実に珍しく、三人で出かけていた。それも日曜日の午後に。あっちに行く、と勢いよく春真が走っていく。横浜のデパートだった。
「ハル。走らないで。他人様の迷惑だよ」
「はーい」
「春真」
 短く夏樹が甥を呼ぶ。まだ走りたそうにしていた春真はぴたりと止まった。つい真人は笑ってしまう。
「さすが伯父様の威力だね」
「馬鹿なことを」
 悪戯をするように言えば夏樹が渋い顔をした。それを目にしたものか、春真が慌てて戻ってくる。
「ハル。どこに行きたいの」
 ちらりと夏樹を眼差しでたしなめておいてから、真人は言う。春真に向けたのはまるで蕩けるような笑顔だった。少しばかり妬けて夏樹はそっぽを向く。
「真人さん……」
「伯父様のことなら気にしないの。ご機嫌斜めなだけだからね。ほら、夏樹。機嫌直して」
 春真が見ているよ、とでも言いたげな顔をして見せるくせ、真人の目は違うことで笑っている。おかげで夏樹も不機嫌を保つのが難しかった。
「春真。なにが見たいんだ」
「ん、その」
「好きなところに行っていいぞ。付き合ってやる」
「ほんと」
 びっくりした顔など、年よりも幼く見えて真人の顔は緩みっぱなしだった。事実ではないし現象としても間違っていることは理解しているが、家族のようだ、と思ってしまうのは致し方ない。そしてそれがたとえようもなく嬉しかった。
「おもちゃ、見に行くんだ」
「あぁ、いいぞ。どっちだ」
「こっちだよ、伯父さん」
 また走り出そうとする春真の襟首を咄嗟に夏樹は掴む。じろりと睨んでおいて、眼差しを真人に向ける。そしてまた春真に戻した。
「はい、ごめんなさい」
 無言のやり取りで言いたいことを理解した春真。それなのにちろりと舌を出して見せたりもする。
「こら」
 叱っておいて、夏樹もけれど笑みを浮かべる。仕方ない、と笑って見せて春真を先に行かせた。混雑してはいるが見失うほどでもない。
「困ったやつだよ」
「僕の躾が間違ってたかな」
「思ってもいないことを言うな」
 言い返して夏樹は奇妙な顔をした。人目があるのも忘れて思わず真人はその顔に見入る。なんとも言いがたい表情をしてなお、綺麗な男だと思う。
「どうした」
 時には蒼く見えもする目を向けられて、知らず真人はうろたえた。おろおろと春真を目で探してみる。遠くに後姿が見えた。
「べ、別に。何でも。うん、あなたのほうこそ」
 そんな真人を夏樹は小さく笑った。それからわざわざ体を寄せてくる。まるですれ違い様に人を避けたのだといわんばかりにして。
「見惚れてたか」
 囁き声に体が硬くなった。咄嗟に肩をぶつけるふりをする。真人は決して夏樹の肩に痛みを与えはしない。やはり夏樹は喉の奥で笑っただけだった。
「馬鹿」
 小声で言い返せば、少しは夏樹の機嫌もよくなったのだろう。春真を捜す目が優しい。
「――なんだかな、春真がお前の息子のような、そんな気がした」
「僕は、あなたの息子のような気がしてたよ。奇遇だね」
「ならば」
 夏樹は続けなかった。けれど真人には続きが聞こえた。
 ――それならば、春真は二人の息子だ。俺と、お前の。
 無言の夏樹の声。言ってはいけないことだし、春真がそんなことを望んではいないだろう。彼は冬樹と雪桜の息子だ。
 それでもなお、夏樹が心の中でそう思っていることが、真人にはたまらなく嬉しかった。足取りも軽く春真を追えば、すでに子供らしく玩具に夢中だ。
「春真」
 伯父の出現に驚いて振り返った春真は、また驚くことになる。伯父が珍しく茶化すような顔をして笑っていた。
「ひとつだけだからな」
「え、いいの」
「なにがだ」
「買ってくれるのかなって。やった。嬉しいな。どれにしよう。真人さん。ねぇ、真人さん、どれがいいかな」
 はしゃぎ声を挙げた春真に、夏樹はぼそりと呟く、なぜ俺ではなく真人に聞く、と。聞こえなかったふりをして、真人は熱心に玩具を選んだ。内心では腹を抱えて笑っていたが。
 ひとしきり大騒ぎをしたとなれば、当然にして腹が減る。三人が次に向かったのはもちろん大食堂。デパートに来たならば、これがなくては締まらない。春真など、どれにしようか、あれでもないこれでもない。どっちも食べたいとショーケースの前で目を輝かせている。
「春真、決まったのか」
「ん、もうちょっと待って」
「いつまでもは待ってやらん。そろそろ混むぞ」
「わかったから、待ってってば」
 真人には夏樹が甥をからかっているだけだとわかってはいたが、春真は真剣になって怒っていた。その頭を一つ撫でてやれば、またショーケースにかかりきりになる。
「あなたは」
「あぁ」
「じゃあ、少し食べる、僕のを」
「あぁ、それでいい」
 他人にはわからないやり取りだろう。だが真人は、春真にもわかる。真人は笑ってうなずいて、ようやく決まった春真の分と自分の料理、それからコーヒーを注文した。
「伯父さん、なんで食べないの」
