「素直にこっちを取るのも業腹なんだけどなぁ」 むつりと呟き、真人は原稿用紙を睨みつける。こんなとき、つくづく依頼を受けるのではなかった、と思う。 「どうした」 普段ならば、真人が書き物をしているときに夏樹は声をかけたりは、しない。 「そんなに変だったかな」 だから真人は苦笑して彼を振り返る。そこには懸念にあふれる目を隠そうとした彼がいた。 「変、と言うか。な」 「なに、夏樹。言って」 口にしてしまってから、しまったと臍を噛む。これでは異変があると告げたも同然ではないか。 思わずそらした真人の目を夏樹は追わなかった。その代わり一応は、とでもいうよう背後を窺い、それから部屋に入って襖を閉める。 「夏樹。なにをしてるの」 自分でも険があるとわかる声だった。これではもう口をつぐむよりないか。 真人がそう思ったとき、夏樹は笑って見せた。他人が知ることはない、真人だけが知る夏樹の穏やかな笑みだった。 「夏樹……」 言葉がなかった。気遣われている。ありがたい。けれど、申し訳ない。 そんな思いなど疾うにお見通しだ。夏樹の目が笑い、無言のまま腕に抱かれた。 「夏樹、待って」 「春真ならとっくに寝た」 「嘘」 「どうしてそんな嘘をつく。自分で見てくるか」 からかうよう言われ真人はやはり、恥じた。腕の中でじっと耳を澄ます。物音はしなかった。聞こえるのはただ彼の鼓動。 「あのな、真人。これを言えばそれはそれでお前が怒るような気がするがな」 ためらいがちでも、どことなく楽しそうな夏樹の声に、ささくれだった気持ちが静まっていく。おかげでいったいなにを思い悩んでいたのか、馬鹿らしいとまで思えるほどに。 「とっくに夜中だぞ」 耳に入って、そして理解するまで数瞬かかった。はっきりと夏樹の鼓動を数えられるくらいは、かかった。 「ちょっと待って。それってどういうことなの」 「それだけ真剣に悩んでいた、と言うことじゃないのか」 「それじゃないでしょう、夏樹」 春真を思って苛立った声。けれど先ほどまでのそれとは違う。確かめるよう腕をほどいて夏樹が覗き込んでくるのに、渋い顔をして真人は応える。 「なにを悩んでるか知らないがな、真人。根を詰めてもどうにもならんときにはどうにもならん」 「篠原忍の言うこととは思えないね」 「俺が篠原だから、言っているんだ。信じろ。本当だ」 その顔があまりにも真剣で、そして同時に嘘で丸め込もうとでもしているようで、真人の顔がようやくほころぶ。 「ごめん」 「なにがだ」 「だって」 いいから黙れ。そう言われる代わり、唇を塞がれた。少しばかり気恥ずかしい。同じ屋根の下には春真がいる。 「夏樹。なにがおかしいの」 「笑ってない」 「嘘。笑ってたもの。僕が気づかないとでも」 くちづけの合間に唇が震えた。歓喜や悦びのそれでないと区別がつかないほど、過ごしてきた時間は短くはなかった。 「いや、お前も慣れないなと思ってな」 言外に春真と共に過ごしてきた時間もまた、短くはないのに。そう言われるが、こればかりは致し方ない。 さすがにまだ子供の春真にこの関係を知らせるわけにはいかない。恥じているのではない。春真がごく当たり前の、言い換えれば大多数の人が異性を選ぶのが一般的な社会なのだ、と理解するより先に例外を知る愚は犯せない。彼のために。春真の幸福のために。 「本当に、お前は親以上に親だよ、春真の」 「……そうありたいよ、できればね」 「充分やってる。お前以上に春真の行く末を気にかけている人間はいない」 「言い切るのはどうなの。冬樹君だって、雪桜さんだって」 「いいんだ、言い切って。俺も冬樹もそう思ってるんだから」 温かい言葉に、心が和んでいく。ぽんぽんと、子供にするよう背を叩いてくれる。ふとおかしくなった。自分にはしてくれるくせに、春真にしてやっているのを見た覚えがさほどない。 「なにがおかしい」 「別に。なんでもない。あなたが優しいなって、思っただけ」 本当か、とでも言うよう目を覗き込んできた。真人はありったけの芝居っけを発揮して神妙にうなずく。どうやら信じてもらえなかったようだ。 「それで。なにを悩んでたんだ、こんな時間まで」 「そうだよ、こんな時間なんだよ、夏樹。もう寝なよ、あなた熱っぽいんじゃなかったの」 「お前が白状したらな」 「夏樹、いい加減に」 「すぐそこでお前が悩んでる気配がしてみろ。気になって眠れん」 嘯く夏樹に、真人は折れた。そう言ってくれる体力があることを喜んだ、と言うほうが正しいかもしれない。 「ちょっと歌のことでね」 「百人一首の原稿か」 「うん。