ある日の昼近く、郵便が届いた。大きな封筒の中身に真人はほっと息をつき、夏樹の元へと急いだ。 「夏樹」 仕事に取り掛かる前だったのか、夏樹は眺めていた庭から目を戻し真人を見やる。申し訳ない、とすぐに思ったけれど、詫びるより先に夏樹が微笑んだ。 「どうした」 もう、わかっているのかもしれない。彼の目は真人が持つ封筒を見ていたから。 真人はゆっくりと大切そうに中身を取り出す。それは雑誌だった。たった一冊の雑誌。表紙に、献呈印の押された雑誌。 「いままで、ありがとう。百人一首が、これで終わりました。お世話になりました」 夏樹の前で正座をし、手をついて真人は頭を下げた。つい、と押し出した雑誌を彼が手に取る音がする。はらはらと紙をめくる音。 それに真人は終わったのだ、と感じる。原稿を書き上げたときでもなく、編集者に渡したときでもなく、今この瞬間、終わったのだと。 溜息か、あるいは吐息か。つくはずだった息は漏れなかった。書き上げた感慨がないとは言わない。けれど、これはもう終わったのだ、との思いのほうがずっと強かった。 「お疲れさん」 さらりと一読したのだろう夏樹の声。あとでもう一度でも二度でもゆっくりと読む、と言ってくれている彼の声。それなのに、言葉はそれだけ。真人には、何より嬉しかった。 「うん」 言葉にならない思いでも、彼ならば汲んでくれるから。だから真人はそうして微笑む。夏樹を見つめ、そして雑誌を見やり。 「長かったな、どれくらい連載してた」 「もう忘れたよ。と言うか、忘れたい」 「色々あったからな」 思わず真人は呻いてしまった。思い出したくもない。連載と言うものが、こんなにも大変だとは思わなかった、わけでもないけれど想像を遥かに超える苦労だった。 「最初は、月刊誌だったか」 「違う、月二回の刊行だったの。それが月刊になったかと思ったら週刊に移動して、それからまた月二回になったり。ほんと、大変だった」 思い出して頭を抱える真人に夏樹は大きく声をあげて笑った。くつくつと笑い続ける夏樹に、真人は恨めしげな目を向けてしまう。それなのに夏樹は本当に珍しく、口許を覆って笑っていた。 「酷いよ、そんなに笑って」 「いや、お前の誤解がおかしくてな」 「え、どこが。だって、連載は大変だなって、僕だってしみじみ思ってたんだよ。それのどこが」 言い募る真人の肩に夏樹はそっと触れた。いつの間にかうつってしまった真人の癖。彼が触れるよう、真人の肩に触れるようになってしまった。 「大変は大変だがな、お前の思う大変とは違うぞ」 肩先を撫でれば、そこから緊張が解けていく。ゆっくりと何度も何度も撫でるうち、真人から強張りの影が消えていく。 「どんな風に」 柔らかな声に夏樹は目を細める。長い時間を共に過ごしてきて、後どれくらいこうしていられるのかと思うほどの年にはなった。不意に切なくなっては、早すぎる想像に内心で苦笑する。 「普通、そうそう簡単に掲載誌が変わったりはしないからな」 真人はいったいどれほどの雑誌を渡り歩く結果になったのか。数えるのが夏樹も怖い。通常ではありえない事態だった。あちらこちらと変わりつつ、それでも打ち切られることなく続いたのは、琥珀の作品が愛されたからだ、と夏樹は思っている。 「そう……なのかな」 不思議そうに首をかしげる真人に夏樹は微笑む。長い間篠原忍と共に暮らしてきたはずなのに、との思いが顔に表れでもしたのだろう、真人が唇を尖らせた。 「でも、僕はこういうの、初めてだったし」 「とはいえ、ずっと俺の原稿を清書して届けてくれていたのは誰だ」 「最近はそうでもないじゃない」 「そりゃそうだ。一人前の文筆家を書生扱いするのはさすがに俺でも気が引ける」 言われた真人こそ、見ものだった。篠原忍にここまで言わせたのだ、喜ぶのが本当だろう。もしも真人が小説家の卵ないし雛であったのならば、随喜の涙を流せたはずだ。 だが真人は小説家ではない。随筆家でもない。偶々文章を書くことを求められた歌人だ。だから、喜べない。むしろ、怖い。 「僕は、一人前なんかじゃない。そんなことを言っちゃだめだ、夏樹。そんなことを言ったら、本当にあなたの目に留まりたい若い小説家に僕は申し訳なくて仕方なくなる」 「お前は――」 はっと見開いた夏樹の目が、甘く和んで細くなる。いまだ肩先にあった手が、子供にするよう頭を撫でてくれた。それから、子供にはしないやり方で、髪を梳いてくれた。 「やっぱり俺は、お前に甘いのかな」 「そう思うよ」 「よく言われるんだが……まぁ、気にもしちゃいないんだが。やっぱり、甘いか、そうか」 後悔しているような言葉のくせに、うきうきと弾む声。真人はようやく夏樹もまた、百人一首の連載をやり遂げたことを喜んでくれているのだと実感した。 「まぁな、俺はお前を、加賀真人個人をよくよく知ってるからな」 「それは、そうだろうけど」 「それこそほくろの位置と数まで知ってるからな」 「ちょっと、夏樹ッ」 昼間からなにを言い出すのかと慌てて腰を浮かす真人に夏樹は声をあげて笑った。