春真が成長してくれたのは嬉しい。実に嬉しい。だがたまにはぎょっとするようなことも言うようになって真人は困っている。その日にもこんなことがあった。
「あ、いらっしゃい。露貴おじさん」
 ふらりと庭に姿を見せた露貴に春真は笑顔で駆け寄っていく。抱きとめる露貴も嬉しそうにしつつ目許に影がよぎる。
 本当は、春真の祖父だった。だがさすがに春真の母は兄と妹が契ったから生まれたのだ、と言えるはずもない。いまのところは遠縁のおじさん、と言うことにしてあった。実際、戸籍をたどれば血縁に違いはない。戸籍のほうに若干の操作があるだけだ。戸籍上で正しく説明するならば父方の大叔父、と言うことになるか。春真の父である冬樹の母、千尋の弟なのだから、その説明で間違ってはいないのだが、春真にはまだ紙に書いて説明してもわからないだろう。時々真人もわからなくなるくらいだ。
 いずれ、春真が物事を理解できるくらい大人になった暁には、告げるだろう。それを決めるのは春真の両親だったが、真人はたぶん告げる、と思っている。
 確かに咎められるべきことではある。だが、愛してしまったものは、仕方ないではないか。社会倫理を面に押し出せば咎めるべきことでも、真人は思う。なぜならば、夏樹がいる。
「やあ、久しぶりだな。元気そうだ」
 口に出せない関係でも、露貴はしばしばとこの家に来る。夏樹に会いにくるという目的が主かもしれない。だが春真の顔も見にきているのを真人は知っていた。
「うん、元気だよ。おじさんは」
「おじさんも元気だよ。学校はどうだ、ちゃんと勉強してるか」
「えー。してるけど。そういうのって、言われたくないな」
「そりゃ悪いことを言ったな。じゃあ、お詫びにお菓子を買ってやろう」
「やった」
 庭で飛び跳ねる春真に真人は小さく笑う。露貴に軽く目礼すれば、あちらも笑みを返してくる。
「ハル。おじ様に甘えてばかりじゃだめじゃないか」
「僕じゃないもん。おじさんが買ってくれるって言ったんだもん」
「言っても遠慮するの。――一度くらいはね」
 にっと笑った真人にそれでは子供に駆け引きを教えているようなものではないか、と露貴が文句を言う。
「いいんですよ、生きていくには必要なことだから」
「それはな、確かに」
「でしょう。ちょっと待っててください。いま、原稿――」
 を書いている途中の夏樹を呼んでくるから。と言うはずが最後まで言えなかった。振り返れば夏樹が立っている。それも顔色の悪い夏樹が。
「おい、夏樹。お前、大丈夫なのか」
「……大丈夫に見えるのか」
「見えないから聞いているんだ」
 言いつつ露貴の眼差しが真人に流れる。それを夏樹が体で遮った。そして仄かに笑う。
「自業自得だから。気にしなくていい。大丈夫だよ、露貴」
 密やかな言葉遣いに真人の胸のうちがざわめく。春真は何も感じてはいないだろう。それなのにそばに手招きして、思わず子供を抱きしめる。
「真人さん。どうしたの」
「え。なにが。なんでもないよ。手を洗っておいで、お茶にするよ」
 自分で自分の仕種に気づきもしていなかった真人は腕の中に抱いた春真に驚く。内心でだけ、苦笑する。
 まるで、子供だけが頼りの本妻ではないか、この自分は。妻よりの長い付き合いの愛人と夫を取り合う構図かと思っただけで笑えてくる。
「真人」
「ううん、ちょっとあんまりひどくって言えない」
「……怖いこと考えてたな、真人君」
「そうですって言ったら、どうするんです、露貴さん」
 にこりと笑って眼差しを交し合った二人に夏樹が執筆疲れでこけた頬をかく。
「二人ともな」
「仲いいよな、真人君」
「大の仲よしですよね、露貴さん」
「……どこがだよ」
 冗談の種にできるくらいは遠い話で、本気が透ける程度には真剣な話だった。それでも夏樹の前で醜い争いをしたいとは二人して思っていなかった。そもそもいまの露貴には内縁の妻がいる。夏樹はいっそきちんと籍を入れろ、祝福のしようがないと四六時中言っているが、喜んでいることは事実。だから夏樹は心では知っていても、認めない。口に出しては決してまだ露貴が自分を思っているなど認めない。だから夏樹にとって、それは二人の冗談にしてしまわねばならないことだった。
「手、洗ってきたよ」
 駆け込んできた春真は、そんな大人三人の微妙な空気など感じ取らなかっただろう。あるいはそれは真人がそうであれかしと願うのかもしれない。
「あぁ、ごめん。いまするよ、ちょっと待ってて」
 いまだ庭先で話していた露貴を座敷に招き入れ、真人は茶菓の支度をする。特に用事はないのだろう露貴があれこれと近況を話したり聞いたりしている。春真がちょこんと露貴の隣にいるのがなんとも可愛かった。
「ちょうど頂き物のいいのがあったんですよ」
 熱い紅茶と共に編集者からもらったクッキーを出せば露貴が嬉しそうな顔をする。
「ここの家は本当にいつきても菓子があるな」
 ちょいと摘んで口に放り込む。行儀は悪いし子供に真似をされたくないのだが、露貴がすると妙に気品があって止めにくい。
