真人は原稿用紙の前でうなっていた。わかっていたことではあるけれど、百人一首は思いの外に恋の歌が多い。 「うん……」 ちらりと座敷を見やれば夏樹が猫をからかって遊んでいた。恋、と言われて思い浮かぶのはただ一人、ではあるのだけれど、この長閑な情景を見るとどうにもときめきだのなんだのを思い出すのが難しくなってくる。 「贅沢になったねぇ、僕も」 そう思うだけで日常のありがたさが身にしみる、というものだが、身にしみても原稿は真っ白なままだ。 「さて、困った」 再びうなりはじめたとき、軽い足音が聞こえてきた。はたと気づいて時計を見やれば春真が学校から帰ってくる時間だ。 「いけない」 まだ今日はおやつの支度をしていない――と思ったところで作り置きがあるのに安堵する。 「ただいま」 真人は迎えに立ち、おやと首をかしげる。いつもならばお腹が空いたと駆け込んでくる春真なのに、今日はなんだか元気がない。 「お帰り、ハル」 「ん……ただいま」 やはり気のせいではないようだ。春真はとぼとぼと家に上がり、学用品を置きに行く。おやつも何も言わない。 「春真」 夏樹もおかしい、と気づいたのだろう。座敷から春真に声をかける。が、手はまだ猫の腹を撫でていた。 「どうした」 「別に」 「……そうか」 幼い子供ではあるまいし、どうかしたのかと問うて素直に答える年ではないだろう、と真人は夏樹を軽く睨む。夏樹はお前に任せたとばかり肩をすくめて猫をじゃらすのに専念しだした。 「もう、夏樹」 呟いておいて真人は台所に立つ。要らないのならば要らない、と言う子だから、出せばおやつは食べるだろう。 「ハル、おやつだよ。昨日のドーナツだけど」 「うん、ありがと。真人さん」 「ん、なに」 「ごめんね、忙しいんでしょ」 昨日のドーナツのまま、真人が何も手を加えていないことを春真は言う。普段ならば昨日が粉砂糖ならば今日はシナモン、と色々味に変化を加える真人だった。 「あのね、ハル」 「おい、春真」 同時に言って親代わり同士、顔を見合わせた。そして譲る、と夏樹が目顔で伝えてまた肩をすくめた。 「な、なに……」 大人のやり取りに春真が小さく怯えたような目をする。思わずだった。小さな子供ではないと思ったそばから真人は春真を腕に抱く。 「あのね、ハル。僕はハルの親代わりだと思ってるよ。ハルは僕が育ててるんだ、伯父様が頼りにならないからね。それなのにハルはそんな他人行儀なことを言うのかな」 「違うよっ」 「僕にはそう聞こえたけどなぁ」 「だって、でも。だって……」 「気を使ってくれるのは嬉しいよ。親しき仲にも礼儀ありって言うしね。でも、親が子供のために色々するのは当たり前」 「親に甘えるのが当たり前、じゃないと思う。――だめかな」 「正解だ、春真」 もっともだ、と夏樹が深くうなずいた。不意に伯父に同意されてかえって春真は驚いたのだろう、首をひねっている。真人は腕を離してぽん、とその頭を撫でた。 「春真。お前が真人に甘えっぱなしになりたくない心意気は買う」 「……うん」 褒められているのか春真はわからないのだろう。まじまじと伯父を見ている。もちろん夏樹は褒めてなどいなかった。 「でも、甘えたかったな、お前」 「伯父さんっ。それは――その……」 「だったら春真、気を惹くような言葉は使うな。真人はお前の親代わり。そんなことをしなくとも話くらいはいくらでも聞いてくれるさ」 「でも、忙しいのはほんとでしょ」 少しばかりひどい言い草に、少しばかり拗ねた態度で春真は応じた。真人は内心でそっと笑う。夏樹は春真を可愛がっている、それを春真も知っているからこその言葉だった。 「それは真人に聞いてみたらどうなんだ、うん」 からかうよう言われ、春真は恐る恐る真人を見上げる。今度こそ真人は大きく笑った。 「可愛いハルから話を聞いてって言われたらなにを置いても聞いてあげるよ」 「でも、どうでもいい話でも、なの」 「ハルの話にどうでもいいことなんか何もないよ」 もしもこれを夏樹が言ったのならば春真はそっぽを向いたことだろう。だが言ったのは真人。ゆっくりとうなずいた。 「――ハルのことなんだ」 春真がハル、と呼ぶ。つまりそれは双子の兄、春樹のこと。学校で何かあったのか、と真人は案じる。離れて暮らす弟をこれでもかとばかりに可愛がっている春樹だからおかしなことはしていないはずではある。だが、春真が子供ならば春樹も子供。