夕食後の洗い物をしていたら、春真がそっと足音を忍ばせて近づいてきた。なにやら笑いをこらえている気配に真人は振り返る。
「どうしたの」
 問いかければ、こらえ切れなかった笑いが唇の間から漏れだして、慌てて春真は口を覆う。
「伯父貴って、実は猫馬鹿なの」
 座敷を振り返った春真に、真人はたしなめるのも忘れて小さく笑った。
 先ほどまで聞こえていた声が、今は聞こえない。食後早々に夏樹は原稿を書きはじめたはずだ。
「だから乗ってはだめだと言っているだろう」
「邪魔だと言っているだろう」
「ほら、どきなさい」
 何度となく聞こえていた彼の声が途絶えている、と言うことは。
「ハル。伯父様、負けたの」
「うん。負けた。原稿用紙の上に陣取ってるよ」
 あっさり言って、まだ笑いの衝動の去らない春真はくつくつと肩を揺らす。
 猫だった。いつからか遊びに来るようになった純白の猫。長い毛足は洋猫の血が入っているせいか。そのくせ、顔立ちは日本猫そのもの。実に美しい猫で、最初に虜になったのは夏樹だった。
 そもそも近所の飼い猫だったらしい。最近はこちらを我が家、と定めてしまったのか元の住処に戻ることはなく、元飼い主も何も言わない。一応、真人は挨拶だけはしてあったが、あちらは何匹も猫がいる、とのことでかえってよろしくと頼まれてしまった。
 おかげで、今はすっかり彼の猫だった。そのくせ、飼い主がいると知って当初、夏樹は猫に名をつけなかった。ただ猫、とだけ呼んでいたのが定着してしまって、今でも白い雌猫は猫、とだけ呼ばれている。
「邪魔だろうにねぇ」
 原稿の締め切りが迫っているはずだった。締め切りを破ることなど考えられない人であったから、それでもきちんと書くのだろうけれど、一体どういうつもりなのだろうと真人は不思議になる。
「諦めて頭撫でてるよ」
 春真の言葉にそっと二人して座敷を覗けば、言葉通り猫の言いなりになって撫でさせられている夏樹がいた。
「……とても他人様には見せられないね」
「ほんと、同感」
 真人が言えば春真が同意する。少しばかり呆れた春真の声音にいくらなんでもあんまりではないか、と抗議したくなる自分を抑え、真人は小さく笑う。
「ハル、伯父様はほっといてお風呂はいっておいで」
「えー」
「ハル」
 わずかばかり逆らって見せた春真にひと睨みをくれれば、ちょこんと飛び上がってそそくさと風呂に行く。
「ちゃんと洗うんだよ」
 その背中を声で追いかければ、わかってるよ、と苛立った声が返ってきた。
「もう小さくはないんだねぇ」
 これくらいの年になれば、そんな風に気遣われるのが面倒にもなるだろう。煩わしい、と表現してくれる春真が真人はけれど、嬉しかった。まるで本当の親子だ、と錯覚させてくれる。
「真人、どうした」
 声に気づいたのだろう、夏樹が座敷から振り返る。少しばかり情けない顔をしていた。
「猫や、飼い主さんはお仕事だよ」
 言って真人は原稿用紙の上から猫を抱き上げる。いやだ、と言うよう猫は身をよじって鳴いた。
「おい、真人」
「原稿用紙、真っ白だよ、夏樹」
「それを言ってくれるな。やろうとしたら猫がきたんだ」
「どければいいじゃない」
「……そんな可哀想なことができるか」
 ぼそりと言って、しかし夏樹は万年筆を手に取る。編集者あたりが見たら機嫌を損ねた姿と見ることだろうが、生憎と真人は騙されない。照れているだけだった。
「猫や、飼い主さんはお前のご飯を稼ぐんだよ。邪魔しちゃだめだ」
「あのな……」
「僕もお前のおやつを稼ぐからね、いい子にしておいで。風呂から上がったらハルが遊んでくれるよ」
「おい……」
「夏樹」
「なんだ」
「仕事、したら」
 一言いえば、折れんばかりに万年筆を握り締めて睨んできた。幸い、怖くはない。それこそ編集者ならば失神しかねないだろうが。
 夏樹を見下ろして微笑む真人の腕の中、雪白の猫はのんびりと鳴き声をあげた。

 そんな風にして過ごしていたはずだった。その猫が、数日来、姿を見せない。夏樹は気が気でないのだろう、うろうろと庭や縁の下を探している。
「猫や、猫」
 呼びかける声も弱々しくて真人は見ていられない。真人自身、買い物に出たときはもちろん、そうでなくとも近所を捜し歩いてるのだが、さすがに相手は猫だ。どこに隠れてしまったものか、一向に探し当てられないでいる。
「まいったね」
 よもや、と思うが万が一のこともある。もしもの時には夏樹には言えないだろうと真人は思う。春真も学校の行き帰りに探して歩いているのだが、やはり猫は見つからない。
「――いなかったみたいだな」
