百人一首の原稿を、途中まで書き進め、真人は手を休める。疲れてしまったわけではない。それでもなぜか気もそぞろ。
「あぁ……」
 我知らず、意味もない嘆声が唇からもれて苦笑した。月の歌を訳するときは、不思議とこんな気持ちになる。
「月。出てるのかな」
 家の中は寝静まって音もない。足音を忍ばせて夏樹の寝間を窺う。細く明けた襖の間から中を覗き見れば穏やかな寝息を立てていた。
「ん」
 そのことにほっとして、少し日常が返ってくる。そんな自分に再び苦笑して、けれど春真の寝姿を確かめようとはしない自分にも小さく笑う。
「ハルは元気だからね」
 常日頃、体調を気をつけてやらねばならない体ではない。そういえば夏樹は自分もそうだと言うのだろうけれど、真人は信用していない。それこそ、これっぽちも。
「まったく」
 いったいどれほど心配させられたのだろう。何度倒れたのだろう。いつか露貴に聞いてみたい気もした。
「――露貴さんの前でも、そうだったの」
 口にしてはいけない問いに、真人ははっと口許を押さえる。
 それこそ、何年経ってもこの有様だった。自分は自分、露貴は露貴。わかってはいるし、普段はそう気にもかけない。
 けれどこんな晩には。しかしこんな夜には。
「あ……」
 夕食後、春真も夏樹も雨戸を閉てるのを忘れたのだろう。縁側には煌々と月の光が射していた。
「きれい――」
 思わず見惚れて呟く。照らされたあたり一面が銀だった。あるいは青だった。彼の目より明るく、けれど暗い。
「なんて言うんだろう」
 こんな色は、どう呼べばいいのだろう。真人は言葉もなくただただ月光と、それが照らすすべてに目を奪われていた。
 冷たくて鮮やかで、暖かくて鈍い。正反対のようで、同じもの。真人はそっと唇に笑みを乗せる。
「僕らみたいだ」
 凛とした佇まい、毅然とした態度。冷ややかで、けれど身内には殊の外に優しい男。細身ではありながらも強靭に見え、その実はひどく病弱な夏樹。
「僕は――」
 男にしては細すぎる体。若いときには華奢にもほどがあると悩みもした。触れれば折れそうだとは誰の冗談だったか。けれど真人は強かった。心も体も強かった。
「心は、あの人に会ったから、強くなった」
 体も、たぶんそうだ。確かに鍛えてはいた。否応なしに鍛えさせられた、と言ったほうが正しい。
 けれどそれとは別の問題だった。夏樹がああも四六時中寝込んでいるものだから。真人は思って顔を顰める。しかし唇は笑みを刷いていた。
「僕が寝込んでる暇なんか、ありゃしないもの」
 実際、夏樹が看病するなどちょっと信じがたい。思ったところで古い記憶を思い出す。
 思いが叶ったと思ったころ。逃げなければならないと思ったころ。
 自分さえいなければ、彼には平安が戻ってくるのだと信じていたころ。
 連れ戻されたのか、それとも自分で帰ってきたのか、いまだ真人は知らない。夏樹は話そうとしなかったし、聞いてもたぶん答えてくれない。
 どれほどの間、人事不省だったのか。意識もないこの体の面倒を見てくれたのは彼だった。
「ずっと」
 呼ばれていたような気がする。覚えてなどいないはずなのに、時折ふとあの頃の声が聞こえる気がする。
 眠りの中、必死に自分を呼んでいるまだ若い夏樹の声。心の耳に聞くたびにずきりとする。
 それなのに、思い出せばそれだけで自分はここにいていいのだとも思う。
「いまさらね」
 本当に、この年になってもまだそんなことを言う自分がいる。居場所に迷ったり、留まっていいのか悩んだり。
 そんなものは若さゆえの戸惑いだとばかり思っていたものを。
「本当にね」
 いつか自分を捨てて露貴のところに行ってしまうのではないかと子供のように怯える自分がいる。馬鹿らしいと笑い飛ばす自分もいる。
 真人は強く頭を振り、強いて笑みを浮かべた。頭上の月を仰げばますます鮮やか。
「西洋では、月は狂気をもたらすと言うらしいけれど」
 この分では、本当なのではないかと疑いたくなってくる。惑い迷うほど若くはないものを。そんなところは疾うにすぎた。
 迷信じみた恐れを払おうと庭に降りかけ、足が止まる。春真の仕業だろう、庭下駄があちこちになっている。遠く飛んだ片方をとりに行くのも面倒で、やめた。
「ん、決めた」
 西洋の月に狂うより、東洋の月に酔おう。
 真人は物音を立てないよう心しながら酒の支度をする。日常的に酒をたしなむわけではなかったけれど、飲めないわけでも弱いわけでもない。
 盆の上には銚子が一本。杯は、三つ。それから甘辛く煮た椎茸に、小魚の甘露煮。いずれも手製の常備菜だった。
