このところの雨続きにすっかり気が腐ってしまった。時期を考えれば致し方なくはあるものの、やはりくさくさとする。 「いいよ、僕が行く」 そう言って、最近はあまりすることがなくなっていた書生仕事を請け負ったのも、それが一因だった。 「すまん、頼む」 「気にしないで。ついでだから」 夏樹に言って、出来上がった原稿を収めた封筒を受け取る。この中に篠原忍の新作が入っているのだ、と言う思いはいつも真人をわくわくとさせた。 「じゃ、行ってきます」 本当ならば、貴重な梅雨の晴れ間だ。雨の間にたまってしまった洗濯物を何とかしなければならない。大人二人は着ているものがたいていは着物のせいで、洗い物と言っても肌着程度だ。が、春真はそうは行かない。 「まぁ……なんとかなるかな」 だめな親代わりだ、と苦笑の一つも出るが、無理をしてもいい事はない。 「お前も仕事を持っているんだ。それは春真もわきまえている。気晴らしをするときにはしろ」 いつだっただろうか、彼にそう言われたのは。隣で真剣な顔をしていまより小さな春真がうなずいていた。 「ほんと、ああいうところはそっくり」 二人して、自分を丸め込むときだけは固く手を組む。つい思い出し笑いがこぼれそうになって真人は顔を引き締めた。 目的は、何も夏樹の原稿を届けることではない。そもそも真人は買い物に出たのだ。そちらが本命であって、彼の用事はほんのついでだ。 だから出版社を訪れ、用事を済ませてしまったあとはさっさと引き取ろうとするも当然と言うもの。 「水野先生」 が、得てしてこんなときにこそ呼び止められるもの。嫌な顔をしないように心がけつつ振り返る。 「ちょっと、お時間ありますかね」 「いえ、申し訳ないですが」 「あ、ご用事が」 「えぇ、ちょっと」 そこまで言葉を濁せば普通は、引く。それで引かないのが出版社の人間だった。と言ってしまっては大雑把にすぎるだろうけれど、文芸誌の編集者ですらこれだった。 「なんでしたら歩きながらでもかまいませんので」 そう言われてしまってはいやだとも言えない。ここの雑誌に世話になっているわけではなかったけれど、だからこそなおのこと。自分の態度はすなわち篠原忍の評判にも関わる。 「相変わらず篠原先生のご用事もなさるんですなぁ」 「寄宿している身に違いはないですから」 「ご謙遜を」 顔の前で編集者は手を振って笑う。こんなとき、真人は夏樹と共に過ごした時間を思う。自分はさして人嫌いではなかったほうだ。が、こんなところからは一刻も早く帰りたいと思うようになってしまっている。それを思っては内心で小さく笑った。 「ご用はなんでしょうか。私はあちらなんですが……」 言って真人が指差したものが不思議でたまらないといわんばかりの編集者だった。きょとんとした顔がいっそおかしい。 「デパート、ですか。先生」 「そうですが」 「いやはや、驚きました。ではご一緒に」 しまった、と思うも後の祭り。これではいやでも買い物に同行させざるを得ない。夏樹が外出中、無口な理由がよくわかる。 「先生、何階ですか」 嬉々としてエレベーターに乗り込んできてしまった。できれば話とやらをさっさと済ませて欲しい。虚しい真人の願いだった。 真人は彼に目を向けず、箱を操作する店員に階数を申し付ける。快い笑顔とともに復唱し、箱はするすると上っていった。 「先生、なんのご用事なんですか」 「買物ですが」 「いやはや、それにしても、意外ですぁ」 編集者は、雑誌の原稿を集めて編集するのが仕事であって、太鼓持ちではないはずなのだが。真人の後ろからひょいひょいとついてくる。 彼が向かったのは、文具売り場だった。それも篠原が使うのでも琥珀が使うのでもなさそうな、子供用の。 「――どちらがいいでしょうか」 あまりにも真人が話し相手にならないもので、口をつぐんでしまったのがかえって不憫になってしまった。うっかり問いかければ、欲しかった答えの三倍ほどの言葉数が返ってきた。 「では、こちらにします」 辟易しつつ言い、けれどそれではやはり無愛想かと思い直し笑顔でありがとう、と付け加える。 「とんでもない。ところでこのあとは……」 「子供服売り場に」 「先生が、ですか……」 「いけませんか」 こうなったら、もうとことん付き合ってやる、と肝が据わった。にっこり笑顔で言い放つ。そのまますらりと歩いていくものだから、編集者はあたふたと付き従う羽目になる。 本当は、いけないのだと心の底ではわかっている。これでは篠原の名に傷がつく。もっと愛想よく丁寧に。思っていても苛立つものは苛立つ。 だいたい、と真人は思う。今日は雨の合間の気晴らしなのだ。こんな予定ではなかったはずなのだ。 もう気にしないで見回ればいい。そう決めた。と、思った途端に編集者に話しかけている自分に気づく。気晴らしが、気晴らしにならなくなりそうだった。 