篠原忍の人嫌いが染ったわけでもなかろうに、けれど水野琥珀もまた、自宅に訪問者があるのを好まない。 それを知っている編集者は、だから琥珀を呼びつける。家に来られるよりましだと思っている彼はこの呼び出しに気軽に応じるのだ。 「いやぁ、すみません」 ちっともすまなそうではない編集者に、琥珀こと真人は軽く目礼をする。今日もまた、外出時によほどのことがない限りそうであるよう、篠原おさがりの着物姿だった。 「いえ、ちょうど用事もありましたから」 「いやいや、御用があるからと言って呼びつけるのは礼儀知らずと――」 「自宅に来られるより、ずっといいですよ。家には篠原がいますから」 「ははぁ。相変わらずで」 「変わりようがないです」 すげなく言って真人は編集部から応接室へと移っていく。ソファにはすでに用意の茶菓子がある。と言うことは、何かしらいやな予感を覚えなくもないというところ。 「それで、なんの御用でしょうか」 「水野先生の御用は……」 「篠原の用事です。このあと済ませるつもりですが」 「篠原先生も相変わらずですなぁ。水野先生をいまだ書生扱いときている」 「私が望んでしていることです」 真人の機嫌がよろしくない理由はなくもない。この雑誌社は、以前篠原に無礼を働いている。どうやらそれから上のほうが変わったとか聞くけれど、かといって体質が変わったとは聞かない。 できることならば断ってしまいたかったものの、業界の縁も義理もある。無下にもできかねた。おかげで、気分が良くない。 そもそも真人はあの夏樹と一緒に暮らしているのだ。それも望み望まれた仲で。ならば彼がいかに温和に見えようとも、実情が違うのは当然のこと。 無愛想な篠原忍ならば、編集者も多少の気遣いをしただろうが、優しい水野琥珀となれば遠慮も会釈もあったものではない。 「それで、なんですか」 できることならば、義理を果たしてさっさと帰りたい。今日は春真が国語のテストを持って帰ってくるはずだ。 そんな所帯じみたことを考えた途端、小さく口許に笑みが浮かんで消える。編集者が目にする間もなかった。こんなところばかり、篠原に似る、と真人は内心で笑う。 「いやいや、たいした御用ではないんですが」 だったら呼ぶな、と言いたくなってしまうのはこの際、致し方ないことだろう。真人の顔色が変わったのを見て編集者が慌てて顔の前で手を振った。 「あ、いや、その、ですな。本来ならばこちらから伺うべきところでして――」 「申し訳ないですけれど、ご遠慮申し上げます」 「ですよね。なので、こうしてご足労願ったわけで」 「ですからね、こちらも用事が控えてるんです。用件を言っていただけませんか」 苛立った水野琥珀の声など、この業界で聞いた例のある人間は少ない。それに気づいたか、編集者が目を伏せた。 「えー、その。急なことでお怒りになるかとは思うんですが」 ならばなぜ、先に連絡を寄越さない。そもそも来いと言った時点で用件を言っておけばよかろうに。思う真人の心など知らぬげに編集者は熱くもないのに額の汗をぬぐっていた。 「我が社とご縁のある会社でして」 「……なんの話ですか」 「あ、いや、ですからね。その、水野先生を是非取材させていただきたい、と言うことでして」 「そういうことは――」 「はいはい、先にお知らせするべきことだとは、わかっています。よくよく理解していますが」 「そうは思えませんが」 「これは手厳しい。理解はしていますが、その、お知らせすると、お断りになるのではないかと、ですね、はい」 実にもっともな話だった。篠原ほどではないけれど、琥珀もさほど取材の類を好まない。水野琥珀の価値は歌にあるのであって、加賀真人自身の人格はなんらかかわりがない。彼はそう考えている。夏樹もまた。 「当然ですね」 夏樹ならばそう言ったであろう口ぶりで真人は言う。できるだけ冷たく言ったつもりだが、どうにも彼のようにはうまくいかない。 人は知らない。夏樹はあれで中々洒落っ気のある男なのだ。人を寄せ付けないためならば平気で「気難しい文豪」の役を演じて見せる。真人はそこまでできなかった。 「できますれば、そう仰らず。あの、別室にすでに待機していまして。その、ちゃちゃっと済みますから」 「手っ取り早く済まされた取材の記事など恐ろしくてとても許可は出せませんよ」 「はいはい、それもごもっとも。水野先生のお気の済むまで、ですね、その」 どうやら取材を受けないと帰してもらえそうにない。と言うよりここまで段取りが整ってしまっているのならば、なにをしても無駄な気がする。 考えて、真人はきっぱり態度を決めた。この取材は受けてやる。が、今後一切お付き合いはお断りする。 「わかりました。どうぞ」 そんな決心など知らない編集者は琥珀が快く許してくれたもの、と解釈していそいそと別室に待機していた取材者を呼びに行った。 