「編集者が色々持たせてくれるからな」
「持ってくるから、じゃないところがお前らしいよ」
「わかってるなら言うな」
 原稿の合間の気分転換になっているのだろう、夏樹が楽しそうに話をしていた。真人としては言うことはない。かえってありがたいくらいだった。
「そうだ、真人さん。こないだのあれ。露貴おじさんに聞いたら」
「ん、なんの話」
「ほら、この前言ってたじゃん。好きな人に裏切られたら、その人に向かって罰が当たって死んじゃえって思うか、じゃなかったら罰が当たるなんてとんでもないけどって思うのか、さ」
 確かにそんな話をしていた。言い逃れのしようがないくらいしていた。それは真人の百人一首の解説の原稿が行き詰まっていて、夏樹の助言を仰ぎたかったからだ、など春真に言ってもまだわからない。
 問題はその話があった事実、ではなく、いまここで、露貴の前でこの話題を春真が出したこと、だ。まさか子供相手に話題を咎めるわけにもいかない。そもそも咎めるべき理由がない。
「中々興味深い話をしてるなぁ、真人君」
「いや、その。それは……僕の仕事の話だったんです」
「仕事。あぁ、あれか。百人一首」
「はい、それです。ちょっと困ってて。だから……」
「ねぇ、真人さん。僕、何か変なこといったかな」
 きょとんと、実に困った顔をしてくる子供の無邪気。真人ならば無条件で信じるだろう。現にお前は悪くない、と言っている。
 だが夏樹は信じられない。わかっていてやっているのではないかと疑いたくなってくる。よもや自分と露貴の真の関係までは知らないだろうけれど、自分たちの三角関係もどきには気づいているのではないかとまで思う。
「まったく。さすがお前の血縁だよ」
 溜息まじりに露貴に言えば、にやりと笑われた。
「血で言えばお前のほうが近いだろうが」
「そうか」
「そうだよ」
 祖父と孫。伯父と甥。どちらがより近いのだろうか。わずかに首をひねった真人は、そんな場合ではないのではないかと思う。
「どっちに近くても、僕はハルにはもう少し純情でいて欲しいです」
「無理じゃないか、夏樹の甥だぞ」
「無茶言うな、露貴の――血縁だぞ」
 すぐさま笑って見せた露貴に比べ、夏樹の言葉は一瞬のためらいがあった。春真がどうか気づいていませんように、と祈りつつ子供を見やれば話の内容など忘れた顔をしてクッキーを頬張っていた。
「あんまり食べるとおなか壊すから」
「平気だもん」
「晩御飯、食べられなくなっちゃうんだから。今日はハルの大好きなハンバーグなのになぁ」
「え、ほんと。じゃやめる。もう食べない。ハンバーグだもんね」
 きゃっと飛びのいて笑って見せた春真の口許についたクッキーの粉を真人は指で払い、まだ持っている分を弾く。
「食べかけなのは食べちゃうんだよ、お行儀が悪いからね」
 言われて照れ笑いをした春真を露貴がなんとも言いがたい顔をして見ていた。顔の造作はまったく違うのに、血が近い分夏樹とよく似た表情をする。
 それを夏樹も見ていた。そして思わず春真と露貴を見比べてしまう。ふと気づいた。春真はもうそれほど子供ではないと。少なくとも幼児ではないと。
「春真」
 齧りかけのクッキーを口にしたまま伯父に向かって首をかしげる春真を真人が叱っている。そんなに怒るなと露貴が笑っている。その中にいる春真を改めて夏樹は見つめる。
「露貴おじさんはな――」
 小さく露貴が息を飲む。真人はまさかと目を見開く。彼らに向かって安堵するようにと目顔で告げて夏樹は春真を見た。
「お前ももう小さな子供じゃないからな、ちゃんと知っとくべきだろう。露貴おじさんは、お前の――祖母の弟だ」
 春真に言うのだ。だから本当は「お前のおばあちゃん」そう言うつもりだったのだ、夏樹は。それなのに、その一語がどうしても、出てこなかった。自分の母とは断じて思えないせいだろう。
「え、そうなの。じゃあ……」
「露貴さんはお前から見たら大叔父様だね」
「なんだ、真人さん、知ってたの。ずるいや、知らないの僕だけじゃん」
「だってハルが小さかったんだから仕方ないでしょ。ちっちゃなハルに大叔父様って言ってわかったのかな」
「なにを子供みたいに」
 露貴が二人を諌めて、それでも笑う。正しい血縁を知ったからと言って露貴その人が変るわけではないのに、なぜか春真はどうしていいかわからなくなった。
「ほら、ハル」
「ちょっと、真人さん。やめてよ。子供じゃないんだよ」
「どこが。まだまだ子供だよ、ハル」
 抱き上げてひょいと露貴の膝に座らせた。抗議しつつもちらりと露貴を見上げた春真は驚くべきものを見た。見たように思った。なぜか泣きそうな露貴。見たと思った途端に、見間違いだったかのよう、消えた。
 後年、春真は知る。あれは歓喜をこらえた表情であったのだ、と。




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