明かりを消した座敷の暗がりから、真人は庭を見ていた。そこに佇む、人影を。
 動きもせず、じっと佇む。明るい月の光に照らされて、木立が強く影を落とす。そのせいでいっそう人影は暗い。
 溜息すらつけず、それどころか息さえ止めて真人は見ていた。
「夏樹――」
 何度月影の下に立つ彼を見ただろう。どれくらいの年月ともにあったことだろう。
 それなのに、慣れると言うことがない。あまりにも美しくて、背筋が寒くなる。まるでこの世の他の影のよう。
 そう思っては、やはり今度も首を振る。あれは生身。生きた人の影。愛しい男がそこにいる。それだけだ。
 決して月の光が形作った彫像でも梅花の精でもない。
「笑っちゃうね、我ながら」
 それとも笑うべきは夏樹だろうか。生きながらにして透明な少年の年齢は遥か遠く、青年時代もずいぶん前に通り過ぎた。
 それなのにいまだに彼は生身とは思えないほど美しい。そう思ってしまうのは真人だけなのかもしれないが。
「夏樹」
 聞こえないように呼んでみる。作品の構想を練っている最中だろう。呼吸も止めているのではないかと思うほど彼は動かずそこに立つ。
 邪魔はしたくない。だから光のない座敷の物陰から、じっと見ている。
 心配しているのも、ないわけではない。夜風に当たりすぎれば、熱を出す。そんな男だからこそ、気がかりではある。
 だが、ただ見ていたかった。それが正解だった。小説のことを考えているとき、彼は何より美しい。真人はそう思う。
 精霊のようで。そう思ったとき、風の流れに雲が切れたのだろう。庭一面に月光が射す。夏樹まであまねく照らされた。
 真人は息を飲む。月を仰いだ彼のその姿。慕わしいものとして月を見つめるその目。月が憎くなるほどのその眼差し。
 そこにいるのは夏樹であって夏樹ではない。登場人物の誰かと同化し、そして登場人物として、月ではない誰かを思う、その表情。
「悔しいほど――」
 美しい。そんな言葉が無意味になるほど。ふつふつと、胸の中に熱が滾る。
 あぁ、と密やかな溜息をつけば、真人の中でそれが歌になる。暗がりの中、筆を走らせれば、そこにある歌。
 書き付けて、読むことはしない。それほどの明かりはない。けれど真人は小さく笑う。
 いま、自分は夏樹のあの姿を見て歌を詠む。夏樹の、夏樹としての眼差しの中にあるのは自分だという確信。そして作家としての彼はその目を通し、別の何かに変えて小説にする。
 それが手に取るよう、わかる。自分も同じことをしているのだから。わかるから、嬉しくまた悔しい。彼の目に映り、そして作り出されたもののほうがずっと美しく思える。そのせいだった。
 そんな真人の思いなど知らぬげな夏樹の眼差しが、ふと足元に流れる。そこにあるのは小菊の茂み。咲き初めの一輪、二輪。月の光に青いほどの白菊だった。
 夏樹の口許がかすかな笑みを刻んだのが見えた。あるいは見えなかった。どちらでも真人には同じだった。
 真人の目には、彼が笑ったのが見えていたのだから。一挙手一投足が気にかかる。彼の所作に真人は歌を見る。
 その彼の細い指が、一輪の白菊を戯れに手折る。戯れだからこそ残酷で、だからこそ美しい。白い指を、青い菊が彩るその様。
「とても――」
 歌にならない。できない。詠むことはたぶん、できる。真人はそれを知っている。けれど誰が見せたいものか。
 自分ひとりであったとしても、彼自身にであったとしても、いまこの瞬間は、この刹那に存在する自分だけのもの。
 誰にも渡さない。自分だけの時間。姿。佇まい。
 それを独占する喜びだけが真人にはある。なぜならば、夏樹の心に今いるのも自分だと知っている。
「白菊に――」
 夏樹はなにを見た。色のない小さな花。咲き初めの可憐な硬さ。
「映る、面影」
 彼の目に、いったい自分はどう映っているのか。思えば笑ってしまいそうだった。が、自重する。それは自分自身をも笑うことに他ならない。いまだに彼をこれほど美しいと思うと知ったら、きっと彼もまた苦笑する。
「月影に」
 彼はなにを思うのだろう。冷たくよそよそしい光と思うのだろうか。彼が立つ影だから、真人には暖かくも見える。
「溜まれる露は」
 手折った菊から、夜露が滴っていた。驚いたよう夏樹が指先を見る。眼差しがふと曇った。真人は小さく微笑む。
 まるで泣いたようだと思ったのだろう。夏樹の目の中、あの菊は花ではない。だからこそ、驚き怪しむ。そして後悔をする。真人を泣かせてしまったかのよう、感じてしまって。
「桂の甘露」
