朝、目覚めて隣の夏樹を窺う。まだ穏やかな寝息を立てていた。春真の目をはばかって、一応布団は二組敷いてある。かなりの確立で、どちらかしか使われていなかったが。
 小さく微笑んで真人は寝床を抜け出し、普段着の絣に袖を通す。そっと部屋を出ては春真の寝間の前で息を窺う。まだよく眠っているようだった。
 真人の朝は早い。慣れた動作でするりと襷をかけ、水加減の済んだ米を炊き、昨夜のうちに昆布を浸しておいた鍋を火にかけて、鰹節を加えて出汁をとる。
 米が炊き上がったころには、出汁も粗熱がとれていた。味噌を溶き、豆腐を加えてひと煮立ち。葱を散らせば味噌汁の出来上がりだった。そのころには卵焼きも焼き魚もできている。
「夏樹、ハル。ご飯だよ。起きて」
 台所から声をあげれば、もそもそと春真が起きだしてくる気配。夏樹はまだ眠っているのだろうか。
「ハル。伯父様、起こして」
「はーい」
「ハル。返事は、どうなの」
「はい」
 苦笑いと共にぴしりとした返事が返ってくる。本当ならばそれはそれで怒るべきなのだろうが、これはこれで春真の甘えと知っている真人は叱らない。あまりにひどければ、夏樹が叱るだろう。
「――すまん、朝か」
 夜着のままの夏樹が目許をこすりながら起きてきた。昨夜は一緒に眠りについたはずだから、さほど寝不足ではないはず。思った途端に春真の目が気になる。
「真人、どうした」
 寝ぼけ眼だったはずなのに、いやに鋭い目に真人は口許だけで笑って見せる。無言の笑みが返ってきた。
「おなか空いたよ」
「朝から元気なことだ」
「伯父さんが軟弱なんだ。僕のせいじゃない」
「育ち盛りってやつだな」
 言って嫌がる春真にかまいもせず、夏樹は甥の髪の毛をかきまわす。
「やめてよ、いやだって言ってるじゃんか」
「ほほう。聞こえなかったなぁ」
「伯父さん、いい加減に――」
「ハル。伯父様で遊んでないで、ちゃぶ台きれいにして」
「僕は――」
「わかってるよ、ハルは悪くない。朝から機嫌のいい伯父様が悪い」
「……おい」
 示し合わせたように笑いあう春真と真人に夏樹は肩をすくめ、春真から台拭きを奪い取る。
「ちょっと、伯父さん」
「いい。こっちはやっておくから、新聞」
「じゃ、お願いします」
 それだけは礼儀正しく言って春真は玄関に飛び出していく。
「ありがと、夏樹。ごめんなさい」
「別にいい」
「あなたにやらせると、心が痛む」
 言いながら真人は笑っていた。台拭きを受け取りがてら、出来立ての料理を並べていく。まだ湯気の立つそれに夏樹はまぶしそうな目を向けた。
「……慣れないな」
 ぽつりと呟かれた言葉に苦笑の影を見た。思わず胸をつかれて顔を覗き込んでしまう。
「夏樹、どうしたの」
「いや……家庭だな、と思ってな」
「そう、だね。うん。家庭、だね」
 互いの微妙な関係。そこに加わる春真。家庭とは間違っても言えない、けれど紛れもない家庭。
 だがそれとは別に、夏樹には思うところがあるのだろう。子供時代に経験することのなかった、家族の匂い。
「悪くない気分だ」
 熱い朝食の並ぶ食卓。立ち働く家人の足音。手伝う子供の声。
「面白いものだよね」
「ん、なにがだ」
「いずれにしても、あなたが経験することのなかったものでしょ。新鮮だろうなって思ったの」
 華族の若君であった夏樹。もしもそこがまともな家庭であったとしても、このような食卓は経験したことがなかったはずだ。
「まぁな」
 仄めかした真人に夏樹は小さく笑う。新聞を持って駆け戻ってきた春真が、埃が立つと真人に叱られている。
「ちょっと、夏樹」
 朝食を前に新聞を開けば、刷り立てのインクの匂い。無作法だといって機嫌を損ねる真人の声。
「あぁ」
 生返事。春真にはそう聞こえた。真人には、深い感慨をこめた声に聞こえた。
「夏樹、ご飯だよ。聞いてるの」
「聞いてる」
「だったら」
「真人さん、もういいじゃん、食べちゃおうよ」
「だめ。伯父様を待ってから。ね、ハル。だから伯父様の顔をじーっと見てなさい」
「……おい」
「おなかを空かせた子供が見てるよ、夏樹」
 新聞から目をはずせば、真人がにっこりと笑っていた。諦めて傍らに新聞を置く。そうしていながら、真人にはわかっているだろうことも感じていた。
 あまりにも、幸福だった。毎日の繰り返し。当たり前に過ぎていく日常の日々。
「いただきます」
 箸を取って、口をつければ、春真が勢いよく食べはじめる。呆れたよう、真人は笑いながら台所に立つ。すぐに茶碗が空になることだろうと。