 買物から帰ってきた真人の顔を見た途端、夏樹が問う。傍目にも憔悴しきっていて、真人は答えられない。それが何よりわかりやすい答えだったのだろう。夏樹がうつむいた。
「夏樹……」
「いや、ありがたいと思ってるよ。あちこち探してくれてるだろう」
「そう言う言い方はやめて。僕だって、心配なんだ」
「……すまん」
 普段ならば他愛ない口喧嘩のはずが、一瞬の緊張を孕んだ。それだけ、二人にとって、否、この家庭にとってあの猫は欠かせない家族となっていた。
「夏樹、どこいくの」
 ふらりと立ち上がった夏樹が、庭に降りていく。その姿が寂しそうで真人は追うに追えない。ただ眼差しだけをついていかせた。
 夏樹は黙って梅の木の下に佇んでいた。夏の日、純白の猫が木陰で涼しげに転寝をしていた梅の木。夏樹は黙って木肌に手をつく。
 まるで、語りかけているようだった。梅の木に、猫がいなくなってしまったと告げ、お前も探してくれと懇願してでもいるようだった。
「夏樹、帰ってきて」
 不意に不安になって真人は庭に飛び出す。驚いたよう、夏樹はその腕に彼を抱きとめた。
「どうした」
「……あなたが」
「真人、大丈夫か」
「あなたが、あなたまで、遠くにいっちゃいそうな、気がして」
「おい」
 そう言って笑った夏樹は、生身だった。先ほどまでの消えていきそうな何かではなく。そのことに真人は目を瞬く。
「お前ね。俺はなんだ、桜の下の美少年か。そんな年でもないぞ」
「わかってるよッ」
「――悪かったな」
 苛立った真人の声に、心配させてしまった事実が夏樹の胸に染みとおる。まだ春真は学校から帰らない。それを見越して真人を庭先で抱きしめた。
「夏樹。だめ」
「誰も見ちゃいない」
「そういう問題じゃないでしょ。それこそいい年して、まったく」
 するりと腕から逃れ、真人は笑っていた。そのことにほっと息をつき、夏樹は座敷に戻っていく。ちらりと梅の木を振り返れば、目の隅に真人が映る。
「明日も、探すから」
「頼む」
 お互いにうなずいて、心の中に同じ言葉を唱える。早く帰っておいで、猫。それが聞こえた気がして、真人は夏樹の目を覗いていた。
 翌日も、翌日も夏樹は梅の木の下に立つ。そして梅に語りかけていた。さすがにそれを見ても春真は何も言わない。伯父をからかわない春真に、事態の深刻さが際立った。
 今日もまた、夏樹は梅の木の下。横目で見て真人は夕食の仕度に立つ。せめて少しでも精のつくものを食べさせないと、夏樹の体が持たなくなってしまう。そのときだった。
「猫――」
 まるで悲鳴じみた夏樹の声。咄嗟に庭を振り返れば、灰色のみすぼらしい猫がいた。まさか、と思ううちに夏樹が猫を抱き上げる。
 やっと、真人にもわかった。あれはあの猫だった。白い毛皮は泥と埃に汚れ、怪我もしているのだろう、乾いた血までついている。おまけにずいぶん痩せたらしい。
「猫や、よく帰ってきたなぁ」
 そんな汚れた猫に夏樹は頬ずりをした。猫は猫でほっとしたのだろう。抱きしめられるのを厭うでもなく、腕の中で甘えた声をあげている。
「真人。バターだ、バター」
 腕に抱いて、どれほど猫が痩せ細ってしまったのか夏樹は知ったのだろう。ぎょっとしたような声で真人を振り返る。
「はいはい、ちょっと待ってて」
「いや、それより水が先か、喉が渇いただろう。な」
「はいはい、水ね」
「海苔は食べるか、鰹節がいいか。うん」
「はいはい、ちょっと待ってね」
「おい真人、露貴が持ってきたバターが……」
「わかったから、ちょっと待って、猫だって驚いてるよ」
 言われてやっと自分の慌てぶりに気づいたのだろう、夏樹が照れて笑った。座敷の中、春真が呆気に取られたよう伯父の姿を見ている。次第にそれは笑みに変わり、ついには盛大な笑い声になった。
「笑うな」
 苦い声でたしなめられたけれど、春真は伯父が照れているだけなのに気づいている。だからにやりと笑って真人を見上げた。
「笑っちゃだめだよ、ハル」
「真人さんだって、笑ってるよ」
「僕は猫が帰ってきて嬉しいからね。心配してたよ、猫」
 夏樹の腕の中の猫の額をそっと指先で撫でれば、ついぞ聞いた例のない甘えた鳴き声。ほだされて真人は言われたものを全部用意する。こんなに食べさせては腹を壊すのではないか、だしてから気づく有様だった。
 さすがに猫のほうが心得ていた。少しばかりバターを舐め、心ゆくまで水を飲み、それからほっと眠りに落ちる。
 その姿に食欲がない、病気かと夏樹が心配そうに問いかけるのに、真人と春真が笑い声を上げた。夏樹も気づいたのだろう、小さく笑う。帰ってきた猫を囲み、三人で笑い声を上げる。薄目を開けて猫はうるさそうに人間を見やり、また眠った。




モドル