「ちょっと金沢まで行ってくる」 夏樹がそう言ったのは、春真が実家に帰ってしまった年の秋のことだった。 その前年から、春真が家に帰ることはわかっていた。中学に上がるのと同時に戻るのがいいだろう、と大人たちで勝手に決めたことではあったが、春真も了承したし、真人も二親の元で暮らすことに異存はなかった。 そうやって、春真は桜の季節に実家に帰った。帰りたくない、小さく言ったのは夏樹と真人にだけ。親たちには喜んで家に戻る、そんな顔をして見せた春真が不憫で仕方なかった。 「いつでも遊びにおいで」 言えば、また少しだけ寂しそうな顔をした。帰っておいで、とは言ってもらえない。この家に戻っても、否、遊びにきてももう二度とおかえり、と言ってもらえることはない。そんな顔だった。 だから本当は、すぐにでも遊びにきて欲しかったのを、真人は止めた。何度か遊びにきたい、と春真は言ったのだけれど、仕事が忙しいのなんのと言って止めてきた。 もしもここで甘い顔をすれば、春真が実家に馴染めなくなってしまう。ただでさえ幼い時期を両親と共に過ごしていないのだ。そこが自分の家だとは思えなくなっているかもしれない。それを真人は案じていた。 幸い双子の兄は同い年の弟が可愛くて仕方ないらしい。何くれとなく世話を焼いている、と冬樹から聞く。 不思議なものだった。双子は、学校では一緒だったのだ。ただ帰る家が違っただけのこと。離れていたわけでもないのに、と思った真人はやはり離れていたのだ、と思い直す。 両親より溺愛してくる双子の兄を春真はどう思っているのだろうか。嬉しいと思っているだろうか、それとも戸惑っているだろうか。体が充分に回復したとは言えない姉ともうまくいっているだろうか。 うまくいってほしいと願うからこそ、この家には来させなかった。長いあいだ春真と三人で暮らした家は、急にがらんと静かになってしまった。 ハル、手伝って。あるいは、ハル、おやつだよ。今でもつい言いそうになってしまう。そのたびに言葉を飲み込むことのなんと多いことか。 慣れないでいるのは、春真よりも真人かもしれない。悩み悩んで、もう半年だ。若い春真はもうとっくに家に馴染んでいるかもしれないと言うのに。 そんな真人を見るに見かねた夏樹が、だから金沢に行く、などと言い出したのだった。 「金沢に。何か用事なの」 「いや、取材旅行……と言うか、兼六園に用がある」 なんとも微妙な言い回しだったせいか真人は首をかしげる。それに夏樹は小さく笑い目を細めて見せた。春真がいないからだ。朝も昼も夜も、子供がいない。目をはばかることがないから、不躾なまでの目をする。真人は笑ってもいいはずだったのに、やはりまだ慣れない、と思うだけだった。 「まぁ、あれだ。噴水が見たい」 「噴水って、日本最古のってやつだったかな」 「それだ」 言って夏樹は小説に使うのだ、と言い足す。だから実物が見たくなったのだろう。 「ふうん、いいけど」 「だからな、真人」 「なに」 「お前もちょっと羽を伸ばしてこい。俺は一人で大丈夫だから、行って帰ってくるだけだ」 「そんな、夏樹」 「心配か。だったら編集者に同行を頼むさ」 軽く言うが、たぶん編集者は喜んで急な頼みにも応じてくれることだろう。だが、そうではないと真人は言いたい。 「でも――」 「春真がいるうちは、気軽に旅行にも行けなかっただろう。それが悪いと言ってるんじゃない」 夏樹は言葉を切り、真人の目の中を覗き込む。光の加減か、今日の彼の目はいつもよりいっそう蒼く見えた。 「春真も、俺たちも、新しい生活に慣れなきゃいけない。春真が遊びにきたときにお前が急に大喜びしたりしたらあれはどう思う。やっぱりここが自分の家だと、思うんじゃないのか」 正論だった。あまりにも正論だった。ゆっくりと、普段は長く言葉を連ねない夏樹があえてそんなことを言う。真人は返す言葉をなくしてうつむいた。 「なぁ、真人。春真に幸せになってほしいんだろう」 「もちろん。当たり前じゃない、そんなの」 「だったら、春真は、お前が我が子のように育てた春真は、育ての親が打ち沈んでるのを見て喜ぶような息子か」 「……手厳しいこと、言うね」 「すまんな」 真人は首を振る。そのとおりだった。だからと言ってすぐさま気分が変わるものでもなかったが。 「だから、新しいことをしよう。な、お前もちょっと一人でどこかに行ってきたらいい」 言い募られて、はじめて夏樹が心配していることに気づく始末だった。半年余り、黙って見守っていてくれたのだろう。 「ん、ありがとう。夏樹」 一瞬、詫びそうになった。けれど夏樹の眼差しに止められた。真人は無理に微笑んで礼を言う。無理やりのつもりだったのに、いつの間にか夏樹の目に見惚れていた。次に口許が動いたとき、それは本物の笑みだった。 