自分でもずいぶんとはしゃいでいる自覚はある。それだけ、百人一首完結が悦ばしかった。 「だからかもしれないな。お前がなにを考え、なにを表現したかったか、書かれなかったことまで、他人には絶対にわからない方法で、俺にはわかる」 ゆっくりと噛みしめるよう夏樹は言う。真人はなぜか涙が出そうだった。 いまならば、自分の過去にすら感謝ができる、そう思う。つらいとか悲しいとか、そんな言葉ではとても言い表せなかったあの時代があるからこそ、彼に出逢えた。なんという偶然、なんという僥倖。あるいは、これこそが必然。 「夏樹が、とても好きだなと、いま思った」 「おい」 「なにさ」 「そう言うことを今更言われるとぎょっとする」 「……どうしてなの」 「その後に、好きだったけどこれでおしまいだ、と言われそうな気がしてな」 「想像力が豊かすぎるんじゃないの」 「作家に向かってそれはない。この頭の中身で飯を食ってるんだぞ、俺は」 無頼ぶる夏樹の態度。似合わなくて笑ってしまう。鼻を鳴らしてそっぽを向くのにも、また。知らずうち、笑いながら彼の背にすがっていた。 「ねぇ、どうしてわかるから甘いの」 「知るか。教えてやらん」 「夏樹、教えてよ」 「――笑いやんだらな」 「……ん」 返事をしたのに、背中からくすくすと笑う真人の声が伝わってくる。ひどく心地良くて、このままとろとろと眠りたいほど。 「たぶんな、俺は。他の誰も読んでいないお前の文章を読んでるんだ」 少しばかり静まってきた真人の呼吸を背に聞きつつ、夏樹は言う。庭を眺めているのに、少しも目に入らない。 見ているのはたぶん、過去だった。二人で過ごしてきた時間だった。長かった気がする。いつまでも過ぎないほど、そう願うほどゆっくりと流れた時間だった気がする。思う程に、速すぎる時の流れだった気もした。つい昨日、家の前で真人を見つけた気がした。雨の晩だった。濡れそぼって、殺伐とした姿をしていた真人。それなのにひどく澄んだ目をしていた真人。 「俺はお前を知っている。言葉の意味では捉えきれないほどに。お前がなにを見てなにを思うか、俺は知ってる。だから、お前が書いたけれど書いていない部分まで、俺はたぶん、読んでいるんだ」 あの雨の晩。あれは天の配剤というものだったのだろうか。殺されたくなくて、けれど生きると言うことがどういうことかまだわかっていなかった自分に何者かが与えてくれた、たった一つの綺麗なもの。 「俺が読んでいるのは、お前の文章じゃない。お前だ。お前が書いたものを読んでいるようで、本当はただお前を見ているだけなのかもしれない」 過酷だった前半生を夏樹は思う。ふと、真人が現れてくれなければ自分はどうなっていたのだろうと思ってぞっとした。 「夏樹」 「どうした」 「それは僕が聞きたい事。なんだか、ちょっと背中が強張ったから」 背に耳をあてて真人は彼の声を聞いていた。だから彼の緊張を感じ取ることなど、造作もなかった。ぬくもりが、耳から頬へ、そして全身へと広がっていく。 「お前がいなかったら、俺はどうなっていたかな、と思ってただけだ。俺は――」 「埃だらけの部屋で洗濯物に埋もれて餓死してたんだよ、あなたはね」 「……おい」 言わせなかった真人の思いやりに夏樹は小さく笑う。胸へとまわってきた手に手を添えれば、温かい。こんなにも。 「そっか、他人にはわからないものを読んでるんじゃ、そりゃ篠原忍の評価は甘くなるよね。だって、誰にもわからない評価なんだもの」 何事もなかったかのよう真人は言葉を続けて笑った。夏樹の緊張を解くべく、そうした。伝わった証拠に、夏樹の背中が和らぐ。 「いままで言わなかったがな、篠原忍としてはだな、琥珀君。お前の文章を添削するなりなんなりして磨き上げるべきだったんだ」 「そうして欲しかったよ、僕は。本当に、だめだからね、僕の文は」 長い溜息に夏樹は密やかな笑い声を上げる。聞こえたぞ、とばかり真人が軽く背を打つふりをした。 「するべきだったけど、俺にはできなかった」 「どうして。え、だって……」 「言ってるだろうが。俺は、書かれていないお前を読んでたんだ。なにをどうするべきかなんか、わかるものか。そもそも、磨くところが見つからないんだからな」 肩をすくめた夏樹に真人は言葉を失う。ひどくひどく甘い言葉を聞いた気がした。間違っていない証とばかり、夏樹はじっと庭を見ていた。 「……それが、お前に惚れてるってことだ」 はっと背中からぬくもりが消える。再び体を強張らせた夏樹の前、真人が回り込んでは額に手を当てた。 「なにをしてるんだ」 「いや、その。熱でも出したかと、思って」 「お前な」 むっとした夏樹だったけれど、真人は朗らかに笑った。それから冗談のよう、笑ったまま彼は言う。 「ありがとう、夏樹」 だから夏樹は言う。微笑んで、抱き寄せて、腕の中に包みこんで。 「お疲れさん」 ただそれだけ。たった一言がすべてに勝る、そんなときがあるということを小説家も歌人も知っていた。 |