「これは、ちょっとねぇ」
 椎茸も甘露煮も肴としては所帯じみてはいる。そこまでは、家庭でもあることではあるし致し方ない。が、さすがに茹で栗はやめた。
「いくら僕でも栗で酒は飲めない」
 ただ茹でただけで、甘い栗だった。春真が喜んで食べるから、蒸したり茹でたりしておいてある。菓子にしてもいいのだけれど、本人がこのままでいいと言っているのだから体にもいいことだし、と真人はそうしている。
「いけない」
 どうにも酒と子供は相性がよくない。気持ちがつい、子供のほうに向いてしまう。一人手酌で月見酒、と洒落込む気分が飛んでしまいそうだった。
「世の男はこんな苦労をするものなのかな」
 会社帰りに一杯引っ掛けて、などそう珍しい話でもない。そんな時、父でもある男はなにを思うのだろうか。
 自分の血肉を分けた子供を持ったことのない真人にはわからない。そういう意味では、男は皆わからないものかとも思いなおす。
 女とは違う。己の腹で育むこともなければ、身を痛めて産むこともない。
「うん、一緒かな」
 結局のところ、子供は信仰ではないかと思う。自分の愛する女が産んだから、自分の子だと、男には信じるしかない。その点、女は誰の種であろうとも、自分の子に違いはない。真人にはそれが当たり前のことなのか、羨ましいことなのか、よくわからなかった。
 酒器を載せた盆を持って、縁側に戻る。月はまだ輝いていることだろう。目を上げれば、もう月は沖天にかかっていた。
「あぁ……」
 言葉などなくていいのだと、言葉を操り歌う歌人が思う。一口の酒も飲んでいないのに早、酔ったかの心地。
 真人は杯に酒を注ぐ。一つ、二つ。それから三つ。最初の一つを取り上げて、縁側の月光の真ん中に。二つめを取り上げて今度は己の影に。三つめ、ようやく唇に含んだ。
 とろりとした酒の香り。含んでしまってから、月に杯を掲げる。その手の先に、影の杯は影ではなく、酒を満たしていた。
「杯を挙げて名月を激え――」
 また一口。小さな杯はすぐ空になる。こつりと縁に置いては注ぐ。
「――影に対して三人となる」
 今度は己の影にも乾杯を。同じ仕種で応える影に真人はほんのり笑った。今夜は心ゆくまで三人で飲もうか。そう思ったときにことりと音がする。
「あ――」
 振り返って驚いた。そして申し訳なくなる。丹前を肩に羽織った夏樹がそこにいた。
「ごめん、起こしちゃったみたいだ」
 こんな時間に用もないのに起きだす人ではない。思えば先ほどから、ずいぶん独り言を言っている。少しばかり、原稿に疲れていたのかもしれない。
「いや。物音はしたが、それだけだ」
「でも、ごめん」
「気にするな。……なんだ」
 不意に夏樹の目が杯に留まったのを目にして、真人は急に恥ずかしくなる。悪戯を見つかった子供のよう、と言うよりは子供のような悪戯をしているのを見つかった大人の気分だ。
「ははぁ、なるほどな」
 夏樹の目が三つの杯を見て取る。そして真人と、真人の影と、空の月。
「李白か」
 言い当てられて驚くほどのことでもない。にやりとした夏樹に、子供じみた自分が恥ずかしくてならなかった。
「真人」
「……なに」
「くれ」
 ことりと夏樹は縁側に座った。足を組んで腰を落としたはずなのに、動作には微塵も停滞がない。滑らかな動きだった。
「え。なにを」
 真人は戸惑う。それを見越していたよう、夏樹は杯の一つを手にした。そしていまだ握ったままの真人の杯に軽く合わせた。
「夏樹――」
「飲めよ」
「でも」
「俺の酒が飲めないのかって絡むぞ」
「注いだの、僕だよ」
 冗談に、冗談で返し、互いに一息で杯を干す。目の前に出てきた杯に、真人はまた酒を満たした。
「夏樹」
「なんだ」
「そっちのが好きだったの」
 柄違いの三つの杯。残った杯は一つ。夏樹は迷うことなくいま手にしているものを取っていた。
「なにを言ってる」
 小さく笑って、今度はゆっくりと唇を濡らす。妙に艶めいていて、困った。
「そっちは」
 まだ置かれている杯に、月が映っていた。ゆらゆらと揺らめいて、この世の他の美しいもののよう。
「俺のじゃない。こっちは――」
 取り上げた杯を夏樹は掲げる。つられたよう、真人も掲げて見せた。
「影の杯なんだろう。影じゃ話し相手にはならん。俺でよかったら相手をしよう」
 微笑んだ夏樹に真人は莞爾とした。本当ならばこんな時間に彼を起こしていてはいけない。暖かくして眠らせなければ。思っても今夜は言わなかった。夏樹も聞かなかった。




モドル