だからいま、真人は一人で京都にきている。さすが秋の京都だ。素晴らしい景色と、凄まじい人出だった。 「別に夏樹みたいに取材旅行ってわけでもないしなぁ」 思わず呟いてしまう。特に予定もなく、どこを観光したいという希望があるわけでもない。人波に流されるようにして、ふらふらと出歩く。それもまた、悪くはないと思いなおす。 波に押し流されて入り込んでしまったのは、一軒の土産物屋。ここにもわいわいがやがやと人がいる。喧騒が、少しだけ心を慰めてくれた。 「あぁ……」 それなのに。土産物の菓子を見る。これは春真が好きそうだと思う。土産物の、他愛もない玩具を見る。春真が喜ぶかと思う。土産物の、民話の冊子。きっと春真が楽しむと思う。 「だめだねぇ」 なにを見ても春真を思う。今頃実家でどうしているだろうか。学校はうまく行っているだろうか。中学の制服姿、一度見たけれどとても大人びてよく似合っていた。 冬樹が持ってきてくれた入学記念の写真は兄の春樹と並んだ制服姿。一卵性の双子なのだから当たり前だったが、瓜二つだ。 それでも真人は一度でどちらが春真か言い当てた。驚く冬樹に真人は言った。 「雪桜さんに聞いてごらんよ、たぶんどっちが春樹君かすぐわかると思うから」 手元で育てた子供なのだから。そう笑いつつも真人は雪桜が決して口にしないだろうこともわかっていた。 好きこのんで手元から離したわけではない。やむにやまれぬ事情でそうしただけだ。だから自分の手で育てた春樹だからわかる、と彼女は言いはしないだろう。 「まるで女親だね、僕は」 小さく笑って土産物から手を離す。ふらりとまた店を出て歩き出す。春真の記念写真は、焼き増ししていまも鞄に入っている。 それがおかしいやら寂しいやらで真人は自分の行動を笑う。けれど、やはり寂しいのだと思う。春真は戻りたくないと言ったけれど、帰したくないのは自分だった。 ずっと夏樹と三人で暮らしていけたらどんなに楽しかったことだろうか。 「家庭――」 自分も楽しかった。だが、と真人は思う。誰より楽しかったのはたぶん、夏樹だ。彼が持ったはじめての、家庭。 真人と二人の生活では、家庭とは呼べないだろう。二人で住み暮らすのも幸福だった。そこに春真がきて、あの家は家庭になった。 家庭というものが持ってしかるべき暖かさを一度たりとも味わったことがない夏樹にとって、それはどれほど新鮮で幸福な体験だったことか。 「ちょっと早いが、息子が独り立ちしたと思えばいい。それでいい」 春真を帰すと決めたとき、夏樹がぽつりと自分に言い聞かせるように言っていたのを真人は覚えている。 それをふと今になって思い出した。ふらふらと歩き歩いてここはどこだろうか。真人の目は辺りを見回しつつ、あの日を見ている。 「また、二人になった。そっか」 育て上げた子供を送り出した夫婦など、どこにでもたくさんいるではないか。思った自分がおかしくなった。夫婦だなどと思ったことはなかったし、言えば夏樹も筆舌に尽くしがたい表情をすることだろう。 ただ、状況だけは、似ているのかもしれない。そんな風に納得した。ほとんど無理やりに。 そうしなくては、夏樹に申し訳ないような気がした。自分ひとり、いつまでも落ち込んでいる。夏樹も当然、春真がいないのを寂しく思っているはずなのに。 それでも新しい生活にしよう、慣れていこう。そういう夏樹の思いが真人は眩しくなる。 「かなわないなぁ」 見上げれば、午後の日が翳っている。つい、とそれた眼差しの先。真人は溜息をつく。名も知らぬ山々が燃えていた。 「紅葉がなんて――」 綺麗なんだろうか。思ったことで浮かぶ歌。宇多上皇の大堰川御幸の際の、あの歌。 「ハルに、見せたいねぇ」 思いが素直に口をついていた。宇多上皇が、御子の醍醐天皇にお見せしたいと願ったように。 「だって僕はハルの育ての親だもの」 たとえ血が繋がっていなくとも、たとえ両親が健在なのだとしても。ハルと過ごした時間は決して否定できない。 「いつか――」 春真がもう少し大人になったら、三人で旅行にこよう。秋に、この紅葉を見にこよう。人混み嫌いの夏樹だけれど、きっとそのときは付き合ってくれるだろう。 春真がなにを言うだろうか。そのとき春真はどうしているのだろうか。大人になった春真の姿を思い描こうとし、真人は笑う。 「どうしても、夏樹になっちゃうね」 出逢ったばかりのころの若い夏樹。大人になった春真はきっとよく似ていることだろう。二人並べて似ているといえば、冬樹も苦笑するに違いない。いつかそんな日が来るだろう。 「そうだ」 そのときには夏樹と三人ではなく、冬樹と雪桜、春樹と姉の志津。みんなで見にこよう。きっと楽しいに違いない。未来を夢見て紅葉を見つめる真人はすっきりと微笑んでいた。 |