昨日の雨が嘘のようにすっきりと晴れ上がり、雲ひとつない空はまるで夏のようだった。
「あぁ、気持ちがいいね」
 まだまだ夏と言うには早すぎる。わかってはいたけれど、あまりの気持ちよさに家中の敷布をはがして真人は洗濯に励んだ。
「うん、やっぱりいいね」
 庭の物干し竿に洗ったばかりの敷布を広げれば、真白いそれが風にはためく。洗い立ての水気を含んだ匂いが心地いい。
「機嫌がいいな」
 いつもの場所で、いつものように夏樹が笑う。呆れ半分なのは、朝からせっせと働いているせいだろう。
「そりゃね」
 自分が立ち働く姿をのんびりと眺めている彼を、怠惰だ、と言うつもりはない。むしろもう少し休んでいて欲しい。そう言えば、それほど軟弱ではないと言い返されるのは火を見るより明らかだったから、真人は何も言わずに微笑むだけだった。
 ただ、心の中では思っている。子供の春真より頻繁に風邪をひくような人なのだ。気がかりでならない。
 まして先日までまた熱を出していた。たぶん、無理をして原稿を仕上げたせいだ。もっとも、それは自業自得とも言える。そうなる前にやっておけばいいのだから。
 とはいえ、物事を作り出すと言う作業がそれほど単純なものではないのも真人はわかっている。だからせめて、と思うのだ。
 せめて、回復したばかりならば休んでいて欲しい、と。
「機嫌のいいお前を見ていると、俺も嬉しいよ」
「夏樹」
「なんだ」
「それは僕が聞きたいの。どうしたの、変だよ」
「熱でもあるかって言うのか」
 そんなことを言えば夏樹の機嫌が悪くなる。せっかくの好天にそれはなんとももったいない。真人は笑いを噛み殺し、夏樹の近く、縁側へと腰を下ろす。
「あなたがそういうこと言うの、珍しい気がして、ね」
「……まぁな」
「でしょう。だからどうしたのかなって」
「ただ機嫌がいいだけだ、とは思わんのか」
「そう言う考え方もあるよね」
 にっこり笑って真人は座る夏樹の頬に手を伸ばす。熱くもなく、冷たくもなかったことにほっとした。
「お前ね」
 案の定、体調を量ったのに夏樹は気分を損ねる。が、そむけた顔が少しばかり笑みを含んでいたから本気ではないだろう。
「急に今日は暑くなったからね」
「と言うほどか。それほどでもないだろう」
「そうかな。僕の気分がいいだけかな。なんだかすっかり夏って感じじゃない」
「それはいかにも気が早い」
 そう言って夏樹は朗らかに笑った。その目が庭の敷布に吸い寄せられる。彼の目にも心地良い光景なのだろうか。
 もう何年前になるだろう。こんな所帯じみたことは気に染まないのではないか、と案じたことがあったのを真人はおかしく思い出す。
「あれ、思い出すよね」
 思い出につられるようにして歌を思い出した。そして連想がおかしくて、真人は小さく声を上げて笑った。
「ん、なんだ」
 戯れのような言葉。春真がいる生活を苦にしたことは断じてないけれど、こうして二人きりでいるのはそれはそれでまた楽しい。
「持統天皇の御製」
「……どれだ」
 わかっているだろうくせに夏樹はそう尋ねる。それはきっと真人が歌人だからだ。彼に敬意を示すためであり、下手な知識をひけらかしたくないと言う謙虚の表れでもある。それを理解する真人はこれもまた編集者の知らない篠原忍だ、否、自分の夏樹だと嬉しくなった。
「春すぎて、の歌」
「どっちだ」
 言えば即座に返ってくる答え。だからやはり夏樹は知っていて問うているのだと改めて真人は思う。それに心弾んでしかたなかった。打てば響く、とはこういうことを言うのだろう。
「あなたはどっちが好き」
 縁側に腰掛けたまま、子供のように足をぷらぷらとさせてみる。なんだか夏祭りでも近いような気がしてきてしまった自分がおかしくて、つい笑みがこぼれる。
「元の歌のほうが、好みだな。俺は」
「春すぎて夏来たるらし白妙の、衣ほしたり天の香具山」
「そう、それだ。そのほうが、きっぱりとしていて好みだな」
 無言のうちにお前は、と問われているのを感じ、真人は微笑む。どちらと言われても、本音の部分では困ってしまう。どちらも、が正しい気がするけれどここはあえて逆をいく。
「僕は定家が手を入れたほうが、好きかな」
「春すぎて夏来にけらし白妙の、衣ほすてふ天の香具山」
 今度は夏樹がすらりと暗誦する。単に読み上げているだけなのにいい声だな、と思って真人が彼を見つめれば、こちらを見ていた。顔を見合わせ互いににやりと笑みを交わす。
「定家に難癖をつけられるほど教養はないがな、どうにもなぁ」
「どこが気に入らないの」
