。家の中でも当然、夏樹は着物姿だ。春先に、着流しで外に出るなど、真人が決して許さないのを彼は知っている。 「うわ、珍しい」 「本当だね、雨でも降るかも」 「真人さん、洗濯物、しまって行ったほうがいいかも」 「ご冗談。もうとっくに取り込んであるよ」 「さすが真人さん」 息のあったやり取りで自分をからかう二人を、夏樹は苦笑するにとどめた。自分でも珍しい、と自覚があるせいかもしれない。 外に出るなり、春真はどこがいいのここがいいのと真人にまつわりつく。そんな二人を温かい眼差しで見ている夏樹に真人は気づく。 「夏樹」 「どうした」 「それは僕の台詞だって、さっきも言った気がするね」 「聞いたな」 密やかに笑いを漏らし、夏樹は春真を見やる。やはり、普段の目つきと違う気がした。それではじめて真人にも納得が行く。 「ねぇ」 走り出した春真に一応の注意をしておいてから、真人は小声で夏樹に言う。 「今度の小説、子供が出てくるんだね」 あまりにもきっぱりとした断定調で、夏樹こそが驚いた。けれどその表情が蕩けていく。篠原忍を知る編集者が見たとしても決して信じはしないだろう、その顔。 「わかったか」 「うん。ハルのこと、観察してるから」 「言葉が悪いが、まぁ。そのとおりだな」 「いいんじゃないの。余所様の子を見るよりはずっといいと思うよ。変質者扱いはたまらないものね」 もっともらしくうなずく真人に、夏樹は珍しく大きく声を上げて笑った。その声に驚いたのだろう、駆けていた春真が戻ってくる。 「伯父さん、どうしたの」 それはまるで、春だから頭に何か湧いたかとでも言わんばかりの口調で、さすがに真人も苦笑した。 「お前な」 このまま放っておいたら、せっかくの楽しい外出がだめになってしまいそうだった。いささか無茶がすぎるものの、真人は話を戻してしまう。 「ハル。さっき何か言いかけたんじゃなかった」 「え、いつ」 「ほら、帰ってきたとき」 「あ……うん」 ふ、と子供ながら照れた顔をした。そんな時、奇妙なほどこの伯父甥は似ている、と真人は思う。元々顔の造作は瓜二つと言っていいほどよく似ているのだから、当然かもしれない。 「今日さ、学校でさ」 ためらいがちな声に嬉しそうな響きが混じる。それから少しばかり、困ったような声音も。 「国語の作文の宿題、あったでしょ」 何日か前の宿題だった。基本的に、春真の宿題を夏樹は見ない。たぶんそれは彼が以前、教職にあったせいだ。 漠然とではあるが真人はそう感じていた。それに加えて、国語の宿題は、まして作文は絶対に見ようとしない。いまの彼が作家であるせいだ。 「今日さ、返してもらってね」 春の午後の陽射しに、春真の頬が染まっている。つい先ほどまで、作家の目で子供を見ていたくせに、いまの夏樹は。 「はじめてかな。すごい褒められたんだ」 「それはよかった、ハル。後で見せてよ」 「真人さんは読んでくれたじゃん」 「それでも、ね」 飛び跳ねるのを必死になって春真はこらえていた。その態度がまた、真人の心を揺さぶる。 「そうか、見せてもらおうかな。俺も」 「夏樹が」 「伯父さんが」 二人分の疑問の声が重なって、夏樹は不機嫌そうな顔をする。けれど一緒に暮らしている二人はそんな程度では怯まなかった。 「たまには……見せてくれてもいいだろう」 「だって、見ないのは夏樹じゃない」 「待て。提出する前には、見ない。それは春真のためにならん。だが、返ってきたなら見せてくれてもいいと思わないのか、お前たちは」 あまりにも意外なことを聞いてしまって、真人は春真と顔を見合わせる。 「……言われてみれば、そうだよね」 「そう言えば、伯父さんに見せたこと、なかったかも」 「採点済みなら、別になんの問題もなかったよね。気づかなかった」 「うん、僕も。なんか……」 変に気を使ってしまって。春真は小さな声でそう言った。 わかってはいた。けれどやはり、とも思う。この小さな体で、春真は作家の伯父を持ったことをどう耐えてきたのだろう。言われない賞賛も非難もされているのではないか。 「伯父さんが伯父さんだからさ、前はちょっといやだったけど。でも伯父さんが宿題見てくれないってもう、みんな知ってるし」 慌てて早口になりながら春真は言う。まだまだ自分は至らない、と真人が思うのはこんなときだった。わかっていて、だから夏樹はそうしていたのだと今更理解する。 「だから、今日褒められたのは僕なんだ。それって、嬉しいよね」 春の花よりなお鮮やかに春真は笑う。隣の夏樹も眩しそうに甥を見ていた。 「でも、すっごい緊張したんだ。ねぇ、真人さん」 夏樹とは反対の隣にやってきて、手を繋ぎたそうに春真は言う。けれどもう小さな子ではないのだから、と抑えていた。 「ん、なに」 そんな春真の手をするりと真人は取った。熱いほど熱を持った子供の手。いつか夏樹のような男の手になるだろう。 「はじめてさ、真人さんの歌が雑誌に載ったときって、どんな気持ちだった」 照れ隠しか、それとも純粋な興味か。頬を赤くして見上げてくる春真に真人は微笑む。 「そうだね、言葉になんか、できなかったな。信じられないって思ったよ」 忘れることのない思いが蘇ってくる。あの時の歓喜も感動も、胸に刻まれている。今はない、加賀沈香の名と共に。 「もう一つ、同じくらい信じられないことも、あったけれどね」 「え。なに。教えてよ」 「あ、いや……その、ね。内緒」 うっかり口を滑らせたのに気づいて真人は慌ててしどろもどろだった。 「加賀沈香を見出したのは、俺――」 「夏樹、そこまで」 ぴしりと言った真人の頬は、春真のそれと同じくらい染まっていた。その春真が、顔を赤くして怒っている真人と、朗らかに笑う夏樹を怪訝そうな目で見ていた。 |