夕食後のひと時、いつも春真はその日学校であったことを伯父に話す。勉強のことであったり、友達のことであったり、時には宿題の助言をもらったりもする。恒例となっているその行事を真人は微笑ましげに見つめるのが常だった。普段は。
「ねぇ、真人さん。今日をかぎりの命ともがなって、どういう意味なの」
 言われた瞬間、飲んでいた茶を吹き出しそうになった。夏樹は完全に吹いている。
「ハル――。なにを、急に」
「え、そんな変なこと言ったかな」
「言った。お前、どこでそんな言葉を」
「変って、学校だよッ」
 伯父の呆れた声に春真は驚いて抗議する。真人はせっせと夏樹が吹きこぼした茶を拭いていた。が、まだその頬が赤い。どうやら自分はとんでもないことを言ったらしい、とようやく春真は気づく。
「それで、ハル。どこで聞いたの」
「聞いたって言うか、今日学校で百人一首やったんだ」
「あぁ……」
 そういうことだったか、と真人は納得する。確かにある歌の下の句がそういう文言だ。が、夏樹としては素直にうなずけないものがあるのだろう、なんとも言いがたい顔をしていた。
「それにしてもなぁ……」
「ねぇ、伯父さん。そんなに変なの。でも学校でやったんだよ」
 不思議そうな疑問の口調。真人ならば騙されただろう。だが伯父と甥。夏樹はわずかに眉を上げて見せる。
「お前、わかっててやってないか」
「ううん。全然」
 本当か、とあからさまな目つきで疑うのを真人がたしなめた。淹れなおした茶を夏樹の前に置き、ついでに春真の分も足してやる。
「伯父様はね、ハル。ちょっと小学校で習うには大人っぽい歌だから心配してるんだと思うよ」
「大人っぽい。まぁ……うん、そうとも言うな」
「夏樹」
 話をややこしくするなとばかり真人が夏樹を睨む。それを小さく春真が笑った。
「そうだね、ハルにはまだ少し早いと思うけど」
 子供だからと言ってなあなあにしていいことではないだろう。本人が純粋な興味を持っている。それを巧く教えるのは大人の役目と言うものだろうと真人は思う。
「忘れじの行く末まではかたければ、今日をかぎりの命ともがなって言う歌だよね」
「んー、確かそんな感じ」
「この歌はね、女の人が詠んだんだ」
「うん、きれいな女の人の絵が描いてあったよ」
「でしょう。その人がね、のちに旦那さんになった人と両思いになったときに詠んだんだよ。好きだなって思ってた人が自分のことも好きだって言ってくれるのって、嬉しいと思わないかな」
 あたりの柔らかすぎる真人の声に夏樹は忍び笑いを漏らす。本人も照れているのだろう。どことなく強張った色があるのに春真はまだ気づくまい、と思えば心が弾む夏樹だった。
「そのときにね、この女の人は思うんだ。こんなに幸せなこのときに、いっそ死んじゃいたいわって」
「え、なんで」
 ぎょっとした春真の声に真人は微笑む。まだまだ子供で、できればいつまでも子供だと思っていたい。いずれ大人になったとき、一緒に酒のひとつも酌み交わしたいと思うのと同じほど、真人はそう思う。
「だって、好きって言ってくれても好きじゃなくなっちゃうかもしれないでしょ。ずっと一緒だよって約束してくれても、遠くに行っちゃうかもしれないでしょ」
「そんなの……」
「だからね、すごく幸せだから、今すぐ死んじゃいたいって思うんだ」
「うーん」
「だいたい、こんな意味の歌かな。納得できないみたいだね、ハル」
「だってさ、そんなのってひどくない」
 幼い正義に顔を赤くした春真が好ましい。夏樹も大人としての正しい振る舞いを守るつもりか茶々を入れずに聞いていた。
「ん、どこが」
「だって。この女の人はさ、男の人のことが好きなんでしょ。だったらどうして信じてあげないの。ずるいよ、そんなの」
 思わず真人は春真を抱きしめる。なんと素直なよい子に育ってくれたのだろう。そのまま水野の本家に駆け込んで雪桜に話してやりたいくらいだった。
「ちょっと、真人さん――」
 苦しいよ、言いかけた春真の言葉が途中で止まる。同時に真人の襟が後ろに引かれた。
「なにしてるの、夏樹」
「春真が苦しそうだったからな」
「……ふうん、そう」
 疑わしそうな、否、別の何事かを確信した目。だがさすがに春真がいる。夏樹は密やかな笑みを浮かべちらりと春真のいるほうへ目を向けた。そちらに見られては困る子供がいるぞ、と知らせるように。
「春真。お前はまだ子供でわからん。それだけだ」
「そんなのってないよ。大人になったらずるくなるわけ。悪いことは悪いだと思うけどな」
「そりゃそうだ。が、大人ってのは複雑なもんさ」
 肩をすくめる夏樹に春真は不満そうに唇を尖らせる。その頭を撫でてやれば子供扱いするなとでも言うのだろう、いやそうに首を振られた。
「大人になるとね、ハル。二人ともがずっと一緒にいたいって思ってても、そうは行かない事情とかね、あるんだよ」