「別に気に入らんわけじゃない。ただ、定家が手を入れたほうは戦場を駆けた女らしくないと思うだけさ」
「そう……かな」
「その手は――」
 武器を取る手だ。その目は戦場の惨さも血も見た目だ。自らの手で勝利を勝ち取り、我が子に、我が孫にその勝利を受け継がせようとした女だ。強い意志、あるいは執念。
「そんな女が詠んだ歌にしては、甘すぎる気がしてな」
「あぁ、夏が来たみたいだ、とか、衣を干すらしいとかがね」
「それだ、それ。それはそれとして女らしい柔らかいところもあったと言われればそれまでだかな。俺にはそう思えん」
「ん、わかる気はするよ」
 冷たい物言いに反して、夏樹は決して女性と言う存在自体を嫌ってはいない。どう接していいかわからなくて苦手なだけだ。母親のことがあるのだから、そうなってもおかしくはないと真人は思うのだが、幸いにしてそうはならなかったことを夏樹のために喜ぶ。
 だからこそ、夏樹は自分の考える「持統天皇」と言う存在に、あるいは小説家の目を通して見たとき、それは違う、と言いたくなってしまうのかもしれない。
「定家もさ、そうだったのかもね」
「なにがだ」
「あなたと一緒ってこと」
「だから、なにがだ」
 不審そうな、それでいて興味深そうな顔。真人とこうして話すとき、夏樹は時折こんな顔をする。会話が楽しくてしかたない、そんな時だった。
「あなたの目で見た持統天皇と、古今調の歌は一致しない。そうだよね」
「そうだな」
「定家の目で見た万葉調の歌と、彼の見た持統天皇は、一致しなかったのかもねってこと」
「あぁ……」
 なるほど、と深く夏樹はうなずいた。作家として、手を入れたくなる気持ちも自分の心にある情景こその正しさも理解できることなのだろう。
「うん、なるほどな」
 再び納得して、懐手にした手で顎の辺りをさすっている。無頼めいた仕種がやけに似合わなくて真人は笑う。
「なんだよ」
「似合わないよ、それ」
「そうか」
 がっかりした夏樹か何事もなかったような顔をして手を戻した。
「あなた、どうやったって何をしたって、品がいいもの」
「それは喜ぶべきか悲しむべきか、悩むところだな」
「喜んでおいたらいいじゃない。下品だって言われるのは、いやでしょう」
「そりゃ、なぁ」
 いいように丸め込まれた夏樹が気づくより先、真人は立ち上がる。晴れ上がった空のせいで日向にいると暑いほどだった。
「お昼、お蕎麦にしようか」
「あれがいい」
「お気に入りだね」
 先日、取材旅行に行ったときに食べた出雲蕎麦が最近の彼はお気に入りだった。真人としては願ったり叶ったり、と言うところ。
 いそいそと蕎麦を茹で、支度をした。確かに手間ではある。ざる蕎麦ならば、茹でて冷やして出せばいい。
 この蕎麦は小分けにして具を乗せるから、確かにいささか手間はかかる。それでも真人は喜んで支度をする。
「気づいて、ないみたいだね」
 ざる蕎麦にするより多い量を食べていることに、夏樹は気づいていない。そっと微笑みながら真人は一つの器にはなめこを乗せ、別に一つには大根おろしを、それから山菜をと作っていった。
「出来たよ」
 あっという間に仕度が出来たことに、夏樹はいつものことながら驚いた顔をする。その前、誇らしげに器を置いた。
「お気に召すといいんだけどな。今日はとろろのも作ってみたよ」
「あぁ、ありがたい。とろろ蕎麦、好みだ」
「だよね。だから、どうかなと思って」
 真っ白なとろろの真ん中に、本当ならば鶉の卵、と行きたいところだけれど、さすがに用意がない。溶いた卵黄を少しばかり落としてあった。
 それに夏樹はにやりとし、軽く頭を下げて見せる。自分の体のためだと、気づいたのだろう。真人も笑って礼を返した。
「うん、旨いよ」
「よかった」
「これ、胡麻か」
「そう、風味がいいかと思ってね」
 とろろの下に煎り胡麻を忍ばせていたのに気づいた夏樹が言えば、そ知らぬ顔で真人も返す。体のため、とばかり言っていては気が滅入ってしまう。
「あぁ、香ばしくていい。気に入った」
 笑みを浮かべて言う夏樹に、それでも真人は気づかれているな、と思うのだ。それなのに、黙って食べてくれる彼のありがたさ。
「ところで真人」
「ん、なに」
「さっきの持統天皇の歌、思い出したのはあれか」
 言いつつちらりと庭に目をやる。白い敷布が目に眩しい。
「そうだけど、どうして」
「いや、洗濯物で香具山の衣はさすがに安直じゃないか」
「……まぁね」
 渋い顔をして蕎麦をすする真人を、夏樹は笑って眺めていた。




モドル