 月にあるという桂の樹。そこから滴った天の甘露ならば、涙などであるわけがない。その思いが聞こえたかのよう、夏樹は露に濡れた己の指を唇に添えた。そっと露を吸い、そして月を見上げる。真人はほっと息をつく。
「しまった。――やっちゃった。あんまり下手で、笑えない」
 呟きが、歌になっていた。真人の生の感情すぎて、歌ではない。誰にも通じない、通じさせるつもりのない言葉。
「僕だけのものって、思ってたのにな」
 それでも口をついてしまう歌。吸う息吐く息が歌になる、夏樹はそう言うけれどそんなことは決してない。
 少なくとも、ないと真人自身は思っている。例えばそれは、夏樹が不意に漏らした言葉の一節が、いずれどこかで洗練された形になって作中に出てくる、けれど漏らした言葉それ自体は小説ではない、そんなものかもしれない。
 歌のようで歌ではない。それが真人は嫌いではない。が、残すつもりも声に出すつもりもなかったものを。
 もっとも、知らず知らずに口にしているのかもしれない、いつも。それを耳にして夏樹は喜んでいるのかもしれない、いつも。
 それならば、楽しいと思う。長い年月を経てもなお、こうして互いの挙動が気にかかる。これは幸福なことだと思うのだ。
 夏樹が白菊を弄んでいた。もうそこにいるのは登場人物の誰かではなく、夏樹だった。それを見定めて真人は立ち上がる。
「夏樹」
 声をかければ驚いたよう目をみはったあと、彼は小さく笑った。
「いつから見てた」
「気づいてたの」
「いいや」
 見えてなかった。けれどいたのは感じていた。邪魔になどなるはずもなく、空気のように希薄な気配、だが何より生きるために大事な空気。それを感じていた。夏樹はただ一言にそれだけの意味をこめた。真人は黙って微笑み返す。万言を費やしても敵わない返答だった。
「そろそろ体が冷えたんじゃないの。お茶を淹れるよ」
「あぁ、頼む。……ずいぶん寒いな」
 ようやく気づいたよう、夏樹は自分の体を抱いた。そしてまだ手にある白菊の花。
「夏樹ったら」
 手折ってしまったのに、どうしていいかわからない。それならばはじめから無体などしなければいいものを。笑う真人を夏樹は戯れに睨む。月よりそっけなく真人は気にも留めない。
「ほら、こっちにちょうだい」
「どうするんだ」
「何の気なしに折っちゃったけど、可哀想で捨てられない。――なんて思ってる誰かさんのために活けてあげるよ」
「おい」
 そんな言い方をされる覚えはない、とばかり夏樹が声をあげる。が、そのときには真人はもう菊を手に座敷の中に。
 渋々上がってくる気配を背中で感じ真人は口許で微笑む。少しばかり熱い茶を淹れてやろう。ずいぶん、本人が気づいているよりずっと、体はきっと冷えている。
「夏樹」
 湯が沸く前に、普段はめったに使わない銚子を一輪挿し代わりに菊をさした。
「あぁ」
 手渡そうとしたそれを、真人はためらう。そして渡さずに置くのだ。
「ほら、ここがいい」
「うん、なにが――」
「ね、いいでしょう」
 広縁の、夏樹の定位置。明かりもつけずに座ったそこには、月の光が射していた。ことりと縁側に置けば、白菊も月光を浴びる。
「おきまどはせる白菊の花、か」
 からかうように言う夏樹に、真人は笑って肩をすくめる。
「それにしては数が少ない」
「こつこつ庭の菊を増やすか。一面の白菊も悪くはない」
「僕は季節季節に色々咲くほうが好みだね」
 再び立ち上がり、茶菓の仕度に立つ。お茶請けなど、こんな時間には要らないかもしれないが、頭を使ったあとだから案外甘いものを欲しがるかもしれない。
「なぁ」
 いつもより、少し熱めの茶を手渡せば、嬉しそうに口をつける。それから勧めるより先、小振りの饅頭を取った。
「さっきな、どうしてかな。菊の夜露がこぼれたとき、どうしてかお前が泣いているような、そんな気がして、な」
 真人は無言で夏樹を見つめる。思うのは、やはりだった。同時に、歓喜だった。わかっているつもりだったこと。それが夏樹の手によって証し立てられる。
「僕は元気だよ。泣くわけがない」
「そう、だよな」
「不思議だね、あなたの目に僕はそんなに可憐に映ってるなんてね」
「よく言うよ」
「なにが」
 尋ね返したとき、夏樹の手にあったもの。先ほど書き付け、読み返しもしなかった歌の紙片。取り返そうとする自分の頬が仄かに赤らんでいるのを感じる。これならば、白菊には見えないだろう。この期に及んでそんなことを思った自分を真人は笑った。




モドル