 おなか空かないの、といわんばかりにして春真が聞いたのは、自分のハンバーグをあらかた食べつくしたあとのことだった。夏樹はといえば、真人が頼んだミートソースのスパゲティーをほんの少し、しるしばかりに食べてコーヒーを飲んでいる。
「出かける前は、な」
 それで春真は納得したのだろうか。真人は曖昧な顔をして残りを食べていたが、思わず吹き出すところだった。
「やっぱさ、真人さんのご飯が食べられなくなるの、つまんないよね」
 咳払いなのか喉を詰まらせたのか判然としない真人を夏樹は見やって笑いをこらえる。だが事実なだけに反論はしにくかった。
「まぁな」
 それだけで夏樹は答えを誤魔化した。迂闊なことを言うなとばかり春真を見やれば、そ知らぬ顔をして目だけで笑っていた。もしも真人が目にしたならば子供らしからぬ、と言うことだろうが夏樹はうなずけない。春真の年頃の自分を思えば。
「ねぇ、伯父さん。いつ帰ってくるの」
 何も三人でデパートにくるのが目的ではなかった。外出の用事があったのは、つまるところ夏樹一人なのだ。そもそもの人嫌いで取材旅行で必要とはいえ、出かけたがらない夏樹のため、こうして三人で揃って出てきた。春真と真人は見送りだった。
「水曜の、夜。だったかな」
 嫌でいやでたまらない、そんな感情が目に透けている。真人は慰めたいような気がしたけれど、いまは黙っていた。
 それがちょうどよかったのだろう。夏樹の目が伯父のものではなくなったのを見て春真も黙った。
「ご歓談中、失礼します」
 同行の編集者だった。待ち合わせをデパートの大食堂に指定したのは夏樹なのだから、それほどへりくだらなくとも、と思ったものの真人も黙る。
「どうぞ」
 春真も伯父が人嫌いなのを疾うに承知だ。それでも落ち着かないのだろう、ちらりと真人を見やる。
「篠原さん、お時間はまだ大丈夫でしたよね」
「あぁ」
「だったら、もう少し。コーヒーでも飲みますか」
 後半は編集者にも尋ねていた。しきりに恐縮するのを聞き流し、真人は三人分のコーヒーと、春真待望のデザートを頼む。
 編集者が、今後の予定などを夏樹に話していた。気がせいているのかもしれないが、夏樹はどこ吹く風と聞いてなどいない。時折うなずいているふりをしているだけだった。
「ハル、来たよ」
 もぞもぞと落ち着かない春真がぱっと顔を輝かせる。それは銀色の台に乗ったソフトクリームだった。それも、二つ。
「真人さんもなの」
「だって美味しそうじゃない。僕だって食べたい」
 言い返しておいて、真人は笑ってそっと舐める。冷たくて甘くて子供に独占させておくには惜しい。編集者の話を聞き流していた夏樹が羨ましそうな目を向けた。
「旨そうだな、春真」
「あげないからね」
「誰が子供のを取るか」
 夏樹の発言に編集者が目を丸くした。軽口にだろうか、それとも夏樹の息子だと思ったのだろうか。どちらにしても真人は取り合わない。
「召し上がりますか、篠原さん」
 にっこりと差し出した。少しでも夏樹の気分が明るくなるのならば。編集者の目が気になる。それはそれは気になる。胃が痛くなるほどに。それでも。
「あぁ、もらう」
 何気なく言って夏樹は微笑んでソフトクリームを口にした。ぺろりと、子供のように舐めて見せた。小さく春真が笑う。
「あの、篠原先生……」
「なんですか」
 最強無比の夏樹の笑み。普段むつりとしていることの多い「篠原忍」だからこそ、効く。舌を縫われた編集者を目の隅に、夏樹はもう一口食べて真人に返した。
「ハル――」
「いい。急がせるな。見送りは要らんよ」
「そうはいきませんよ」
 真人の言葉に春真はせっせとソフトクリームを片付けにかかる。真人も同じく。彼が口にしたところに触れるときだけ、頬に血が上るのを感じつつ。
 自業自得のくせに挙動不審の真人を夏樹は内心で面白く思っていたとしても顔には出さなかった。それを面白く感じているはずの春真も生真面目な顔をしていた。妙なところでよく似た伯父甥だった。
 それから旅立っていく夏樹を見送りに立つ。両側から春真の手を繋いでいた。後ろで編集者が呆気に取られている目を感じていたが、真人は気にしないことにする。春真があまりにも嬉しそうだったから。
「留守中、頼むぞ」
 夏樹の言葉になぜか春真が大きくうなずく。自分に言ったのではないのか、と夏樹を窺えば苦笑していた。
「真人さんのことなら任せといて。大丈夫だよ」
「一人前の口を叩くもんだ」
 からかう夏樹だったが、目は真剣だった。今度苦笑するのは真人の番。
「篠原さん。忘れるところだった。電車の中でどうぞ」
 編集者の目をはばかった口の利きように夏樹はそれとなく顰め面をする。が、真人の差し出したものは受け取った。持ち重りのする、魔法瓶だった。
「お茶ですよ」
 笑った真人に出がけの軽口を思い出す。篠原忍の晴れやかな笑みを見た編集者が、絶句していた。




モドル