朝起きたら、案の定庭がめちゃくちゃだった。予想していたこととはいえ、これは酷い。縁側に立って顔を顰める真人の手に、そっと柔らかいものが触れた。
「おはよう、ハル」
 見下ろせば、思ったより高い位置に頭があった。もう幼い子供ではないのだな、とこんなときに思う。
「おはよう、真人さん」
「今日は遊びに行くの。台風一過だよ、よく晴れた」
 昨夜の大風で、すっかり空は晴れ上がっていた。気持ちがよいほどの青空だった。
「ううん」
 おまけに日曜日だ。なにをおいても飛び出していくと思っていた春真は、けれどきっぱり首を振る。
「だって、庭。酷いじゃん。僕、手伝うよ」
「いいのに」
「でもさ、伯父貴、手伝わないんでしょ」
 その言い方が、あまりにも確信を持っていて真人はつい笑ってしまう。
「僕がこっちにきてから伯父貴が庭仕事してるの見たことないもん」
 実にもっともな言い分だった。実際、春真も夏樹に庭仕事が似合うとは思ってもいないだろう。真人としても腰をかがめて土いじりをする夏樹、と言うのは見たくない。槍でも降ってきそうな気がする。
「だいたいさぁ、伯父貴が盆栽いじりとかしはじめたら気持ち悪いよね」
「……ハル」
「なに、真人さん」
「怖いこと言わないで。せっかくのいい天気なのに」
 ぞっとして自分の体を抱いて見せた真人に春真は朗らかな笑い声を上げた。その声に目が覚めたのだろう。のそりと夏樹が部屋から出てくる。
「おはよう。珍しく早いね」
「……寝てられるか」
「まぁ、そうだよね」
 と言いながらでも真人は喜んでいる。話し声で目が覚めるならば今日は体調がいいのだと。そんなことで具合をはかられていると知れば夏樹は機嫌を損ねるから、真人は言わない。が、気づかれているだろうことも感じてはいた。
「……酷いな」
 庭に顔を向けた途端に目に入ってくる惨状。一気に目が覚めたらしい。夏樹は唖然と目を見開いていた。
「何か――どっかの看板か何かかな。屋根が飛んだ、と言う風ではないけど」
「真人。なにが言いたい」
「だから、何かが飛んできて枝を折っちゃったんだろうねって言ってるの」
 決してこの家の庭は丹精こめられたものではない。そもそも男所帯で、しかも二人ともが仕事を持っている。中々手をかける時間も取れない。
 それでも、夏樹はこの庭が嫌いではない。自分で何かをしないのは、向いていないと思っているからだろう。自分で手を出して、駄目にしてしまうのを恐れている。
 だから折を見て真人が世話をしてきた。自分が暮らし始めた頃からある野ばらの茂み。いつだったか貰い物を植えた沈丁花。それから彼が暮らすより前からあるらしい、梅の古木。
 その梅の枝が一本、無残にも折れて土の上に転がっていた。口にはしないなりに何より好んできた梅の姿に夏樹が心を痛めているのが手に取るようわかってしまって、真人もつらい。
「すぐ片付けて、庭木の手当てもしないとね。きれいにしてやれば、枯れちゃうことはないから」
 彼の心を慮った遠まわしな言葉に、夏樹はこくりとうなずいた。そんな伯父の佇まいに驚いたのだろう、春真は一言も挟まず二人を見ていた。
「今日、するのか」
「うん。朝ご飯食べたらすぐするつもり」
「そうか」
 それだけ言って夏樹は自分の部屋に引き取った。思わず春真と顔を見合わせて肩をすくめる。が、二人でなにを話し合うより前、夏樹は出てきた。どう見ても、庭仕事向きではない格好で。
「ちょっと、出てくる」
「夏樹、ご飯は」
 知らずきつい口調になったのをなだめるよう、春真が手を握ってきた。こんな子供に心配をかけてはいけない。
「要らん。――いまは」
 しかし真人も堪忍袋の緒もそろそろ切れそうだ。それを察して今は、と言い添えた夏樹にもまた腹が立つ。
「もう、知らないから」
 真人の大声に見送られて、夏樹はそそくさと外出していった。隣で春真が長い、子供らしくない溜息をついている。
「あれだよ、真人さん」
「なに」
「ほら、さっき言ってたじゃん。伯父貴が盆栽いじるようになったら気色悪いよ、やっぱ」
「そう言う問題じゃない」
「いいじゃん。僕が手伝うから。ね、おなか空いたよ、ご飯にしようよ」
 春真に目をやり、真人は心底情けなくなる。子供に慰められていることしかり、これくらい夏樹の口数が多ければさして誤解もしないで済むだろうと思ったことしかり。
「そうだね、ご飯にしようか。ハルの好きな甘い卵焼き、作ってあげる」
「やった」
 小さく歓声を上げる春真に真人はそっと笑いかける。情けなくともみっともなくとも、いまはこの子がいてくれることがこんなにもありがたい。
「伯父貴の分、食べちゃっていいよね」
