夏樹が京都にいる間、真人は落ち着かなくて仕方なかった。なにをしても手につかない。一人ではない。春真がいる。
 それでも、そこに夏樹がいない。広縁の柱にもたれている、いつもの定位置に彼がいない。いったい何度溜息をついたことだろう。
「真人さん」
 ぼんやりと柱ばかりを眺めていた。これではいけないと思うのだけれど、歌にすらならない。
「真人さんったら」
 はっとして振り返れば、春真が苦笑していた。子供に見せてはならない姿だったのに。
「ごめん。どうしたの」
「どうしたのって僕が言いたいの。大丈夫なの。風邪でもひいたの」
「ううん、ごめん。大丈夫だよ」
 どことなく取り繕ったような言葉であったにもかかわらず、真人は気づかない。春真はかすかに肩をすくめてぺたりと畳に座り込む。
「ねぇ、おなか空いたよ」
「え――」
「だって、今日のおやつ……」
 はたと気づいた。春真がここにいる。いつ学校から帰ってきたのだろうか。
「ごめん、すぐするから」
 慌てて台所に駆け込んでも、今日はなにも作っていない。しまった、と思っても遅かった。ちらりと振り返れば、わかってるよとばかりに春真がうなずいていた。
「真人さん、お小遣いちょうだい。僕、和菓子屋さんに行ってくるよ。真人さんはなにがいい」
「……ごめん」
「いいから、いいから。ね、なにがいい」
 ひらひらと手を振って春真は笑う。それにも真人は夏樹を思う。こんな顔は似ていない。夏樹はこんな風にからからと笑ったりしない。それでも、造作が似ているような気がして仕方ない。
「ん……。みたらし――」
 言いかけて、夏樹の好みだ、と思ってしまう。春真も今度こそは気づいたのだろう。小さく困ったように笑って何も聞かないふりをしてくれた。
「みたらし団子ね。じゃあ、僕はなににしようかな。行ってから考えようかなぁ」
 楽しみで楽しみでどうしようもない、そんな顔をして春真は小遣いを握り締めて出かけて行った。真人は後姿に溜息をつく。
「ごめん」
 ここに春真がいるのに、自分はいったい何をやっているのだろうか。夏樹は自分がいるから春真は大丈夫だ、と思ってくれているはずにのに。
「ごめん」
 今度はいない夏樹に詫びる。その言葉に自ら打たれ、真人は胸を押さえた。
 帰ってきた春真となにを喋ったかもよく覚えていなかった。夕食もきちんと食べさせた。それでも何が起こったか、それとも起こっていないのか、覚えていない。
 どうにもならなかった。今夜、夏樹は帰ってくる。夕食には間に合わなかった。いつ帰ってくるだろう。もうすぐ帰ってくるだろう。いつ。
 思っているうちに、春真がおやすみを言って寝間に下がったのがかすかに意識の隅に残る。溜息のうち、夜が更けていく。
「夏樹……」
 いつだろう。もうだろう。いつだろう。
「こんな気持ちが、歌えたら」
 どれほど楽になるだろう。何もできない。手につかない。溜息ばかりが降り積もっていく。
「降って積もって、梅の花にでもなったら、夏樹が眺めてくれるかな」
 こんな風に思うのに、それが歌にならなかった。真人にしては実に珍しいことだった。
 夏樹は言う。吸う息吐く息が歌になる男だ、と。それなのに、歌が詠めない。
「これじゃ、息ができないも同然ってことかな」
 言ってみて、本当にそうだと思う。呼吸が苦しい気がした。胸を押さえてみて、何度も息を吸う。吸っても吸っても、胸が苦しい。
「夏樹」
 吐いても吐いても溜息になる。歌にならない。何もできない。我と我が腕で体を抱く。ひどく寒いような気がした。
 ふ、と顔を上げる。震えていたような気がした。それがぴたりと止まっていた。知らず立ち上がる。広縁に。閉めてもいない雨戸の向こう、人影。
「寝てなかったのか。――ただいま」
 暗がりに、夏樹が立っていた。庭下駄も履かず真人は飛び出す。
「夏樹」
 叫んだような気がしたのに、囁きにもならなかった。春真がいる、眠っているはずではあるが、同じ屋根の下、子供がいる。そんなことなど、欠片も思い浮かばなかった。
「おい」
 驚いた夏樹が、細い体で真人を抱きとめる。少し笑っていた気がした。
「おかえりなさい。夏樹、おかえりなさい」
「なんだ、どうした」
「だって。――なんでもない。おかえりなさい」
 ぎゅっと胸元を掴んで、はじめて着物が皺になってしまうと気づく。そっと離れても、名残惜しくてたまらなかった。
「ごめん。いまお茶淹れるよ」
「いい、座ってな」
「いいの。僕がしたい」
 座敷に上がりながら夏樹が言うのをとどめて真人は台所に立つ。彼がいないあいだ、何もしたくなかった気持ちが嘘のようになくなっていた。
