もうだいぶ慣れてきたとはいえ、歌人の真人に和歌の現代語訳はいまだ、手に余る難行だった。歌は歌で、そのまま味わえばいいと根底のところで思っているものだから、中々上手くならない。
「まぁ、ねぇ。上手い下手以前のような気がしなくもないけど」
 本当のところを言うのならば好きではないのだ、と思う。古人の素晴らしい和歌を拙い自分の手で分解するなど冒涜のような気すらする。
「受けたことだから、仕方ないけど」
 一度依頼を了承したのだ。途中で投げ出すことはしない。それでは「仕事」ではないと思う。文筆は真人の稼業ではなかったけれど、対価を得ているならば似たようなものだ。
「とはいえ、これはさすがに手に余る」
 あっさりと見切りをつけ、真人は立ち上がる。この時間ならば彼も仕事中だろうけれど、少し話しかけるくらいならば大丈夫だろう。
 と、思ったはずが、夏樹は仕事をしていなかった。むつりと本棚を眺めている。これはこれで「仕事中」かもしれないが。
「夏樹、ちょっといいかな」
 しかしあっさりと振り向いたから考え事をしていたわけでもないらしい。どうやら行き詰っているのだろう。だから真人はあえてそこには触れなかった。
「なんだ」
「悪いけど、ちょっと本を貸して欲しくって」
「本。別にいいが、なんだ」
 真人が本を借りにくることは少なくはない。だがこう改まって申し出られると興味がわく。
「あなた『百人一首一夕話』を持ってたよね」
 真人の言い出した本に、夏樹は驚きを隠せない。小さな笑いがその口許に浮かんだ。
「笑わなくったっていいじゃない」
「歌人のお前に百人一首の解説本がいるとは思いもしなかっただけだ」
「……いるよ、心の底からいるよ。もう、手に余るんだ、僕の手には」
「どうした」
 がりがりと頭でもかきむしりそうな真人の様子に夏樹は訝しいものを覚える。以前から彼は和歌の現代語訳は苦手だと言ってはいたが、それにしてもここまで悩むとは。
「あのね、夏樹」
 そう告げれば真人は諦めたように溜息をつく。それからどう説明したものか、とでも言うよう天井を仰いだ。
「僕にとって、和歌はそれだけで歌なんだ。変なこと言ってると思うけど、巧く説明できない。わざわざ――」
「現代語訳する必要がない、と言うことか」
「如何なる何語にも翻訳の必要を認めない」
 きっぱりと言って真人は眼差しを上げる。強い目をしていた。夏樹は琥珀の目だ、と思う。自分の真人ではなく、歌人の目だと。好ましい強靭さだった。
「僕には歌そのものだけで、充分意味が通る。と言うのも語弊があるよね。意味が通るだけじゃない、なんて言ったらいいのかな」
「行間が読めるということか」
「そう、それ」
 我が意を得たとばかり喜ぶ真人に夏樹はうなずく。それならば、ぼんやりとだが通じなくはない。
 夏樹と真人とでは、同じものを見ても解釈が違う。ごく当たり前のことだ、と夏樹は思う。誰しも同じものを見て同じ感想を持っているようなふりをしているだけだ。あるいはそれを共通の社会と言うのかもしれないが。
 ただ自分たちは、と夏樹は考える。小説家であり、歌人だ。同じものを見て、違うものを描き、一つの世界を作り上げる人種だ。
 だからこそ、真人の見ている真実が夏樹には見えない。夏樹の見ているものが真人にはわからない。それがいいのだと夏樹は知っている。お互いに自分の世界をすり合わせていく作業のなんと楽しいことか。
「そのわりにはお前、学校で勉強するみたいにして古語を分解してるな」
「それは好きでしてるわけじゃない。ん、好きは好きかな。僕が書いてるのは、入門書なんだ。解説書なんだ。わからない人に、わかってもらうための文章なんだ」
 珍しく真人が畳み掛けた。好きではないと言いながらきちんとこうして読み手のことを考える真人の生真面目さが好もしい。
「古語のあれこれを一々解説するのは嫌いじゃないよ」
「実は教師むきだったか」
「からかわないで、夏樹」
 彼の昔に触れそうになって真人はふと眉を顰める。けれど夏樹の声音には笑いが含まれていて気のまわしすぎかとほっとした。
「古語の解説は嫌いじゃない。でも歌をばらばらにするのは、ちょっとね」
「なるほど。品詞分解ってのは、つまるところそういうことだしな」
「ん……わかってもらえるかな。気分的には腑分けなんだよね」
「あぁ、わかる。学校の勉強でするだろう。この文章の主人公は某にこのような行動をとらせたが、作者の意図は何だってやつ」
「あれねぇ」
「勉強だからな。致し方なくはある。が、書き手としてはあまり心躍ることではないな」
 顔を顰めて言うものだから、真人の憂鬱さえさっぱり飛んでいってしまうようだった。
「それにしても真人」