 こちらを窺うような、悪戯っぽい目をして春真は真人を見上げた。その頭をこつりと叩く。
「だめ」
「ちぇ、けち」
「ハル。言葉遣いが悪いよ。悪いお友達でもいるのかな」
「一番だめなのは、伯父貴だと思うよ」
「……返す言葉がないから、やめて」
「だよねぇ」
 頭を抱えた真人に春真は笑っていた。軽口を叩きながら、それでも春真が夏樹に憧れ、尊敬しているのを真人は知っている。もっとも、そうでなければこんなことはとても言えない。冗談ならばともかく、本気で言うのは教育上よろしくない。
「ハル、大きくなったねぇ」
 そして冗談を冗談と解するだけ、春真は幼児ではないのだ、と思う。嬉しいような寂しいような気分だった。
 二人してさっさと朝食を済ませた。そもそもご飯は炊けていたし、卵焼きなどたいして時間のかかるものでもない。浅蜊の味噌汁を添えて食べれば、ことのほか旨い。
「さぁ、真人さん。やっちゃおうよ」
 腕まくりまでして見せる春真の明るさに救われて、真人は二人で庭に出た。まずは落ちた葉や枝を片付けてしまう。それだけでもけっこうな重労働だ。
「あとは僕がしようか。そっちは真人さんじゃないとわかんないもん」
「ん、頼むよ」
 庭の一角に元々は落ち葉や何かを埋めておく場所がある。そこに枝葉も始末するのだが、これならば真人が見ていなくとも春真一人で充分だ。
 働きはじめた春真を見やり、これなら大丈夫と見極めて真人は枝切り鋏と鋸を手にした。折れてしまった枝を整えてやらないとならない。芽の向きを考えて切らねばならないから、こちらは春真にはまだ無理だった。
 せっせせっせと働き、先に作っておいた昼食用のおにぎりを齧り、また働く。さすがに汗が滴った。切った枝を春真が運んで穴に放り込む。
「……ほう」
 夏樹が戻ったのは、ちょうどそうしてまた動きはじめたころだった。
「へぇ、伯父さん、迷子にならないでちゃんと帰ってこれたんだね」
 春真の皮肉に夏樹は苦笑いをする。真人といえば、今更ながら春真が誤解していることに気づく始末。
「おかえり」
 庭仕事を手伝わないから、怒っていたのではない。夏樹が朝食も取らずに出かける、と言ったから怒ったのだ。それを春真に言っていいものかどうか。
 少しばかり考えた末に、真人は機嫌がよくなったふりをすることに決めた。説明するとなにやら面倒なことになる気がした。
「あぁ、すまないな」
 言いつつ夏樹が何かを手渡す。おおかた彼の好きな和菓子屋の団子だろう。おやつに買ってきたということらしい。
「そんなんじゃ、誤魔化されないんだからな」
 ぷりぷりと怒った春真が泥だらけの手を腰にあてて伯父を見げていた。思わず笑みこぼれた真人に向かって、春真は唇を尖らせる。
「それはないんじゃない、真人さん。笑わなくったってさ」
「ごめん、ハル。嬉しくってね。味方してくれてありがとうね。でも、伯父様にその言葉遣いはいただけないな」
「ちぇー」
 言った途端、春真の頭に落ちる拳。珍しい夏樹の制裁だった。
「春真」
「ごめんなさい。気をつけます」
 なにが悪かったかわかっているのか、と言わんばかりの夏樹の目に、春真はこくりとうなずいてみせる。だから伯父甥の間では通じたのだろう。幸い、真人にも通じていた。
「ところで、夏樹」
 真人としては頑張って手伝ってくれた春真なのだ。自分の側に立ってくれた春真なのだ。甘いと言われようとも、庇ってやりたいのが人情というもの。
「それはなに」
 夏樹が手にしていたもう一つの袋に目を留める。持ち重りのするものが入っているのだろうに、彼はまだ自分で持っていた。
「……手間を増やして申し訳ないとは思うんだが」
「いいから、言って」
「その、な」
「夏樹」
 にこりと笑ってもう怒ってなどいないと目顔で伝える。ほっとしたような彼の気配に心が和む。それを悟ったか、夏樹が袋を手渡した。
「なになに、伯父さん、お土産なの」
 早速、春真が覗き込もうとするのを邪険に夏樹が払う。そんな二人を真人は笑い、中のものに手を出した。思わず丸くなった目に夏樹が小さく笑った。
「まだ時期が早いんだとかで、何件かまわらなくちゃならなくってな」
「これ――」
「ちょっと出て買ってくるつもりだったのに、遅くなった。すまん」
「夏樹、これ。水仙の球根じゃない」
「お前の手間じゃなければ、植えてくれないか」
「もちろん」
「できれば、梅の根元がいい」
 そのとき彼がなにを考えているのか、掌を指すよう、真人にはわかった。水仙のようだった彼の父を。梅を好んだ父の愛した人を。
 真人は黙って微笑んで球根を植えた。心の中に呟く。彼の父に向かって。あなたの息子は優しい人ですよ、と。




モドル