何日か前のことだ。作文は好きではなくとも読書は嫌いではない春真が、伯父の著作を読んでいた。『旅行記』という、紀行文のような小品だ。
 真人はそれを微笑ましく見ていたのだが、夏樹は懸念がある。なにぶん子供のことだ。読書が好きなのはいいが、本の扱いが幾分、雑だ。
「あ……」
 案の定だった。嫌な予感と言うものは得てして当たる。不意に春真が本を持ち上げたとき、はらりと散り落ち、そして間の悪いことに踏みつけてしまったもの。
「なにか、落ちたけど……」
 なんだろう、と言う顔をする春真に真人が咄嗟に振り返る。言葉もなく畳の上で半ば砕けたものを見ていた。
「あれ。紅葉、かな」
 去年だっただろうか。春真が学校の旅行でいないのをいいことに、二人で奥入瀬に旅をした。そのときに拾い、いままで本に挟んで大事にしていた真人の紅葉。
「もしかして栞だったのかな。ごめん、破っちゃった」
 事情を知らない春真はさすがに申し訳なさそうな顔はしたものの、あっけらかんと詫びる。
「ん。いいよ、形あるものは壊れるものだからね」
 少しばかり強張った顔でそう言ったのは真人。伯父の著作に挟んであったはずの栞に、なぜか真人が言う。
 そのことで春真は気づいてしまった。この紅葉を挟んだのが真人であること、そして大事な思い出の品であることに。
「ごめんなさい」
 小さく再び謝った春真の頭を真人が後悔したよう、撫でていた。
 それが、数日前だ。いつまでもくよくよと悔やむような男ではないものの、いささか気落ちしているのは間違いがない。
「じゃ、行ってきます。少し遅くなるかもしれないけど、夕食までには帰るから」
「あぁ、わかった。気にしなくていい」
 夏樹は出版社に用事があるという真人をいつもどおり送り出す。
「春真」
 幸い、日曜日だ。気落ちする真人を見続けている春真も落ち込んでいる。お互いに何事もなかったような顔をしているのが、夏樹は不憫になってきた。
「出かけるぞ。戸締りしろ」
「え、伯父さんが。どこに行くの」
「いいから黙ってついてくる。こないつもりか」
「行くよ、行くったら。わかったから、ちょっと待ってよ」
 なにがなんだかわからないまま、春真は慌てて真人が普段しているよう、戸締りをしていく。そんな仕種の一つ一つが、真人の血の繋がらない「息子」との思いを強くさせ、夏樹は密やかに微笑んだ。
「伯父さん、どこに行くの」
 ただでさえ外出嫌いの夏樹。それがわざわざ日曜の人混みに出かけようと言うのだ。尋常ではない出来事、と言っていい。
「天変地異の前触れってやつかも」
「お前な」
「だってそうじゃん」
「そう言うのをなんていうか知ってるか」
「うん。減らず口」
「わかってるなら――」
「黙ってついていってもいいけどさ。伯父貴の足らない口を補うってやつかもよ」
「――まったく。真人の嘆きがわかる気がするぞ」
 滅多にない伯父との外出に、春真は春真なりにはしゃいでいるのだろう。それがわかるだけにあまり強くも叱れない夏樹だった。
「……やっぱ、怒ってるよね」
「なにがだ」
「あの紅葉。伯父貴との思い出、だったんじゃないの」
 小声で言われた言葉に、夏樹はひやりとする。軽く眼差しでたしなめれば、体をすくめて見せる。
「真人にばらすなよ」
「言えないよ。可哀想すぎて」
「……だな」
 真人は知らない。春真が自分たちの関係を知っているなど夢にも思ったことはないだろう。が、春真はすでに知っている。夏樹が話したのではない。むしろ夏樹と真人の不注意で気づかれてしまったのだが、幸いにして真人はその事実に気づいていなかった。
「だからさ、怒ってるかなって」
「馬鹿なやつだ」
「だって」
「そんなことで子供を怒る親がどこにいる」
「あ――」
「まだ子供のお前に言うべきことではない、と真人なら言うだろうがな」
 一度言葉を切り、夏樹は春真を見やる。真剣な顔をして見上げてくる小さな甥を。その目にある強い光。それを確かめ、夏樹は言葉を繋ぐ。
「真人はお前を自分の子供のように思っている。あれであの男はなよやかなところなんざ微塵もない男だからな、腹を痛めて産んでみたいとは思ってもいないだろうが」
 言われた春真は実に珍妙な顔をした。他人の目と言うものは恐ろしいもので、真人はなぜか楚々とした慎み深い男だと思われているらしい。そもそも、と春真は思う。楚々とした、と言う言葉は男には使わないものではないだろうか、と。作家の甥はそう思うのだが、世間の目と言うものは怖いものだった。その世間の目に照らし合わせれば、真人がそう思っていたとしても不思議ではない、とも思える。実情を知っている春真は言うべき言葉を見つけられずに頬の辺りをかくだけだ。
