目が覚めると、まだ辺りは暗かった。それなのに妙に目が覚めてしまって真人はそっと体を起こす。ちらりと隣を窺えば、夏樹はまだよく眠っていた。 それに真人は小さく微笑む。おかげで本格的に目が覚めてしまった。 「ん……」 仕方ない、とばかりに布団を抜け出す。脱ぎ散らかしたままになっていた寝巻き代わりの浴衣を羽織り、寝間を抜け出した。 襖の向こう、居間も当然にまだ真っ暗だった。夜明けからはずいぶん遠いのだろう、と思って時計を見ればそれほどでもない。 「いやに早く目が覚めちゃったね」 かといって寝なおすほどの時間でもない。真人はふと思いついて夏樹を起こさないよう、一枚だけ雨戸を開けた。 「あぁ……」 まだ暗かった。夜明け前の暗さだった。清冽な空気の中に身をさらして広縁に出る。月がまだ残っていた。 「なんて」 綺麗だとか、美しいとか、そんな言葉が意味をなさない気がした。とても歌を詠むことができない。それを悔しく思うより、真人は歌えない事実を喜ぶ。 この世には、こんなに美しいものがある。言葉など足らないものがまだある。 「それが、いいよね」 ただ黙ってこの両目で見ることでしかわからない美。他人には伝わらないし、伝える気にもならないもの。 「歌えない、それがこんなにも僕は嬉しい」 他人に言えば馬鹿だと言われるだろう。仮にも歌詠みが、歌えないことを喜ぶなど怠慢ではないかと謗られるだろう。 真人はそれでいいと思っている。真人が本当に自分の歌を知って欲しいのはただ一人で、たぶん彼のためにだけ、詠んでいる。 もちろん、他人が褒めてくれれば嬉しいし、おだてられれば鼻も高くなる。それを否定するほど愚かではない。が、それで自分を見失うほど若くもなかった。 「月が――」 刻一刻と、薄れていく。夜明けの闇が遠のき、東の空は白々と明けていることだろう。それでも月は消えずにそこにある。 「強情で、頑固で」 まるで夏樹みたいだと真人は小さく笑った。日の光と言う世の中の通例に逆らって、それでも毅然とそこにある夏樹。 「魅入られそうなところも」 こんなにも長い時間を共に過ごしてもまだ、見惚れてしまう。ただの惚気ではないかと思わなくもないが、けれど本心だ。 「あ――」 いままで、ただの影だったもの。わずかに明け初めていく空。そのかすかな光に浮かび上がる庭の木々。 真人はそこにあることを知っていながら見えなかった梅の木に惹きつけられる。ゆっくりと眼差しを巡らせれば、あって当然のいつもの庭。 「それなのに」 はじめて見つけた気がした。いまこの瞬間、庭は生まれ、木々が生まれ。太陽の光に育っていく。そして抗う有明の月。 何事かを確かめるよう、真人は振り返った。いつもの座敷に、いつもの光景。書き物机の上には、書きかけの夏樹の原稿。使いっぱなしの筆記用具。すぐ左手に資料が積み上げられ、机の下には愛用の辞書。 真人はそこに規律を見た。淡々と過ぎていく日々。繰り返しの毎日。そこに生まれる秩序。 「日常――」 これが、日常だ。真人は強くそう思う。思うどころではなく、感動すらした。当たり前の暮らしがいま手の届くところにある、それが心を揺さぶってならない。 「こんなものなのに。でも、こんなに」 特別変わったものなどどこにもない。変わっていないことこそが、貴重。 「僕も年かな」 平穏無事な毎日に安堵するとは、そんな年になったかと思えば苦笑の一つももれる。それでも心からありがたいと思う。 真人も夏樹も、戦争を知っている。平穏であることができなかった時代を知っている。だからいまがありがたい。 真人も夏樹も、世の常とは外れた幸福を得ている。人に言えない恋をして、けれど夏樹の家族からは彼の伴侶として認められた。こうしてここにいることを許されている。だからいまがありがたい。 真人も夏樹も、だから当然家庭はない。二人きりの生活を家庭とは呼ばない。だからではない、ただの偶然。それでもつい最近まで、この家には子供がいた。夏樹の弟であって、決して義理の弟とは呼べない人から、彼の息子を託された。託してくれたその気持ちが、だからとてもありがたい。 若い頃、生かされているとは思えなかった。生き残ってしまった、そう思った。 「いまは――」 周りの人々の心尽くしで生かされている。そう思う。ずいぶん昔、夏樹は言った。二人きりでどこかにいって暮らしてもいい。そんなことを彼は言った。 若さが言わせたことだろう。が、真実の気持ちでないとは真人も思ってはいない。 それでも、そんな風に世捨て人のように生きていくことはできなかっただろう。