まだ春真がいたころのことだ。ずいぶんと真人は驚いたものだった。 所用で出版社を訪れたときに聞かされた。最初、なにを言っているかわからなかったが次第に飲み込めてくる。 「青木さん、と言う方なんですが」 編集者が言うには読者の一人、と言うことだった。どうやら珍しくといっては言いすぎだろうが、百人一首の例の雑文に読者がついているらしい。 まず真人に理解できたのはそういうことだった。そして作者宛の手紙だかなんだかが来たらしい、と。 「はぁ、そうですか」 「いやいや、そうですか、ではなく。ご存知じゃないですか、先生」 「ご存知と言われましても」 「青木義信さん、と言う方なんですが」 「――青木さんですって」 姓名を聞いた真人の顔色が変わる。思わず編集者に掴みかかりそうになったほどだった。 「青木さんですか、本当に青木さんなんですか。生きてるんですね」 「先生、先生、ちょっと、手を」 大慌ての編集者を見やれば、掴みかかるところ、ではなくとっくに掴みかかっていた。編集者以上に慌てて離せば、彼が笑う。 「先生でも取り乱すことがあるんですねぇ」 当然だった。真人はそのときなんと答えたか覚えていない。手紙を受け取り、いそいそと帰途に着く。編集部で一読したら、間違いなく青木だった。 「――と言うわけでね、夏樹。昔の学校時代に、お世話になった先輩なんだ」 夕食をせっせとかき込んでいる春真の耳をはばかって真人はそれだけを言う。夏樹には陸軍幼年学校時代の先輩、と知れたことだろう。 「そうか」 「……正直、生きているとは思わなかった。生きてて欲しい、とは思ったけど。でも」 あの時代。あの時間。あの情勢。たぶん春真にはもうわからない。夏樹には、少しはわかってもらえるだろう。彼は教師だった。自分は職業軍人だった。少なくとも、もう少し戦争が続いていたならば出征しているはずの、職業軍人の卵たった。同じ戦争を経験していても、見ていたものは違うだろう。それでも夏樹ならばわかってくれる、そんな気がしていた。 「わかるとは言わん。が、想像はできる」 ありがたい言葉だった。わかってくれるだろうと思ったけれど、安易にわかると言ってほしくもなかった真人の期待に夏樹は充分応えた。 いったい青木には何度、庇ってもらったことだろうか。特別目立つ生徒ではなかったはずなのに、やれ姿勢が悪いの足が揃っていないのと言いがかりじみたいじめを受けた真人を青木は目にするたびに救ってくれた。 「特に僕がどうのって言うんじゃなかったからね」 春真が寝てしまってから真人は夏樹に言う。少しばかり言い訳のようだったけれど、それは夏樹のどことない不機嫌がさせることだった。 「他の同輩だって、青木さんにはずいぶんお世話になったんだから」 「世話好きだったんだな」 「と言うより、馬鹿馬鹿しいいじめが嫌いだっただけだと思うよ」 さらりと言っても夏樹は不機嫌なままだった。それが真人はほんの少し、おかしい。いくら夏樹の目にどう見えていようとも、自分はただの男であるし、そんなただの男においそれと言い寄る奇特な人物がごろごろといるはずもない。夏樹はその辺りのことをどう考えているのか、聞いてみたいようなこのまま秘密にしておきたいような、そんな気がした。 以後、数度の文通を経て、青木が横浜に出てくるということになった。真人としては是非にもこの家に寄っていただきたい。 「青木さんのことだけど。いいかな」 夏樹に言えばやはり渋い顔。こちらは赤の他人が自宅に来るのを嫌ってのことだった。 「まぁ、お前の先輩だからな。いいよ」 「ごめんね。ありがとう」 春真の目を盗んで軽く頬にくちづければ、渋い顔のまま照れるものだから世にも珍妙な顔になっていた。 青木が日の出町の家を訪れたのは、昼を少しまわったころのことだった。最初は横浜駅まで迎えに行く、と言っていたのだがどうしても自分でふらふらしたいから、と断られてしまった真人はやきもきとしつつ待っていたのだった。傍らの夏樹は殊の外に不機嫌で、休日で家にいる春真がおずおずと横についている。 「あ――」 玄関で物音がした。真人が飛び出すより早く、小さく笑った春真が迎えに立つ。 「……気を使ってるな、あいつ」 「夏樹、なにを言っているの」 「いや、なんでもない」 真人は春真が自分たちの関係に気づいているとは夢にも思っていない。夏樹は春真のように笑って首を振る。玄関先から声が聞こえた。 「よう、ぼうず。ここに加賀って男は住んでるかな」 「加賀……」 春真の戸惑った声に真人は音を追いかける。 「加賀真人って言うんだが」 不思議そうな春真に再度問うているのはまぎれもなく青木だった。 「あぁ、真人さん――」 のことだったのか。