「……お前の気持ちがよくわかるよ、俺はな」
「だよね」
「だから、お前を持つことのない息子のように思っているんだろうな。念のために言っておくと――」
「言わなくっていいから」
 まるで悲鳴じみた春真の声に珍しく夏樹は笑い声を上げた。言わなかった言葉が――夏樹に産ませたいと考えているのでもないという言葉が――春真の心には聞こえてしまったのだろう。
「まぁ、子供相手にする話ではないがな」
「なにを今更」
「だな」
 うなずいて夏樹は足を速める。いささか照れなくもないのだ、と言うことがまだこの子供にはわからないだろう。
「いずれにせよ、子供の不注意をいつまでも咎める親はいない。そういうことだ」
「……うん」
「とはいえ、そう思うのが親ならば」
「元気で笑っててほしいって思うのが子供だよ」
「利いた風な口をきくもんだ」
「育て方が悪いんじゃないの」
「そうか、真人に言っておこう」
「伯父貴だよッ」
 遠慮を知らない子供の手が夏樹の肩を打つ。もしも真人が見たならば、紅葉のことなどどうでもよかったのだと春真が思ってしまいかねないほど怒るだろう。夏樹はだから笑っただけで済ませた。
「で。どこに行くの」
「ここだ」
 あっさり言われて春真は驚く。喋っている間についてしまったらしい。そこは春真には得体の知れない店に見えた。
「ここ、なに売ってるの」
「主に紙、だな」
「紙」
 要領を得ない夏樹の説明に、春真は理解を放り投げる。買物を済ませたらきちんと説明してくれることだろう。
 もっとも、店への興味が理解したいと言う興味を上回っていたのかもしれない。家の近くにこんな店があるとは知らなかった。
 薄暗い店内には無数の引き出しがある。そこに紙が入っているのだろう。春真は伯父がいろいろと見ているのをそっちのけにして自分も引き出しを開けてみる。
「わ……」
 色鮮やかな和紙、千代紙と言うのだったか、それが入っている。別の引き出しにも、そのまた別にも。着物の柄のようで、綺麗だった。
「欲しければ買ってやるぞ」
 その程度のことならば甘やかす、と言うほどのこともあるまいと言った夏樹の言葉に春真は照れて首を振る。
「ううん、いい。綺麗だけど、ちょっと使い道が思いつかない。欲しくなったらまたつれてきて」
 それより買物は終わったのか、と首をかしげて見せる春真に夏樹はうなずく。薄暗い店内から出れば、陽射しが眩しいほどだった。
 紙を売っている、それもどうやら和紙の専門店らしい店で買物をしたのだから、買ったのは紙だろう。だが家に帰るまで、のらりくらりと夏樹は言い逃れて口を割らない。
「まったくさ、真人さんがこんな伯父貴見たらどう思うかな」
「惚れ直したりしてな」
「よく言うよ」
 鼻で笑った春真の子供らしからぬ態度に夏樹は拳固をくれる。
「そう言う口はいっぱしの大人になってから叩け」
「大きくなってからだって叩かせてくれないくせに」
「いいぞ、やってみろ。おぉ、待ってるとも」
 にやりと笑った夏樹の顔。できるものならばしてみろとありありと書いてあって春真は心の中で溜息をつく。けれど悪い気分ではなかった。
「それで。どうするのって言うか、なに買ったの」
「あの紅葉、持ってきな」
「え――。あ、うん」
 家の座敷に納まって、真人が留守中にはいつもしているよう、伯父の茶を淹れにかかった春真に夏樹は言う。
「あぁ、そこに置いといてくれ」
 さすがに春真は真人の「息子」だった。半ば砕けてしまった紅葉であっても、捨てるようなことはしていなかった。
 机の上に置かれたそれを前に、夏樹は和紙を取り出す。一枚は白地に薄い水色で流水を描いたもの、もう一枚は向こう側が透けて見える半透明の和紙だった。
「これって」
 春真が問うのに夏樹がうなずく。ちょうどいい大きさに切りそろえ、厚手の和紙の上に砕けた紅葉を乗せ、糊で仮止めをする。
 春真は伯父の手つきを意外そうに見ていた。とてもこんな器用なことをするようには思えなかったせいだ。
 そうしているうちにきちんと止められた紅葉。その上から今度は薄手の和紙を貼り付ける。
「あ――」
「ほら、お前の仕事だ」
 紙の上、夏樹はきれいな穴を開けた。その紙と細い朱色の組紐を春真に手渡す。おずおずと春真が穴に紐を通して結んだとき。
「栞……だね」
 水にくぐる紅葉のような、栞が出来上がってていた。春真は栞を手にして泣きそうだった。なぜかはわからない、否、わかっているけれど言葉にならない。うつむく春真の頭の上、夏樹の手がある。温かい伯父の手に撫でられて春真は無言で泣いていた。




モドル