「はい、お疲れ様」
 茶を持って戻ったとき、夏樹はもう着替えていた。いつもの着慣れた紬に彼が帰ってきたのを感じる。
「真人」
「……ごめんね。なんだか、こんなに長くいなかったの、久しぶりだった気がして」
「なるほど」
 にっと夏樹が笑った。いつもの場所に彼がいる。いつもの格好で柱にもたれている。それがたまらなく嬉しい。ふと心に歌が浮かぶ。
「からかわないでよ。そうだよ、寂しかったよ。悪かったね」
「悪いとは誰も言ってないだろ」
「顔が言ってた」
「そんな器用な真似ができるか」
 言い捨てて夏樹が湯飲みを口許に。唇に当てただけで好みの温度、好みの香り。それが嬉しかったと見えて彼は微笑む。
「出かけるのは、嫌いだ」
 ぽつりと彼が言う。ただそこまで原稿を持っていくのではない。夏樹だとて、いつも以上に疲れているはず。はたとそれに気づいて真人は気まずくなる。
「ごめ――」
「そうじゃない。あのな、真人」
 遮り、真人にもう少しそばに寄れ、と促した。ちらりと振り返ったから、今更ながら春真を気にしたのだろう。
「寂しかっただろう、お前」
 からかうよう言われ、真人は黙る。寄り添って座りながらも、そっぽを向いた。
「怒るな。俺もだと言ったら、それでも怒るか」
「夏樹――」
「まったく、困ったもんだよ。飯はまずい茶はまずい。これだから旅先はいいことがない」
「ちょっと、夏樹。それってどういう意味なわけ」
「お前の作った料理が食べられなくって寂しかったって言ったつもりだったがな」
「そうは聞こえなかったけどね」
「そりゃ残念」
 言いつつくつくつと夏樹は笑っていた。珍しい夏樹の姿に、真人もほっと息をつく。もう溜息にはならなかった。
「あのね、夏樹」
「ん、なんだ」
「僕も、困ってた」
 肩先に、形ばかり頬を添えた。それでも伝わってくる仄かなぬくもりが心地よい。
「あなたがいない間、ずっと歌が詠めなくって」
「なんだ、俺はお前の歌のネタかよ」
「似たようなものじゃないの」
 お互いに。言わなかった言葉を忍ばせれば、夏樹の笑みが降ってくる。あれほど落ち着かなかった腰が、すとんと決まった。
「色々思うところはあったんだけどね、それでもどうしても歌の形にならなくって。いったい僕はどうしちゃったんだろうって」
 夏樹は黙って真人の髪を撫でた。いまはもう、形になっているのだろう。真人が呼吸を取り戻したのを感じていた。
「人麻呂影供でもするか」
 だからこそ、からかえる。歌の更なる上達を願って祈れと茶化すことができる。肩のそば、真人が小さく吹き出した。
「ほんと、あなたってどうしてそういうことまで知ってるのかな」
「なにがだ」
「人麻呂影供だよ。そんなこと、普通知らないでしょ」
「そうか。『古今著聞集』だったと思うが。書いてあった気がする」
「僕もそうだと思うよ。あなた、和歌が専門ってわけでもないのにね」
「こんなものは教養の内だ。知ってるからって偉いわけでもなかろうに」
「そんな教養、どこにあるわけ」
 言いながら、真人は夏樹が答えないのを知っている。無言で微笑みながら、夏樹は真人が答えを求めていないのを知っている。
 互いの育ちの差を、時折は思わなくもない。それでも育ってきた時間より、共にいる時間が刻々と長くなっていく。そちらのほうがずっと心躍ることだった。
「本当に、そうだね。ほんと、人麻呂影供でもしたくなるほど、どうにもならなかったもの」
 夏樹不在。ただそれだけで、自分はこんなにも歌が詠めなくなるものだ、とつくづく真人は思い知る。
「まぁ、わからんでもない」
「そうなの」
「取材旅行だったはずなんだがな……」
「収穫は、なかったの」
「なかった。が、いま収穫になった」
 夏樹は眼差しを庭に投げた。自分の言いように照れてしまったのだろう。真人は微笑んで頬に夏樹のぬくもりを味わう。
「ん、わかる気がする」
 見るべきもの、見たいと思うものがあって、行ったはずだった。それなのに、夏樹は旅先で少しも心が動かなかった。そして今、見てきたものが心の中で形になった。生き生きと動き出す。
 そばに真人がいる。作家の夏樹は、真人だけを書いているわけではない。真人とはまったく関係のない登場人物であれ、作品であれ、真人がいないと何をする気にもならない、つまり書く気にならない。
「そうか」
 互いに似たような宿業を抱えている。互いにそれを笑い合える。こんな些細なことがありがたい。小さくて、ささやかで、何より大事なことだから、ありがたかった。




モドル