まだ春真が小さいころのことだった。小学校に上がってすぐだっただろうか。
「ほら、ハル。お月様だ」
 夏樹の定位置に真人がいる。夕食後、雨戸を閉てようと縁側に出たら思いの外に綺麗な月だった。
「見てご覧」
 もうずいぶん慣れたのだけれど、当時はまだそれでもおずおずとしていた子供が真人のそばに寄っていった。
「うん……」
 伯父さんは、とでも言いたげな顔をして春真が振り返る。夏樹は微妙に強張った顔のまま微笑んだ。
「またそんな顔をして。気にしなくていいんだよ、ハル」
「伯父さんは――」
「照れてるだけ。大丈夫だよ」
 にこりと笑って真人は春真を抱き寄せる。照れくさそうな、それでも嬉しそうな顔をして春真は真人に寄り添った。
 そんな二人を夏樹は笑みを浮かべて見やっていた。真人にたしなめられなくとも、自分でも悪いことはわかってはいる。
 それでもどうにも子供と言う存在が苦手で仕方ない。苦手、と言うよりはどう接したものか困っている、と言ったほうが正しい。
「お前はすごいな」
 春真を引き取ったばかりの頃、真人にそう言ったことがあった。それに彼はわずかに眉を上げて抗議した。
「僕だって、精一杯やってるだけ。大変なのは誰なの。僕でもあなたでも、冬樹君ですらない。わかってるの、夏樹。一番大変な思いをしてるのは春真だよ」
 思えばあのころはまだハル、とは呼んでいなかったのだと思えば二人はずいぶん打ち解けたのだ、と夏樹は微笑む。
 実家にいる春真の双子の兄。春樹との間でだけ呼び合った二人の秘密の呼び名。春真は真人にそれを許している。
 それが夏樹にはくすぐったいような嬉しさだった。双子が生まれたとき、弟が言った。
「兄さんと真人さんから一字ずつ、もらいます」
 尋ねるのではなく、決定として告げにきた。それで雪桜は納得しているのか、と聞こうとしたけれどいまに至るまで聞けずにいる。たぶん、納得しているのではない。おそらく率先して、彼女が決めたのだろうと夏樹は推測していた。
「さすが、露貴の」
 あの男の娘だな、と変な感心をしつつもまた笑みが浮かんでしまう。雪桜も父が誰かは知っているが、さすがに公言していいことではない。だから誰もが口をつぐんでいることだった。
 だからこそ、夏樹だけは露貴に面と向かって褒める。お前の娘は立派だと。さすが、お前と桜の娘だと。
 二人きりで会ったとき、酒が入れば必ず夏樹はそう言う。しらふでは照れて褒めにくかった。もっとも、それを聞けば真人がいい気持ちはしないだろうと思うから、夏樹は黙って二人きりのときにだけ、言う。気のまわしすぎかもしれない、と思わなくもなかったが。
「ほら、呼んでごらん」
 真人が小声で春真をそそのかしていた。だから夏樹は聞こえないふりをする。春真がもじもじとしているのも感じていた。いっそう聞こえないふりをする。
「……伯父さん」
 小さな小さな春真の声。小さな春真が小さく呼ぶ。そのことに、なぜか妙に胸をつかれた。
「どうした」
 ふらりと立ち上がったのはきっとそのせいだろう。そばに寄れば、実の伯父より真人がいいのかそちらにしがみついている。
「あの」
 そんな態度が癪に触ったわけでは断じてない。真人に抱きついているのが、癇に障った。にやりと笑って春真を彼から引き剥がし、腕に抱えてみる。
「伯父さん」
 驚いたような春真の声に気分をよくしたら、目の前で真人が渋い顔をしていた。が、目は笑っていたから怒ってはいないだろう。
「どうした。なんだ、春真」
 どうしても真人のよう、ハルとは呼べなかった。春真もそれでいいらしい。それはそれでどことなく妬けるのだが、真人に言えば子供相手になにを言っていると呆れられるのが自明すぎて、夏樹は言えないでいる。
「一緒に……」
 それでまた戸惑ったよう、口をつぐんでしまう。それほど内気な子供ではないはずなのだが、どうにも伯父と話すのは気が引けているらしい。
「ハル、頑張って。伯父様は怖い人じゃないよ」
「うん」
「ハル、お願いがあるんだよね」
 彼の腕の中の春真に真人は腰をかがめて語りかける。それほど子供好きな男だとは夏樹は思っていなかったし、本人も否定しているのだが、真人は春真には優しい。上手に扱っているつもりはないだろう。真人もただ必死なだけだと夏樹は知っていた。
「あのね、伯父さん。一緒にお月様、見てくれないかなって」
 幼い顔を赤くして必死になって春真が言う。たかが、それだけのことを。たったその程度の願い。馬鹿馬鹿しいほど簡単で、春真には何より難しかった願い事。
「あぁ、いいよ。綺麗なお月様だな」
 それだけのことが叶えてやれないで、なんとする。言った夏樹の言葉に応えるよう、春真の顔が明るくなった。まるで月光が射したかのように。
「よかったねぇ、ハル」