けれどそう思ったところで、心が本当に決まった。それならば、それでもういい。帰って夏樹に話す種ができたというもの。告げ口でも悪口でもない。こんなことがあったよ、と話せば彼は面白く聞いてくれることだろう。 「これとこれ、どう違うんでしょう」 子供用のズボンを二本下げて真人は首をかしげた。値段が違うから違うものだとわかるのだが、なにぶん普段から和装で、あまりよくわからない。 「こっちはほら、ここんところに飾りが入ってるんですよ、先生。そのぶんお値段が、と言うところでしょうかねぇ」 「あぁ、なるほど。ありがとうございます。私には区別がつかなくって」 「育ち盛りのお子なら、こちらでいいんじゃないでしようかね。すぐに買い換えることになりますし」 「それはそうなんですが……。困ったな」 実を言えば両方気に入ってしまった。が、どちらも買って帰ったりしたら、夏樹が渋い顔をするだろう。吝嗇なのではない。甘やかすのはよくないと言って。 「うん、決めた。こっちにしましょう。残念ですが」 渋々と、片方を戻すものの、まだ目はそれを追っていた。からりと編集者が笑う。しかし一転して声が粘つく。 「なんでしたら、そちらは私からお子さんに贈物、と言うことで――」 「そうしていただく謂れがありません」 いまのいままでどちらのズボンにしようか悩んでいた男とは思えなかった。凛と背を伸ばし、引き締まった口許にも目にも険がある。 「あ、いや……」 「だいたい私の子ではないですよ」 「あ、いや、それは……え」 「篠原が甥を手元に置いている話、ご存知ですよね。その子供の着類です」 言った途端だった、編集者が仰け反ったのは。何かとんでもないことを言ってしまったのではないかと真人のほうこそが驚くほど、彼は驚いている。 「いやはや、それは。なんとも――」 「そんなにおかしいですか」 「水野先生が、そんなことまでなさっているとは露知らず、はい」 「篠原が買い物に出るわけがないでしょう」 「それまたごもっともなご意見です」 「――本人に選ばせてやりたいんですけど、今日は学校の都合がつかなくて」 だから自分が一人できたのだ、と言えばなぜか編集者は大きく笑った。真人は肩をすくめて会計を済ませる。 そのあとも子供用の肌着だの靴下だのを買い込んだ挙句、荷物を持つというのを丁重に断って真人は息をつく。 「それで。私へのご用事って、なんだったんですか」 いい加減、それをはっきりさせて欲しかった。よもや買物のお供が用事だとは言わないだろう。 「ご不快でしたら申し訳ありません」 道端で、と言うわけにもいかないので、喫茶店に入っていた。テーブル越しに編集者は打って変わったと見えるほど、丁寧に頭を下げていた。 「水野先生のお人柄を知りたかったものですから」 「私の、ですか」 「はい。主な用事は、ですから雑談、です」 ここまで爽やかに言い切られてしまっては返す言葉もない。呆れる気にもならなかった。 「わが社は幸い篠原先生ともご縁があることですから、水野先生も是非連載を持っていただきたいと――」 「さすがにいまはちょっと無理ですよ」 「いますぐとは言いません。是非、いずれ。お心に留めておいていただければ結構ですので」 あの軽薄な太鼓持ちはどこに行ったのだろう。つくづく呆れて物も言えない。この顛末を帰って話したら、さぞ夏樹は面白がることだろう。それだけがいまの慰めだった。 「それにしても先ほどのお買物、意外でしたなぁ」 「あれは――」 「いえ、実はね」 少しばかり照れた顔をして編集者は眉を下げる。真人は無言で先を促した。 「先生のお子さんだとばかり思ってまして」 「篠原の甥が、ですか」 「いやいや、そうではなくて。お子さんの買物をしているとばかり、思ってたんですよ」 「……私は、独身ですが」 「独り身でも子供ができないわけでもないでしょう」 なんとも凄まじいことをさらりと言って編集者はどこ吹く風だ。さすがに真人は呆れて肩をすくめる。 「とは言うものの、先生がそういうお方だと少しばかり困るな、と思ったのも事実です」 思えば彼の属する会社は醜聞誌には決して手を出さないと固く誓った会社であったはずだ。それならば水野琥珀に隠し子、などと言うのは確かに困るのだろう。 「それにしても、なぜです。そんな」 「だって先生に密かな思い人がいるのは事実でしょうに」 まるで既定の事実のように言われた。言われるまでもなく事実ではある。が、まさか認めるわけにも行かない。 「あらざらむこの世のほかの思ひ出に、いまひとたびの逢ふこともがな――今わの際にせめて一目逢いたい。そんな人が」 「いますか」 「さて。百人一首の一つを引いただけですよ、私はね」 にやりと笑ってはぐらかし真人は声を上げて笑う。どうやら「不可思議な琥珀の恋人を」を作っているのは自分らしいといまはじめて気づいた。 |