お互いに、欲求がある。夏樹は書くことをやめられないし真人も詠むことをやめられない。真実、伝えたい相手は互いだけであったとしても、それを発表することが二人ともやめられはしない。 世捨て人のようになっていたら早晩破綻してしまったことだろう、と真人は思う。 「それなのに」 こんなにも長く続いた。これからも続いていくことが確信できる。当たり前の日常がそこにあることに苦笑しつつ、続いていく。 「深養父は、月を見て」 こんな気持ちだったのかもしれない、ふと真人はそう思った。日常に苦笑いをし、同じほどに安堵する。そんな自分と言うものをからりと笑えるようになるのはいったいいつのことなのだろう。そのとき隣に夏樹がいればこんなに嬉しいことはない、真人は思う。 「おい――」 段々と明けていく空をまだ眺めるつもりだった真人の背中に声。驚いて振り返れば怠惰な格好で夏樹が襖の隙間から顔を出していた。 「なにをしているのかと思えば」 「ごめん、起こしちゃったかな」 「布団から出てくお前に気づかないほど鈍くない」 嘯く夏樹に真人は笑う。いままでの日常の非日常性が一瞬でどこかに飛んで行き、平凡そのものの日常が返ってくる。 「いつ帰ってくるか、もう帰ってくるかと気にしてたってのに」 鼻を鳴らして夏樹は言う。妙に子供じみていて真人は楽しい。 「それなのに、なんだ。座敷で何か言ってる風だったから、一応は気にしたんだ」 歌でも詠んでいる、と思ってくれたのだろう。一人にしてくれたことがありがたいような、くすぐったいような心持ちで、けれど真人はまだくすくすと笑っていた。 「それがどうだ、え。歌を詠んでたわけでなし。なにをしてたのかって聞いても笑って答えん。一人冷たい布団で待つ俺のこと何ぞどうでもいいわけだ」 「冷たいわけないじゃない、自分はもぐってるんだから」 このまま放っておいたら声が嗄れるまで懇々と説教をしそうな夏樹に真人は口を挟む。まだ言い足らない風情の夏樹がおかしいやらもったいないやらで真人はついに大きく笑い出す。まだ半分方は布団にもぐりこんだままなのだろう夏樹が不愉快そうに口許を険しくさせた。 「なにがおかしい」 「だって」 「おい」 「ねぇ、夏樹。あなた、なんて格好してるの」 眉を上げて咎めれば、そっぽを向いた。肩先まで布団を引き上げたのだろう、もこもことしたものが頭の向こうに見える。 「せっかく――」 布団に阻まれて、真人にその続きは聞こえなかった。が、渋々と放り出されていた寝巻きを羽織って現れたところを見れば、見当はつく。 「風邪ひくぞ。さっさと布団に戻ってこい」 つい、と真人の手を引き立ちあがらせる。強引さに、けれど真人は従って微笑む。 「なんだ」 「別に」 「どうだかな。――お、月が出てるな」 振り仰いだ夏樹の肩越しに、ずいぶんと薄れてしまった月がまだ出ていた。 これを眺めていたのか、と眼差しで問う夏樹を真人は微笑んではぐらかす。言ってもよかった。隠し事ではない。けれどなんとなく惜しくなって、無言を通す。 「お前なぁ」 少しばかり怒って見せた夏樹の頬、真人は軽く唇を寄せた。新鮮で、それが少しだけ切ない。 「おい」 「ん――」 すぐさま気づいたのだろう夏樹が心配そうな顔をして覗き込んできた。真人は首を振り、なんでもないのだと伝えようとする。 「大丈夫だよ。ちょっとね」 そんなもので誤魔化される夏樹ではない、どんな言葉を足してもたぶん、無駄だろう。わかっていても真人はそうした。 「……春真か」 「うん。どうしてるかなって」 「元気に決まってる」 「わかってるよ、そんなの。ただ、ちょっとね」 ためらった真人の頬に手の平を滑らせれば、困ったような顔をして見上げてきた。 「あなた、ハルがいないから平気で裸で寝てたんでしょう」 「見られるとかなりまずいからな」 「当たり前じゃない。それでね、僕もハルがいないから、こんなことを平気でする」 言ってもう一度夏樹の頬に唇を寄せ、けれど突然動いた夏樹に阻まれる。唇は、唇に。驚くより、照れた。 「まぁ、こんなことも人目をはばからずに済むわけだしな」 「……まぁね」 「なにか言いたそうだな」 「まあね」 ふん、と鼻で笑って真人は態度とは裏腹に夏樹の肩に額を預けた。 「ハルがいないから。ハルがいなくなったから。そう思うのが、寂しいよ僕は」 真人に言葉を返さず、黙って夏樹はその背を抱いた。なだめるよう背を叩き、とっくに冷たくなってしまった布団を温めに二人、戻った。 |