「真人さん、おかわりちょうだい」
 あっという間に空になった茶碗に真人は炊き立ての飯をよそう。ちらりと夏樹の茶碗を見やれば、まだ二口と減っていない気がした。
「真人、いいから座れ。春真にやらせればいい」
 おかわりくらい自分でやれ、と目顔で春真に言って見せれば、甥は甥でちらりと目だけで笑う。真人がやりたがっているのだから、とでも言っているようで夏樹は内心で肩をすくめる。
「ほんと、ハルは伯父様に似てきたねぇ」
 そんな二人の無言のやり取りを感じている真人がさももっともらしげに言えば、二人して嫌そうな顔をしてそっぽを向くのもまた、日常。
「行ってきます」
 あっという間に食べて、あっという間に学校に行った春真を見送って、ほっと息をつく。焙じたての茶を淹れれば、よい香りがした。
「夏樹。お茶置くよ」
「あぁ」
「熱いからね」
 本当は熱くなどない。だから夏樹は気にも留めず新聞を読みつつ湯飲みに手を伸ばす。手のひらに伝わる温度が心地良かった。
「用事があったら声かけてよ」
 言い置いて、真人はまた立ち働く。洗濯に、掃除。片付け物がいくらでもある。一段落した頃には、昼食の支度をせねばならない。
「真人」
 そろそろ台所に戻るか、と思ったころ夏樹から声がかかった。もう原稿用紙に向かっているだろうと思っていたのに当てが外れたらしい。
「どうしたの」
 だが覗いてみれば、きちんと原稿用紙に向いていた。しかも白紙ではないから、仕事をしていたのだろう。
「そろそろ昼だろう」
「うん、用意をしようと思ってた。ちょっと待ってて」
「いや……蕎麦でも食わんか」
「あ、いいね。じゃあ――」
「そうじゃない。食いに行かないか、たまには外に」
 珍しい言葉に真人は一瞬返答を失う。人嫌いの夏樹から外出の誘いがあるのは実に珍しい。にこりと笑って襷を外した。
「ちょっと待ってて。着替えてくる」
「そのままでかまわんだろうが」
「さすがにちょっとね」
 清潔で着慣れた絣の着物は、決して悪いものではない。そもそも、元をただせば夏樹の持ち物。とはいえ、掃除も洗濯もこの形でしているのだ。すぐそこまでとはいえ、多少は気になる。
 着替えた真人に夏樹は不審そうな目を向けた。さすがに元々自分の着物だ。どこがどう違うのかは、わかっている。が、似たような絣を着ているのになぜ着替えたのだろう、とは思う。
「いいから気にしないで。行こうよ。お待たせしました」
 軽く言って真人は夏樹に手を伸ばす。どちらが誘ったものだかわかったものではない。そう思いつつ、楽しげな真人を見ればもっと頻繁に連れ出してやるべきだとも後悔する。
「夏樹」
「なんだ」
「たまにだから、楽しいんだからね」
 内心を見透かされて夏樹は肩をすくめた。夜着姿のまま朝食を食べていたはずが、原稿用紙を前にして、いつの間にか着替えたらしい。こちらも普段着の紬だった。それに目を留めて真人は懐かしそうな顔をする。
「どうした」
 外に出てみれば、いい風が吹いていた。とはいえ、二人きりでもないし人目も気になる。自然、夏樹の声も密やかなものになる。
「その着物、昔よくきてたなって思って」
「そうだったか」
「うん。最近はあんまり袖を通していなかったでしょう」
「そう、だったかな」
 言われてみればそんな気もする。思えば若いころはずいぶんと渋いものを着ていたものだ。
「いまのほうが、似合うよ」
 小声で言って真人はそっと微笑んだ。うなり声とも納得とも取りがたい声を口の中にこもらせた夏樹は目もあわせずに腕を組んで歩いていく。
「そんな格好してると、文士様だね」
 後ろからからかう真人の声。夏樹は答えず、けれど前を向いたまま仄かに微笑っていた。
「ねぇ、夏樹」
「うん、なんだ」
「昔のね、若い頃の苦しくて、苦くてどうしようもない、そんな恋があるじゃない」
「なんだ、急に」
「風をいたみ、の歌だよ」
 それだけであぁ、と納得してくれた。真人は少しばかり足を速めて隣に並ぶ。
「そんな恋もいいものだけど、でも」
 人目をはばかりながら、横目で見上げた。遠くを見ているふりをして、小さく笑っていた。
「こういう、当たり前の日常も、悪くない。だろう、違うか」
「もう、夏樹ってば。まぁね、そうなんだけどね。なんだか老夫婦の日常って、こんな感じかなって思って」
「……さすがにまだそこまでいってはいないと思うぞ」
 わずかばかりの呆れ声。そこに含まれた肌の熱に真人は仄かに目許を染めて夏樹を睨みあげた。




モドル