続けようとした春真の声が途切れ、振り返る。 「青木さん……」 「よう」 軽く手を上げた姿。あの日のままだった。真人は昔に返った気分でくすりと笑う。 「老けましたね、青木さん」 「貴様は腹立たしいくらいに変わらんな」 「多少は貫禄がついていませんか」 「いいや、まったく」 きっぱりと断言した青木に春真が笑う。それでようやく思い出して真人は上がってくれと勧めた。 「玄関先ですみませんでした」 「気にするな。それにしても、貴様に息子がいるとはなぁ」 「息子、ですか」 ちらりとついてきている春真を振り返り、真人はどう言ったものか考えてしまう。否定すれば春真は悲しむだろうし肯定するわけにもいかない。 「この人の甥っ子なんですよ」 結局、流れに任せることにしてしまった。座敷にいる夏樹はいつもの位置からすらりと青木を見上げる。 「やぁ、はじめまして。青木といいます」 「はじめまして。水野です」 お互いの初対面の挨拶が済んでやれやれと思ったのは一瞬だった。そこから先がどうにもいけない。思い返せば青木もあまり人付き合いが上手なほうではなかった。 「あぁ……加賀。貴様、飲むんだったか。飲まんと言っても土産はこれだが」 手持ち無沙汰そうに青木が手土産の一升瓶を真人に渡す。その間も横目で夏樹を窺っていた。夏樹も同じことをしているのだから大概どっちもどっちで責めるわけにもいかない。 「ありがとうございます。お持たせになっちゃいますけど、お飲みになりますか」 「いや、結構」 「えーと、その。篠原忍ってご存知ですか、青木さん」 「あぁ、知ってるよ。こちらの御仁だろう。お作は何作か拝読しましたよ」 「……そうですか」 ありがとうでもなければ感想を聞くでもない。真人が天井を仰ぎ、春真は溜息をつく。小さく伯父さん、と呼びかけるのに夏樹は庭を眺めるだけ。 「すみません、青木さん。とことん無愛想で無口な人なものですから」 「貴様がそうやって謝るとなんだな、嫁か、貴様は」 からかわれているのはすぐにわかった。が、真人は咄嗟に咳き込んだ。夏樹は夏樹で庭を向いたままむせている。 「伯父さん、平気」 所在無くて何度となく入れ替えていた茶を春真が慌てて夏樹の元に持っていけば、わざわざぬるく淹れているそれを彼は煽る。 「青木さん、なんていうことを言うんですか」 「そこまで驚くような話か」 「普通、驚きます」 言いつつ真人もまた夏樹の元に膝を進め、彼の背中をさすってやっていた。 「そうしていると本当に嫁だぞ、加賀」 「青木さん」 いい加減にしてくれ、と言いかけて青木を見ればにやにやと笑っている。 「どこの世の中にこんな嫁がいるんですか、まったく」 「いてもおかしくはないがな。まぁ、俺は断じてごめんだが」 「よく考えて仰ってください。嫁と言う字はどう書くんですか。どこに男の嫁がいるもんですか」 言い放った真人にからからと青木が笑った。なんだこいつ、と言わんばかりの目つきで夏樹が青木を見やる。真人としては力なく笑うよりない。 「貴様、それが先輩に対する口のききかたか。そんなんだからいびられてたんだ」 「それは知りませんでしたよ」 「そうなのか。とっくに知っていると思ったがな。あのころの加賀のまぁ、生意気なこと」 「――生意気、でしたか」 「えぇ、とんでもなく生意気でしたよ。生意気に服を着せて歩いたら加賀、と言うくらいでね」 なぜそこで尋ね、生き生きと過去を語る。二人共に食ってかかりたかったけれどそうすればよけいに青木を喜ばせるだけだ、と真人は口をつぐむ。 「ハル」 「うん、なに」 「あんな大人にならないようにね」 あてつけがましく言えば、春真にまで笑われた。聞きとがめた青木が、ほらこういう男だというよう眉を上げて見せる。 「真人」 けれどなぜか、夏樹が快さげに笑っていた。多少は不快であるものの、夏樹の機嫌がよくなれば他はどうでもよいとばかり真人の眉間の皺が消えていく。 「新刊」 「ん、ちょっと待ってて」 短い言葉に通じたのを、また青木が嫁かとからかう。気にしないふりをしつつ軽くひと睨みすれば先輩なのに、とまた笑われた。 「進呈しますよ」 真人が持ってきた夏樹の最新刊を、彼は青木に手渡した。それがどんなに珍しいことか、青木はたぶん知らないだろう。 「これはありがたい。ご迷惑でなかったら、ご署名をいただきたいんだが」 不躾な依頼に、普段の夏樹ならば機嫌を損ねて断りもせず席を立つだろう。だが彼はこう言っただけだった。 「真人、書く物」 はいはい、とばかり再び立てば今度は口をつぐんだまま目で青木がからかってきた。見なかったふりをしつつ真人も自分の本を持ってくる。 あわただしく青木が帰るとき二冊の本、それも著者の署名入りの本が彼の鞄に入っていた。 |