原稿を書く手を休め、真人は茶を淹れに立つ。ちょうど昼に焙じたばかりの茶がある。鼻に近づけ香りを吸い込み、ほっと息をついた。
「うん、いい匂い」
 熱い湯を二杯分の茶に欠けるくらい、入れる。二つの湯飲みに注ぎ、けれど一つは少ない。再び急須に入れた湯は、ひどくぬるかった。
「ん、ちょうど」
 少ないほうの湯飲みにぬるい茶を注ぎ足せば、夏樹好みのぬるい茶になる。温度を手で確かめて、真人は湯飲みを盆に載せた。
「夏樹。休憩にしない」
 座敷を覗けば、こちらもちょうど呼ぶところだったのだろう。息をついたばかり、と言った風情の彼がいた。
「いい具合だな」
「なにが」
「いま、呼ぼうと思ってた」
「それはよかった。お菓子、食べる」
 問いかければ曖昧に彼は笑う。要らないというわけでもないが積極的に食べたいというわけでもない。そんな顔だった。だから真人はさっさと羊羹を切ってくる。
「羊羹なんかあったのか」
「忘れたの」
「なにをだ」
「こないだ露貴さんが持ってきてくれたじゃない」
「そう……だったか」
 不思議そうな顔をして首をひねるものだから、これは本当に忘れていたのだろう、と真人は笑う。
「露貴さんも頂き物だって言ってたけど」
「あぁ、あれか。自分は食べないからって持ってきたんだったか」
「それそれ。おいしいのにね、残念」
 くつくつと笑いながら真人は羊羹を口に含む。程よい甘さと小豆の風味に頭の疲れが溶けていくようだった。
「おかしなやつだよ」
「誰がなの。あぁ、露貴さんか」
「小豆は嫌いじゃないし餡も食う」
「それなのに羊羹は食べないんだ。ほんと、不思議だね」
「まったくだ」
 からりとした笑い声を上げて夏樹も小さく切って羊羹を口にした。あまり間食をする人ではないから疲れているのだろうかと不安になってしまう。そして勧めたのは自分だと思いなおして真人は内心で小さく笑った。
「ねぇ、夏樹」
 呼びかければ、まだ口に羊羹が入っているのだろう。何か、と言うよう目が問うてくる。彼が一口茶を含むのを待って、真人は問う。
「初恋って、覚えてる」
 尋ねた途端、失敗を悟った。質問が間違いだったのではない。間が悪かった。狙ったわけではない、断じて違う。が、彼は偶々まだ茶を飲み込んでいなかった。結果、どうなるか。
「お前な、真人」
「ごめん、大丈夫だった」
 呆れ顔で睨まれてしまった。行儀悪く吹き出した茶を慌てて真人は布巾で拭い取り、はてと首をかしげる。
「ちょっと待って」
 布巾片手に真人は微笑む。怒られるのは、自分だろうか。それとも、「他愛ない質問に驚いて吹き出した夏樹」だろうか。
「おい、真人」
「ねぇ、夏樹。僕は別にあてこすってはいないし、露貴さんのことなんか一言も言ってないんだけど」
「だからな」
「そりゃね、羊羹で思い出したし連想したけど。でもそれだけ。あなたが驚くようなことかな」
 にっこり笑う真人に夏樹は答えない。苦い顔をしてそっぽを向いた。そんな態度に生憎と真人は慣らされている。
 さっさと座を立って改めて茶を淹れなおしてきた。ついでに菓子鉢にあられをざらりと入れてきた。
「はい、夏樹。新しいの、ここにおくからね」
 聞こえているのだかどうだか。返事もしないで庭を眺めていた。もっとも、耳だけはこちらを向いているのが真人にはわかっている。
「なぁ……」
 熱い茶のお供にあられをぽりぽりと齧っていた真人がそれを充分に堪能したころ、夏樹がぼそりと問いかける。
「ん、なに」
「お前――」
「だからね、夏樹。僕は偶々青春の若い恋の歌を訳していて、そういえばあなたの初恋っていつだったのかなって思っただけ。別に露貴さんのことじゃない」
「だったら――」
「言ってる暇はなかったよ、夏樹。僕も……迂闊だったけどね」
 夏樹が振り返る。送ってくるちらりとした眼差し。互いの言葉。それで和解だった。
 ほっとして真人ははじめから夏樹が手をつけないであろうことを見越して熱いまま淹れておいた茶を勧める。
「――旨い」
 程よい温度であったことに夏樹は苦笑する。こうも行動を見透かされていると怒るのも拗ねて見せるのも馬鹿らしくなってくる。
「ごめんね、夏樹」
 けれどいつもそうだった。他愛ない言い争いをして、すぐに和解をする。そして先に謝るのはいつも真人だった。
「いや」
 夏樹は何も言えなくて、言わなくていいと真人が言ってくれることを感じる分、申し訳なくもありがたい。
「あられ、おいしいよ」
