春真が夕食をもそもそと食べている。普段は元気な子供だったが、機嫌が悪かった。否、機嫌が悪いのは春真ではない。 「ごめんね、ハル」 真人のほうだった。 「別に」 言いながら、おかずを口に運ぶ。むつりと押し黙った風情など、いやに伯父を思い出させる。 二人きりだった。それほど口数が多いほうではない夏樹なのに、いないとなると途端に家の広さを感じてしまう。 「帰ってこないね」 茶碗の中を睨み据えたまま、春真が言った。真人は言葉なくうなずくだけ。 「露貴おじさんのとこって言ってたけどさ」 「うん」 「こんな遅くなるならそう言ってけばいいのに」 「露貴さんのとこに行ったんだもん。遅くなるのはわかってたよ、僕は」 「でもさ。晩御飯、食べないなら食べないってちゃんと言ってくべきじゃん」 春真の眼差しがちらりとちゃぶ台の一方に流れる。そこには伏せたままの夏樹の茶碗、箸、取り皿が一揃い。 「ハル」 「なに」 「伯父様、ご飯要らないみたいだから、伯父様のおかずも食べちゃっていいよ」 「でも、さ」 「いいよ、帰ってきておなか空いてるようだったら、軽く何か作るから。大丈夫。ね」 にっこりと笑ったつもりだったのに、春真は顔を強張らせた。それだけ自分の顔も強張っているのだろうと真人も気づいたが、どうしようもなかった。 言えるはずがない。自分が不快を覚えている理由。夏樹が露貴に会いに行った。自分と夏樹との関係。夏樹と露貴の間にあるもの。とても春真に言えるはずがない。 「……うん」 無理やりうなずいて、春真が更におかずを皿に取る。真人はそっと唇を噛んだ。本当は、もう食べたくないのかもしれない。自分のために、と春真が食べてくれるのを感じる。 「ハル――」 「別に、そんなんじゃない。まだ、おなか空いてるから。それだけ」 「ハル、ごめん」 「なに謝るの。別に真人さんはなんにもしてないじゃん」 さらりと言ったくせに、皮肉に聞こえた。これ以上なにを言うこともできず、食欲の欠片もないままに箸を取る。 春真以上に砂でも噛んでいる気分だった。何を食べても味がしない。夏樹が帰ってきたら喜ぶだろうと思って焼いた鰤の鍋照り。大鉢に盛ったたっぷりの肉じゃが。大根の浅漬けも、夏樹の好物なのに。 「これ、ちょっととっとこうよ」 「ん、なに」 「大根。伯父貴、好きじゃん」 「いいよ、食べちゃって」 「真人さん」 たしなめる声が、まるで夏樹だった。知らず動作が止まった真人は瞬きをする。子供の頃の夏樹は、こんな姿かたちであったのだろうか。思った途端にぞっとした。春真は春真であって、夏樹の身代わりではない。自分の息子でもない。 「……そうだね、帰ってきたら、それでお茶漬けにしてあげようか」 がさがさと掠れた声のような気がした。それすらも春真は聞かなかったふりをしてくれる。違う、と真人は気づく。まだ子供だ。自分で思っているよりは、普通の態度を取れているのだろう。 「いいよ、そんなの。真人さんがしなくっても。伯父貴が自分でやればいいんだ」 「ハル、そんなこと言わないの」 「だって」 「だいたい、伯父様が台所に立ったりしてごらん。僕の用事が増えるだけじゃないか」 「それもそっか」 にやりと春真が笑った。見透かされている。そんな気がして真人は苦笑した。 まさかとは思う。けれど、自分が否定するのを見越して春真がすげない言葉を放った、そんな気がしてならない。 「ごちそうさまでした。ほんと、伯父貴って馬鹿だよな。絶対今日のご飯、おいしいのに」 「それじゃなに、いつもは違うとでも」 「そんなこと言ってないじゃん」 悲鳴じみた春真の声にいったいどれほど救われているのだろう。 わかってはいる。何もかもわかってはいる。露貴のところに行ったのは、彼の用事があるからで、夏樹は露貴の請いは断らない。もっとも心を許した友人とも言い得る血縁だからだ。断じてそれ以上の意味はない。わかっている。 そして露貴がそれを嵩に着ることもないのもまた、わかっている。会いにきてくれ。ただそれだけの用事であったとしても、夏樹は露貴を訪れるだろう。だからこそ、露貴はそれをしない。 本当に、夏樹の手助けがいるからこそ、露貴は彼を呼んだ。だからこそ夏樹は応えた。 わかってはいる。何もかもわかってはいる。だからと言って、身のうちに育つ不安はどうにもならない。 「宿題、終わったの」 「まだ。これからするよ。作文なんだよね」 「じゃあ、一人で頑張らないと」 「そうなんだよね。ちょっと面倒くさい」 そう言ったときだけ、春真は年相応の幼さを見せた。