壬生忠岑の有明の歌、あるでしょ」 「壬生忠岑……」 「恋すてふの忠見の父親」 言えばやっとわかったのだろう、あぁ、と納得の声が上がった。真人はこれも書きとめよう、と心に留める。夏樹にすぐさまわからないことは、読者にもきっと伝わらない。 「あの歌の解釈でね」 そう言って真人は話しを続けた。別れが切なくつらいのだと言う解釈と、会えずにつらく月までつれないと読む解釈。 「それは――。常々お前が言ってることだと思うが、どっちでもいいんじゃないのか、お前が好きなほうで」 「うん……」 「解釈なんて言うものは、所詮は独断だろうが。お前が――」 「そうじゃなくてね、夏樹」 こんなにきっぱりと言ってくれることがありがたく嬉しくて、つい微笑んでしまった。それをどう思ったのか、夏樹が仄かに顔をそむけた。 「僕はどちらかと言えば――本当にね、あなたの言うとおりだ。解釈なんて、けっこう無駄だから。自分が感じたのが、正義だからね」 口にしてみれば、まったくもってそのとおりだとうなずけてしまう。けれど自分のしていることが無駄だとは、微塵も思っていなかった。自分の解釈を否定されても、それならばそれでその人は歌を味わったことになる。それが真人の喜びだった。 「うん、だからね。僕はどちらかと言えば、別れが切ないんだと思うんだ」 「だったらなにを悩む」 「――その解釈が、定家と一緒だからだよ」 言った途端だった。春真を起こしてしまわないよう心がけているのは理解できるものの、夏樹が珍しく腹を折って笑い出したのは。 「夏樹」 「いや……お前にも意地っ張りなところがあったんだなと思ってな」 「ひどいよ、もう」 「すまん」 機嫌を損ねたふりをしてそっぽを向けば、背中からまわってくる腕。背後から抱きすくめられれば、夏樹の体が熱い。 「ねぇ、熱」 「ない。いまは、下がってる」 本当か、と思ったものの問い返しはしなかった。熱があるにしては、はっきりとした口調だったせいかもしれない。 「なぁ、教えてくれるか。どうして別れの切なさを嘆く。会いに行けばいいだろうに」 耳許で、夏樹に言われた。心から不思議そうで、かすかに不満そうな声。 「王朝の時代はそうも行かなかったんじゃないの。色々決まりごとも多かったみたいだし」 「会いたいなら会いに行けばいいんだ、うじうじ歌にするくらいなら行けばいい」 「……それが当事の決まりだし、さ」 「物忌みだって外出する方法があったのにか」 そう言われると、真人も少し困ってしまう。人間は決まりを作る生き物だ。そしてそれを破る方法をああでもないこうでもないと考える生き物でもある。 「絶対なかったわけないよね。ねぇ、夏樹。あなただったら、どうするの」 「うだうだ悩むのは性に合わんな」 抱かれた腕から半ば逃れて背後を振り返れば、不敵に笑う夏樹だった。薄暗い室内ではよくわからない。けれど光の下では蒼い目に真人は見入る。 「ねぇ、どうするの」 重ねて問う。にやりとした笑み。見入っていたはずが、魅入られたように動けなくなった。顎先を彼の指が捉える。そんなことをしなくとも逃げないと言うのに。 「夏樹」 唇が離され、呼んだ名は吐息めいていた。男にしては細い腕。病気がちで始終、床についている夏樹。それでもこの体は温かかった。 「俺は幸福だな」 呟く夏樹の声に顔を上げれば、楽しげに笑みを浮かべていた。 「お前に会えないと嘆くこともない。朝になってお前と離れなきゃならないと泣き言を言うこともない。会えないで夜明かしして朝日に恨み言を言うこともない」 どことなく、茶化した口ぶりではあった。実際、夏樹がこれほどはっきりとこんなことを言うのは稀だった。 思わず見惚れてしまった真人に気づいた夏樹が、ようやく照れたのだろう、目をそらす。柄でもなく頬の辺りをかいたりしているものだから、よけいにおかしい。 「本当に、そうだね。――僕も」 こうしていられること。それがこんなにもありがたい。振り返ってみれば流れた月日。真人はそっと彼の胸に頬を寄せた。 「夏樹、あなたならどっちの解釈をするの」 声が聞きたくて。胸に響く夏樹の声を、鼓動と共に聞きたくて。 「誰かさんのおかげで離れ離れの切なさは嫌と言うほど覚えがあるがな」 ずいぶん昔のことを蒸し返して夏樹が笑う。笑えるだけ、過去になった。 「つれなくされた覚えはないんでな。よってわからん」 「歌のこと、聞いてるんじゃない。僕がどうのなんて話、してないのに」 「そうだったのか。それは失礼。勘違いだったみたいだな」 笑いながら言ってのけた夏樹の背中を軽く叩けば上がる笑い声。 真人の原稿用紙は朝になってもまだ白いままだった。 |