 真人はそう勧めつつ、夏樹が気づかないところまで、申し訳なく思っていた。
 こんなに軽々しく露貴の名を出すべきではない。うっかりしていたなど、言い訳にすぎない。長い年月が経った今でも、夏樹と露貴の間は危うい緊張を孕む。
 夏樹は口では言う。もう露貴が思うのは自分ではない、と。しかし彼も知っているし、真人も知っている。露貴の思いがどこにあるのかは皆が知っている。
 夏樹は黙って微笑み、真人が差し出した器からあられを取る。小さな菓子が彼の歯の間で砕かれ、乾いた音がした。
「まぁな、露貴の初恋だったら知ってるがな」
 肩をすくめ、茶化すよう夏樹は言う。はっと息を飲んだ真人を目でたしなめ、終わったことだと眼差しで語る。
「夏樹」
「俺自身の、と問われればわからんとしか言いようがないな」
「どうして、夏樹」
「お前の問う意味は、初めての恋、じゃないだろう。なんの歌だ」
 引き締まった眼差しに真人はすらすらと答える。不意に篠原忍に水野琥珀が問われているのだ、と気づいた。
「若い日の恋、な。その印象は俺も持った。だったらやっぱり初恋とは限定できないな。と言うより違うな」
「そうかな」
「少なくとも、俺はそう感じた」
 それにこくりと真人はうなずく。自分の印象と、さほどかけ離れてはいない。けれど乖離はある。それがまた、楽しい。そう思ったことでこの問答を楽しんでいる自分を自覚した。
「ん……僕はさ、なんていうのかな、こんな青さって、若いころだと思うんだよね」
「自分の人生はまだまだ先が開けていて、なんでもできると思う傲慢。恋をしたなら、相手を思って一直線」
「そうそう」
「だが、それはそれで怖い気もする」
 言って夏樹は言葉を切った。それから瞬きをして、茶をすする。首をかしげたところを見れば、いずれどこか作中でこんな文句を使うかもしれないと言うことか。それから小さく首を振ったのを見て真人もまた首を振る。こんなありきたりでは使えない、と彼が判断したのが伝わってきた。
「怖いって、なにが」
 それを待って、真人は問いかけた。夏樹はもう一口茶を含み、ゆっくりと喉に流していく。
「若いって言うのは目が見えないもんだ。絶対に自分が正しいと思ってる。でも、思った相手が自分を思ってくれないかもしれないと言う程度のことはわかってもいる」
 一人でうなずいて夏樹は再び羊羹に手を伸ばした。珍しく量を食べている。動揺しているのか、疲れているのか。それこそ偶々かもしれない、と真人は思った。
「自分が正しい。だから、自分が可愛い。断られて傷つくのは、いやなものだろう」
 問うような目に真人は苦笑する。若い日というものは、そんなものかもしれない。
「そう言う恋ならば、まぁ。わからんでもない、な」
 ふと漏らされた言葉に、真人は眉を上げる。問い質したのではない、驚いた。
「そんな風に思ったことが、あったんだ」
 いったいいつのことなのだろう。遠い日の幻。彼がまだ華族の若君であった頃。真人には想像もつかない別世界だ。
「ないのか、お前は」
 けれど夏樹は悪戯をするような目をして問い返すばかり。真人は黙って茶をすする。もうずいぶんぬるかった。
「あなたの……若いころが想像できないだけだよ」
 少しばかり言葉を濁して真人は笑う。それでも夏樹には通じるだろう。
「笑うな、一般論だ」
 やはり通じた。あえて笑って見せる夏樹が痛々しくて真人は言葉を継げないでいる。
「なぁ、誰かを思うときは、そういうものじゃないか。若いも老いたもない」
「ん、なにがなの。夏樹」
「同じ思いを返してくれるか、不安になる。思っていていいのかすら、不安でたまらなくなる」
「若さ故ってわけじゃ、なくてなの」
 夏樹が言わんとするところが、掴めそうで掴めない。真人の眼差しが揺れているのに気づいた夏樹が仄かに微笑んだ。
「いつも同じ、と言いきれはしないかな。それほど、何度も繰り返してきたことじゃない」
 少しばかり遠くに投げた彼の眼差し。その先にはいつの時代の誰が映っているのだろう。思って、けれど真人は考えるのをやめた。
「あれはもう……若いとは言えないな。が、よく覚えている」
「夏樹、その先は――」
「人が一世一代の賭けに出たってのに、きょとんとして答えてくれなかった誰かさんのことだったら、今でもあの時の不安共々よく覚えているよ」
 にやりと笑った夏樹に虚をつかれ、しかし真人は気づけば笑い出していた。すぐ手の届くところに一緒に笑う人がいる。たぶんこれを幸福と言うのだ、真人はそう思う。




モドル