現れた取材者は、言ってはなんだが低俗な雑誌の記者らしい。これでなぜ歌人に取材をしようとしたのかわからない。が、やり取りのうちに気づいた。 「水野先生には秘めた恋人がおありだそうですけれど」 物腰だけは、柔らかいその記者は言う。これで真人は奇妙に納得したのだ。最近、世の中はある意味では平和だ。おかげで醜聞雑誌は売れているらしい。さすがに戦後すぐほどのことはないものの、悪口陰口井戸端会議はいつの世でもこっそり好まれる、と言うことだろう。 「そう言う噂ですね」 「では――」 「肯定も否定もしません」 「なぜですか」 「ずっとそうしてきたからですよ」 質問が直接的すぎて、これで本当に記事になるのだろうかと思ってしまう。案じる必要はないものの、記者の行く末まで不安になってくる。 「水野先生の歌は、常に恋歌だそうですね。ならば、やはり、と思ってしまいますが」 そもそも記者が、取材をする記者が伝聞で語ること自体、どうかしていると思う。せめて対象の勉強くらいしてから来い、と真人は心の中で憤慨する。それでも顔色が変わらないから、琥珀は舐められるのだ、とわかってはいた。 「その辺りはご自由に、としか言えませんね」 「そこをなんとか」 「言う意味がありませんよ」 「そんなことはありませんとも、是非」 「――どうぞご遠慮を」 一瞬、答えに間が空いたことなど、最初の編集者も記者も気づかない。真人自身、自分で少し驚いたくらいだった。 息を飲んでしまった。言ってしまえとも思った。言えるわけがない。すぐさま思い直す。 えぇ、いますよ。最愛の人がすぐそばにいます。もちろん生涯の愛を誓った人です。えぇ、ご存知ですよ、篠原です。 言えるわけがない。自分ひとりのことならば、いい。だが篠原の名誉にまで傷がつく。同時に、彼もまた同じことを考えているのが真人にはよくわかっていた。 ならばなぜ、言えないのだろう。お互いに、相手のことだけを考えているのならば、言ってしまえばいい。 それでも、できるはずがない。もしも二人きりで生きているのならば、それもまたいいだろう。互いに天涯孤独、山の中の一軒家で自給自足をしているというのならばそれもいい。 けれど夏樹には縁は薄くとも家族がある。長い付き合いの編集者がいる。真人に家族はない。けれど我が子同然に思う春真がいる。 自分たちが醜聞まみれになったなら、彼らはいったいどうなってしまうのか。まったく醜聞とはかかわりのないところで、彼らもまた迫害されるだろう。 ただ、人が人を愛したというだけのことなのに。 だから、言えない。言いたいとも思わない。知っている人だけが、知っていればいい。その人たちは公にできない自分たちを心から密やかに祝福してくれているのだから、それで充分。 「なんとかお聞かせできませんかねぇ。先生、このあとどうです、一杯」 「いささか所用があります」 「それは残念です。明日はいかがですか」 「明日も用事があります」 「……明後日なんか、どうです」 「明日も明後日も明々後日も、おそらく未来永劫用事があります。そろそろ時間です。失礼してよろしいですか」 叩きつけるよう編集者に言わなかったのは最後の理性だ。それでも編集者の腰が引けている。 「その、水野先生――」 彼が言い募るより先、応接室の扉が開いた。さすがに真人も虚を衝かれる。 「篠原さん。なにしてらっしゃるんですか」 扉の向こう、二重回しのように不機嫌をまとった篠原が立っていた。おまけに中身はそもそも人嫌い。これで怯まないわけがない。 「藤井から忠告が来た」 短く言う。しかも露貴をあえて姓で呼ぶ。これは本格的に機嫌が悪い、と真人は思う。 「それをいただこうか」 どちらが記者か、むしろそこに取材をしている記者がいるのを当然とでも言うよう、篠原は取材の書き取りを要求する。 「あんた、なにを――」 言いかけた記者の頭を思い切り編集者が叩いた。確かに、篠原忍の顔を見分けられない記者はこの業界にはいない。そのはずだ。 「篠原さん」 「どうやら質の悪い醜聞雑誌ができた。琥珀の記事をそんなものに載せていいのか、とは藤井の言だ」 「感謝します。藤井さんにも」 だからわざわざ来てくれたというのか。この人嫌いで、人混みを心の底から嫌悪する夏樹が。 「気にするな。すぐに潰れる雑誌だ。放っておいてもいいようなもの」 さすがにそれに口は出しかねた。すぐに潰れる、ではなくすぐさま潰す、の間違いだろうとは。夏樹が手を回す気なのか、それとも露貴がするつもりなのか。下手をすれば冬樹、と言う可能性すらある。中々ぞっとしないものの、ありがたいことに違いはない。 「帰るぞ」 書き取りを無言で奪い取り、そちらを見もせず夏樹は言う。 「はい」 小さく微笑んで後ろに従う。先ほどまでの嫌な気持ちが、きれいに晴れていた。 |