「そう……なの」
「そんなこともね、あったりするかなって僕は思う。だからずるいだけじゃないんだよ」
「でもやっぱりずるい」
 言い張る春真に真人は微笑む。それからちらりと夏樹を見やった。もう冷めた茶を口にして夏樹は何かを考えている。
「ねぇ、夏樹」
 呼びかければ眼差しだけを向けてくる。少しばかり面白そうな目をしていた。
「あなたも一応は大人の一員じゃない。この恋の絶頂にいっそ死ねたら、なんて思ったこと、あったりするのかな」
 やはり、といわんばかりに夏樹は器用に目だけで落胆して見せる。真人は笑って取り合わなかった。
「馬鹿馬鹿しいことを言うな」
 返事になっていないことは夏樹が誰より知っている。この分では春真が寝たあとに問い詰められるかもしれない。そう思ったとき。
「僕だったらさ、なんか大変なことがあってもずっと一緒にいたいな。だって好きなんでしょ。だったらさ、一緒に頑張れるじゃん。伯父さん、そう思わない」
 決して流暢な言葉ではなかった。照れもあるだろう、もちろん。だがそれ以上に春真が必死に言葉を選んでいるのを感じる。
 大きくなったな、とこんなときに真人は思う。小学校に上がる前にこの家に来て、日々成長していく春真。いつまでこの姿を見ていられるのか、とも思う。
「ハルと酌み交わすのも遠い日じゃなさそうだねぇ」
「なにを言ってる。まだ早い」
「わかってるよ、今じゃないってことくらい、でも」
 うっかり呟いてしまった独り言に反応されて真人は頬を赤らめる。当の春真はきょとんとしていた。
「真人さん、なに言ってるの」
「大人になったハルと一緒にお酒を飲む日が楽しみだなって言ったの」
「ふうん」
「春真はそのときどんな恋をしているのやら」
「ちょっと、伯父さん」
 変なことを言うな、と春真が顔を赤くする。真人と一緒になって赤くなっているものだから夏樹はなんだかおかしくなってきた。
「だってなぁ。大人だったら変なことでもあるまいよ」
「だから、今なんでそんなこと言うのって言ってるの」
「気になるじゃないか。なぁ、真人」
「そうだね、ハルがどんな人を好きになるのかは僕も興味があるな」
「……俺はちゃんと結婚できるのかが気になるよ」
 ぼそりと夏樹が言う。幸か不幸か真人には聞こえず春真には聞こえた。急に目の前でわたわたと慌てだす春真を真人は怪訝に見やって、夏樹に目を向ける。
「なにか言ったの」
「いいや、なんでだ」
 しらっととぼける夏樹に真人はどうやら騙されたらしい。もっとも、そう思ったのは春真の早計だった。よもや自分が寝てからとことんまで問い詰められ、そしてなお伯父が吐かないとは思ってもみなかった。
「まぁな、春真が言うのも一理ある、と俺は思うぞ」
「どこの話なの」
「だからさっきの。一緒だったら頑張れるって春真は言ってただろうが」
 話を蒸し返されて春真が嫌な顔をした。気恥ずかしいというより、揚げ足を取られるようで不快なのだろう。
「実のところ、その言葉には同感だ」
 だから春真は驚く。伯父がここまで素直に納得するとは。意外でもある。だがそれよりずっと嬉しい気持ちのほうが強かった。
「恋が叶った瞬間に死なれたらたまらんよ。これから先、どんな幸福が待っているか味わわせもしないで死なれてたまるか」
「そう、かな」
「無論、言うまでもなくこっちもだ。やっと叶った。さぁ幸せになるぞってところで死なれてみろ」
「まぁ、ねぇ。言ってることは、わからなくもないけどさ」
「だろうが。積極的に自ら死のうとするのがどれほど大変か、お前には言うまでもないな、真人」
 そのときだけ夏樹は鋭い目をした。春真に見えてしまったか、と真人はわずかに案じる。だがそれほど迂闊な男でもない。答えに代えて真人は眼差しを落とす。
「だから俺は思う。そこまで必死になれるんだったら、どれほどの苦難が先にあるとわかっていようとも、共に生きることに必死になってもらいたいね」
「意外だな……」
 それは真人の声ではなかった。春真が目を瞬いて伯父を見ている。
「伯父さん、こんなに喋るんだ。ううん、喋ったって言うより、こんなに一生懸命に話すんだ。驚いた」
「そりゃお前がまだ俺を知らないからさ」
「伯父さんなのに、なの」
「そうさ。お前は一人の男である俺を知らん。お前にとって俺は伯父だろう」
 にやりと笑った夏樹に春真は返す言葉がない。なにを言っても軽くあしらわれる、そんな気がした。
「子供相手になに言ってるんだか。――それで当たり前、普通なんだからね、ハル」
 真人は夏樹の肩を打つふりをして彼を睨み、春真に向かって困ったように笑いかけた。いつか聞きたい、と不意に春真は思う。真人が夏樹の肩を打たない理由を春真は、知らなかった。




モドル