「なに」
「もうだいぶ慣れただろうに」
「……慣れたけど、時々手に負えないのがあるんだよ」
「どんなだ。お前に負えないってのは」
「元々僕は強い感情を歌ったものを訳すのが苦手なんだよ」
 今度顔を顰めるのは真人の番だった。思い出すだけで音を上げたくなるのだから、根を詰めすぎというものかもしれない。
「手伝えるとは思わんが、教えてくれるか」
 夏樹のなだめるような声に真人は正気づく。こうして愚痴の一つも聞いて欲しかっただけかもしれない。
「わびぬれば今はた同じ、難波なる」
 上の句だけを読み上げれば、夏樹の顔が渋くなる。見当がついたのだろう。話が早くて助かった。
「あれ、翻訳できるのか」
「やらないと原稿料がもらえない」
「……哀しい現実だな」
 とても大物作家と著名歌人の会話ではなかった。互いに顔を見合わせて笑みを浮かべる。どことなく悪戯をするような顔だった。
「それであれか」
「そう、ちょっとでも訳の助けになるかと思って」
 夏樹所蔵の『百人一首一夕話』を借りにきた、と言うわけだった。自分では持っていないところがさすが真人だと内心で小さく笑い、夏樹は目当ての本を探してやった。
「これでいいか」
 探すまでもなくすぐに見つけたその本は、古いものだった。夏樹自身、おやと首をかしげたほどに。
「夏樹、これ」
 ぱらぱらと紙を繰っていた真人の顔色がおかしかった。ありえないものでも見ているかのよう、目が泳いでいる。
「どうした」
「自分で、見て」
「おい」
「そのほうが、早いから」
 いやな予感なのかいい予感なのか、真人には区別がつかない。けれどある種の予感であることだけは、確かだった。
「……おい」
 誰に言うでもなく夏樹は呟き、頁を繰る。一枚、さらに一枚。しまいには、全部を。
「聞いてもいい、夏樹」
 呆然と、夏樹は本を両手に捧げたまま立ち尽くしていた。この本がなぜここにある。否、それはわかっている。
 自分が実家から、持ってきた本だった。両親が共に亡くなった後、冬樹が少しばかり本の整理をしたいと言うので選んだ一冊に違いない。あのときは、真人の役に立つかと思った。
「そうだ、お前の役に立つと思って、俺はこれを持ってきたんだ……」
「夏樹、ちょっと。大丈夫。夏樹」
「ん、あぁ。いや、大丈夫だ」
「そう見えないよ、こっちきて。座って」
 座敷に連れ出され、引きずるように座らされた。諾々となすがままになっている間も、夏樹の手は強く本を握っていた。
「夏樹」
 すぐに茶が出てきた。目の前に突き出された湯飲みにしばし目をとどめ、受け取ろうとしたところでまだ本を持っていることに気づく。
 苦笑して、机の上の置いた。それから茶をありがたく含む。程よくぬるめた茶に人心地がついた。
「もう、わかっているだろう。お前」
「たぶんね」
「だったら」
「でも、あなたが自分の口で言ったほうが、いいと思う」
 押し付けがましくはない、それでも強い声。夏樹はうなずき、本の表紙を手で撫でていた。
「父の本だな、これは」
 やはり、と言うよう真人はうなずいた。それからまだ言うべきことがあるだろう、目顔で告げる彼に夏樹はうなずきを返す。
「書き込みがいっぱいあったの、お前も驚いていたな」
「たくさんあったことより、その凄さだよ」
「凄い、のか」
「いますぐ出版社に殴り込みをかけて僕が書いた解説文を全部破棄したいくらいに」
「俺はお前の書くものが好きだがな」
「茶化さず、夏樹」
 軽く頬を染めた真人に夏樹はにやりと笑う。それでようやく肩の強張りが解けた。
「父の、手慰みだったんだろうな。お前も知ってのとおり、俺の知る父は抜け殻だったわけだ。生きた屍の趣味にしては上等だろうさ」
「夏樹」
「別に恨んでも怒ってもいない。強いて言えば、幸せな人だったと思う」
「しあわせ」
 鸚鵡返しの真人の声の不思議さに夏樹は笑う。それからもう一度本を手に取り、軽く繰る。見覚えがある手蹟があちらこちらにある。
「全身全霊をかけて愛した人がいた。その人の死後は抜け殻になるくらいに。それはそれで幸せだろう」
「……そう、かな」
「納得できないか。いいさ、俺がそう思うってだけの話さ。父は、こんな恋をした。だからこれは、実感なのかもしれないな」
 ぽん、と真人が訳しあぐねている歌の書き込みを指で叩く。言葉のない真人に夏樹は笑みを向けた。
「だからな、真人。お前がこの歌を訳せないのはむしろ俺にとっては、嬉しいことだよ」
 知って欲しくない。こんな強い思いなど決して。悲しいと言うも愚か、絶望と言ってもまだ生温い思いなど、真人が知る必要はないとばかりに。
 真人は答えず夏樹の肩先に額を乗せる。言葉よりなお雄弁だった。




モドル