そのことにほっとして真人は笑みを浮かべる。春真もまた真人の笑みを見たことで安堵したのだろう、立ち上がって宿題を片付けに行った。 ちゃぶ台を片付け、真人も机に向かってみる。夏樹のよう、机に向かうだけで仕事の気分になるかといえば、そんな気にはなれない。 「……違うのかな、あなたも」 彼のしている仕事が、途端にわからなくなる。普段はわかっているような気がしているだけかもしれない。夏樹が出かけるまでは、掌を指すようにわかった気がしたものを。 春真が一度、書き上げた作文を見せにきた。手直しはしない。作家の伯父の養い子、だから当然伯父が手を入れているのだろうと陰口を叩かれる春真。だからこそ、二人は決して春真の作文に手を入れない。 「字が間違っていたよ」 真人はそれだけ直すように言って、夏樹にも百人一首の原稿を添削してもらったことを思い返す。そのときに、何を言われたのか。 「誤字だけ、か」 同じ行動をとれば取るだけ、夏樹が今ここにいない空白が際立つ。 帰ってこないわけではない。露貴がそれを望んでいない。自分の側に置きたいのと同じくらい、夏樹をこの家に帰してくるだろう。 手に取るよう、わかるのに、それでもざわめく心が抑えきれない。ぎゅっと握った鉛筆が、掌に痛かった。 清書し上がった作文をもう一度見せに来て、春真はほっとした顔を見せる。伯父や真人と違って、文章を書くのがあまり好きではないらしい。 「もう眠いよ。だからさ、真人さん」 「うん、なに」 「真人さんも、寝ちゃいなよ」 「……え」 「伯父貴、帰ってくるのはわかってるし、だったら待ってなくっていいじゃん。こんな遅くなるって言ってかない伯父貴が悪いんだよ、真人さんがちゃんと待ってたりしたら、絶対付け上がるって」 「付け上がるってねぇ、ハル。言葉の意味、わかって言ってるの」 「わかってるよ。――たぶんね」 にやりとしたから、本当の意味はわかっていないに違いない。ひやりとした真人は何事もなかったかのよう笑って見せる。 「僕もう寝るよ。おやすみなさい」 「おやすみなさい。僕も……寝ちゃおうかな。もうちょっと、あとでね」 「そうやって伯父貴を甘やかすんだから」 「おやおや、いっぱしの口をきくようになっちゃって。いいから寝なさい」 呆れた風を装って真人は春真を追いやった。けらけらと笑って寝間に引き取ったから、少しは言いたいことを言って春真も気が晴れたことだろう。 「僕は――」 眠れるわけがない。一人の寝間に戻れば、隣に彼がいないのを思い知らされるだけだ。 邪推することではない。夏樹が露貴で温まっているわけではない。そんなはずは断じてない。それでも、一人は寒い。 「夏樹」 呼べば、もう一人、同じ音で彼を呼ぶ人を思う。こんな思いをしていると知っているのだろうか。知っているのだと思う。 「でも」 同じ思いをもっと長い時間、露貴にさせている。同情など、できるはずがない。それでは露貴を貶めてしまう。 「ただ」 寂しくて、仕方ない。なぜかこんな気持ちになる日に、よりによって夏樹は出かけた。露貴を優先した。それが、たまらないのかもしれない。 「だめだね、僕は」 今日でなかったら、もしも明日であったなら。こんなに思い詰めたりはしなかったかもしれないのに。 思った体が小さく震えて、真人は夏樹愛用の丹前を引き被る。寒いのは、体ではないとも気づいていてた。 「仕事になんか、ならないね」 健康な子供はとっくに眠ってしまった。耳を澄ませば春真の心地良い寝息が聞こえることだろう。それなのに、真人の耳には家の静けさだけが聞こえる。 かちこちと時を刻む時計の音。ただそれだけが、延々と聞こえ続ける。物音一つ聞こえずに、だから夏樹の帰った音だけを待ち続ける。 「ねぇ」 呼びかけるでもなく問うでもない。夏樹の丹前に顔を埋めれば、彼の匂い。つん、と鼻の奥が痛くなった。 馬鹿な、と思う。子供ではない、もう若くもない。それなのに、彼がいない、ただそれだけがこんなにも寂しくてたまらない。 「夏樹――」 時計の音。まだまだ続いていく。ひたすら彼を待ち続ける真人を嘲うよう、淡々と。夜が更けても、彼はまだ帰らない。通りには、もう人気も絶えてしまっただろうに。 耳につく時計の音を締め出したくて、丹前に埋まる。そうすれば夏樹がいない事実までも締め出せる。そう思った子供じみた自分を嗤った。 遠くで音を聞いたように思った。はたと体を起こし、真人は転寝をしていたのに気づく。耳を澄ませば時計の音。それから。 雨戸の向こうで猫の鳴き声を聞いた、そんな気がして真人は立ち上がる。 |