多少の行き違いがあってもそれこそおかしくない。 「うん、春樹君がどうしたの。喧嘩でもしたのかな」 「――真人さん、ハルのことはハルって呼ばないよね」 「だって僕がハルって呼ぶのは春真だもの」 からりと言う真人の言葉に春真は顔がほころぶのを感じた。大人になったときには巧く言えるのかもしれない。が、いま春真が感じたのはただ安堵だった。 「ん、それでね、ハルがね」 もじもじと指を絡み合わせた春真を見ればどうにも言いにくいことらしい。夏樹は猫の頭を撫でながら真人を窺う。そんな夏樹を真人は眼差しで黙らせた。 「今日ね、好きな人がいるって」 ぽつりと、さも重大事件のように言う春真に真人は驚く。春真に、ではなくそんな年になった春樹に、だ。 「へぇ、そうなんだ。ハルはいるの」 なんでもないことのように尋ねつつ、夏樹を睨む。もぞもぞと何か言いたそうにしていた。幸い目を伏せていた春真は気づかない。 「そう、それなの」 「え――」 「僕、そういうのって思ったことない。それって変なの」 幼い必死を面に春真は言い募る。真人は嬉しくてならなかった。自分と他人が違うと思うことは成長の証だ。 「……どうして変って思うの、ハル」 おかげで少し返答が遅れてしまった。それを春真が不安に思ったらしいのが申し訳なくなる。 「だって、ハルは僕と双子だし。それなのに僕は違うって、そういうの思ったことないって――」 「ねぇ、ハル。ハルは春樹君じゃないでしょ」 「双子だからと言って同じ人間じゃあるまいし、同じことを感じなきゃならん筋合いでもない」 子供相手に小難しく言う夏樹だったが、さすが夏樹の甥。こんな言葉でもある程度は理解したようだった。どことなくそれが悔しくて真人はそんな自分を小さく笑う。 「それは、そうかもしれないけど。……ねぇ、真人さん。好きな人っているの」 夏樹は疑う。よもやこれが本題であったのかと。まさか真人の口から自分たちの関係を言わせようとしているのかとまで疑った。 「いるよ。なんでかな」 真人は何も疑わずさらりと流す。内心で冷や汗を流していることなど窺わせずに。 「そのさ、好きな人を好きになったとき、どんな感じだったの」 「うーん、困ったな」 「言いたくないの」 だったらごめん、と言い出しそうで真人は慌てる。違うと手を振りつつ、できるだけ夏樹を見ないようにしていた。 「なんだかちょっと照れちゃうなって」 「ん、ごめん」 「好きな人を好きになったとき、ねぇ。僕よりも伯父様に聞いてみたらどう」 「えー。伯父さん。それで、伯父さんはどうだったの」 「なんだその投げやりな口調は」 からからと夏樹が笑っていた。あまり大きく笑う人ではないから真人は嬉しく思う。が、春真は驚いたらしい。 「別に投げやりってわけじゃないけど。伯父さんにわかるのかなって。だいたい好きな人、いるの」 「いたら悪いか」 「だったら、その人のこといつから好きだったの」 「……お前ね」 わかっていてやっていないか、と目で尋ねれば、だったらなんだと目が語る。心から真人が気づいていないことを祈り、幸いにして聞きとげられたらしい。 「あぁ、それは僕も興味があるなぁ」 「でしょう、真人さん」 「ねぇ」 真人とすっかり手を組んだ甥を睨みつければきっと真人が睨み返してくるだろう。夏樹は溜息をついて猫の背中を乱暴に撫でる。逃げられた。 「いつから、とわかるものでもないだろう。そんなものは」 「へぇ、そうなの。伯父さん」 「お前ね。――まぁ、思い返せばはじめから惚れてたかもな、と言うところだが」 「ふうん、そう」 「聞きたいと言ったのはお前だぞ」 「ありがとう、伯父さん。とっても参考になったよ」 どこがなんの参考になったのだ、と夏樹は喉まででかかった。が、とりあえず双子の兄弟と違うと言って悩む気分は吹き飛んだらしい。そのことだけ、安心することにした。 「俺は真人の答えも聞きたいけどな。なぁ、春真」 「えー、別に。もう伯父さんの答え聞いたし」 「よかった、僕はほっとしたよ。照れくさいからね」 「あ、やっぱ聞きたいな」 夏樹はこの瞬間に確信した。春真が自分たちの関係を知っているのは知っている。多少は疑ってはいた。けれど本人が自覚しないままに春真の初恋は真人なのだと。心から春真の将来が不安になる。 「まぁ、本人が幸せならいいけどな」 呟いた夏樹の声は騒ぎに紛れて聞こえない。真人を白状させようと春真がわいわいと囃し立てていた。 |