 言いながら真人は夏樹を見ていた。あなたにもこんな風に喜ばせることができるのだとでも言うように。
「そうだな」
 言葉にではなく、無言の声に夏樹は答える。そっと真人が笑ったから、通じたのだろう。春真ははしゃいで空を見上げた。
 本当に綺麗な満月だった。手を伸ばせば届きそうなほど大きく明るい。庭の草木が冴え冴えと輝く。
「ねぇ、真人さん。あれって十五夜かな」
 どこで覚えてきたのか春真が無邪気に問う。どう答えるのかと思って見ていたら真人はにこりと笑って子供の頭を撫でた。
「満月だから、十五夜って言っても間違いではないね」
「ん……違うの」
 真人の言葉の抑揚に気づいて春真が首をかしげる。その拍子に夏樹の手の甲に幼く柔らかい髪が触れ、まだ腕に抱いていたと気づく。今更離すのはおかしかったし、何より小さな子供の体は温かかった。
「十五夜って言うのはね、満月のことだから、あってはいるんだよ。でも普通は旧暦、昔の暦だね、その八月十五日のお月様のことを言うんだ」
「ん……」
「ハルにはまだちょっと難しかったね。もう少し大きくなったら伯父様に教えてもらうといいよ」
「いい」
「ん、なんで」
「だって、真人さんが教えてくれるほうが、いいから」
 少しばかり照れながらも言ってのけた春真を腕に抱いているのをいいことに、夏樹はその体を力いっぱい抱きしめる。
「苦しいよ、伯父さん」
 抗議の声など聞こえないふりをして絞め続ければ、真人が軽く睨んできた。
「夏樹、いい加減にしなよね」
「なんのことだかな。可愛い甥を抱きしめてなにが悪い」
「まぁ、悪くはないけどね」
 でも本当は違うことを考えているだろう、真人の心の声がまざまざと聞こえて珍しく夏樹は笑い声を上げた。
「あ、伯父さんが笑った」
「変か」
「ううん、でも。あんまり聞いたことない、から」
「だからハルは伯父様が怖いんだよね」
 春真に言いながら、真人は夏樹に告げる。もう少し優しい顔も見せてやって、僕にしているように優しい顔だってできるのだから。夏樹は聞こえた証にうなずいた。けれどそっぽを向く。それだけで真人には従う気が毛頭ない、とわかってもらえるだろう。
「まったく」
 小声で真人が文句を言ったから、やはり通じていた。夏樹は忍び笑いをして春真を解放する。苦しそうに息をついて伯父を見上げてきた春真は、どことなく少し馴染んだような顔をした。
「伯父さん」
 いまそんな顔をしたと言うのに、掌を返すより早く春真は真面目な顔をした。
「僕がいると、お仕事の邪魔になるよね」
 いままで気にしていたことなのだろう。なぜ、もっと早くに言わない。責めたくなった気持ちを一瞬で夏樹は抑えつける。代りに緩く腕に抱いた。
「馬鹿なことを言うな」
「だって」
「お前がどたばた遊びまわろうが気になるものか。俺はな、春真。この商売で飯を食ってるんだ。その程度のことが気になるものか」
「……本当」
「そんなことを気にしてたらお前におやつの一つも買ってやれなくなるからな」
「そうなっちゃったらね、ハル。僕がちゃんと稼いでハルにおいしいご飯食べさせてあげるからね」
 茶化した真人の言葉に春真が顔を上げる。ほっとしたような、泣き出しそうな顔をしていた。なぜ今になって。夏樹は後で真人に問おうと考えて、気づく。いまだからだ。やっと少しだけ伯父に馴染んだいまだから、やっと春真は尋ねることができたのだ。それを思えば申し訳ないような気になった。
「お前の仕事はな、春真。元気でしっかり食べて遊ぶことだ。変な気を使うな。お前は俺の甥っ子だろうが。赤の他人じゃあるまいし」
「ひどいこと言うねぇ。僕はそりゃ血は繋がってないから赤の他人だけどハルが可愛いのにねぇ」
 口々に言う大人に春真の目が赤くなる。ほっとして伯父の腕にすがりつく。父とは違う、けれど何とはなしに似た匂いがした。
「僕は、真人さんがいいや。だって、やっぱり伯父さん、怖いもの」
 言ってもきっともう伯父は強張った顔などしないだろう。ただどう対応していいかわからなかっただけだなど、子供の春真にはわからない。わかったのは、いまはもうそんなことはないのだとだけ。
「お前ね」
 呆れ半分からかい半分、夏樹は春真を抱きすくめる。苦しい離せと暴れる春真を真人が微笑ましげに見ていた。
「なぁ、真人。懐かしいか」
 不意に夏樹が問う。暴れていた春真がきょとんと真人を見上げた。
「思わない」
 首をかしげて春真が真人を見上げる。おかしな言葉だと思ったのだろう。けれど真人は言い間違えたわけではなかった。
「いつか大きくなったら話してあげるよ」
 乱れてしまった春真の髪を直しつつ言う真人に、春真は不満そうな顔をする。小さく夏樹が笑う。もう生きていたくはないとは「思わない」と感じさせてくれる二人に真人は黙って微笑んでいた。




モドル