夕食の前、春真が机に向かっていた。前のめりになって書き物をするのは背中によくない、と言っているのに中々直らないでいる。その春真がふ、と顔を上げた。
「ねぇ、真人さん」
 今日の宿題は作文らしい。あまり得意ではない春真は息抜きをしたくなったのかもしれないな、と真人は内心で微笑む。
「ん、なに」
 作文を覗き込もうとしたら、慌てた春真が両手で隠してしまった。わかっていてした意地悪だから真人は笑ってしまう。それに春真がぷ、と頬を膨らませた。
「もう、やめてよ」
「ごめん。意地悪だったね」
「そうだよ、ひどいよ」
「ごめんね。それで、なに」
 そろそろ夕食の仕度に立たなければならないのだが、真人は春真を優先する。少し遅くなるかもよ、と目顔で座敷の定位置にいる夏樹に伝えた。
「真人さんってさ、大きくなったら何になりたかったの」
 わずかばかり息を飲んでしまった。春真に伝わっていませんように、と真人は祈る。それからゆっくりと笑顔を作って春真に見せた。
「そうだね……。歌人になりたかったよ」
「じゃあ……、あれ」
「どうかしたの、ハル」
 真人の言葉の含みに春真は気づいたのだろう。しまった、と思ったけれどもう遅い。向こうで夏樹が険しい顔をしていた。
「僕がまだ子供だったころに、戦争があったからね」
 あのころは、どうだっただろうか。自分を子供だと思っていただろうか。真人は思う。思っていなかったように、覚えている。
 自分は立派な日本国民で、戦争にいって戦うのだ、と思っていた気がする。真人は陸軍幼年学校にいた。ごく当たり前の一般庶民よりも情報は入ってくる。戦争が正しいとか、勝っているとか、そんなことは当時も思っていなかったように思う。それでも、事の善悪はおいて、戦うのだと、大人だと思っていた、そんな気がした。
「そっか……」
 春真はもう戦争を知らない。一面の焼け野原も知らない。下手なことを言おう物ならば非国民と罵られることも、特高が飛んでくることも知らない。
 知らなくて幸いだ、と真人は心から思う。今度二度と再びあのようなことが起こりませんように。春真が健やかに育っていく世界は、どうぞ平和であって欲しい。
「だからね、子供のころから、歌人になりたかったんだ。僕は。でもね」
 真人は思い出す。幼年学校に入れと言った、いまは亡き父の顔。空襲で死んでしまった、と聞く。遺体の確認も真人はしていない。人伝に、死んでしまったと聞いただけ。
 在りし日の父が言った。自分は警官でお国のために外地に行くことはできないのだから、息子のお前が立派に戦えと。
 父には父で信念があったのかもしれない。あるいはそう言うしかなかったのかもしれない。それこそおかしな言動をすれば特高がくる。
 今になって思う。春真と言う子供を育てているいまだからこそ、思う。もしかしたら父には別の思いがあったのではないかと。当時、決して口にできない「生きて帰れ」と言う言葉。父は何度も飲み込んだのかもしれない。
「僕はね、戦争で、一度は諦めた」
「う、ん……」
「和歌なんか詠んでるとね、先輩とか上官とかがね、貴様、軟弱なって殴ってくるんだよ」
「え、そんなの、ひどいよ」
「ひどいよねぇ。でも、僕はやっぱり軟弱だったのかな。殴られるの、いやだからね。やめちゃった」
「真人さんは悪くない。殴ってくるほうが絶対悪い」
 真人は目を瞬く。知らず、涙が浮かびそうになった。あの日の自分に、この言葉を聞かせてやりたい。不意に強くそう思う。そして、否定する。
 今でいい。いまこの言葉を聞いた。夏樹ではない。愛する人ではない、無邪気な子供が放った言葉。なんのてらいもないまっすぐな言葉が真人の胸を射抜いた。
「うん……。ありがとう、ハル」
「え、あ。うん。そ、それにさ」
 急に自分の言ったことに照れてしまったのだろう、春真が頬を赤らめてうつむく。ちらりとそれを見て夏樹が片頬に笑みを浮かべた。
「真人さんはさ」
 懸命に言葉を繋ごうとするこの幼い者。真人は生きていてよかった、と思う。ずっと長い間生き残ってしまったと思っていた。
 死んだ友。死んだ上官。彼らに逝き遅れて、生き残ってしまった自分。後悔と言うよりは羞恥だと思う。
 それでも今、生きていてよかったと思う。死んでいった人たちが、この幼い命を守ってくれた。そんな気がした。ならば生き残った自分は彼らに報いるためにも、生きてこの命を守り続けなければならない。そう思えることが、いまは何よりありがたかった。
「一度は、やめちゃってもさ。でも、もう一度はじめたんでしょ」
「そう、そうだね。うん、そうだ」
「だったら、やっぱりすごいよ。まだ和歌ってよくわかんないけど、大きくなったら絶対読むから」
 きらきらとした幼い者の目。覗き込めば白目など薄青いほど。
「――ハルの目は伯父様によく似てるね」
 そっと春真の頬を撫で、真人は笑みを浮かべる。自分の詠んだ歌を読むのを楽しみにしている。そう言ってくれた春真の心が嬉しくてたまらなかった。
「え、そうかな」
「僕は冬樹君の目をまじまじと見たことがないからねぇ。お父様に似てるかはちょっとわからないな。でも伯父様はそこにいるからね」
 軽い失言をなんとかつくろって真人は眼差しで夏樹を指す。春真は気づかなかったようでそうかな、と首をひねっていた。
「そうか」
 けれど口を開いたのは夏樹。春真と似ている、とは思っていなかったのだろう。
「うん、似てる」
 言えば伯父も甥もが少しばかり嫌な顔をしてみせる。そうやって二人して真人をからかっているのだ、と気づいたのはいつだっただろうか。
「月光が射す夜の海の色だ」
 時折、蒼く見える夏樹の目。よほど側近くで見なければ気づくことはないだろう。春真はその夏樹と同じ目をしていた。
「なんか格好いいね、それって」
 わずかに弾んだ声で春真が言った。夏樹はほんの少し目をみはる。そんな風に思ったことも言われたこともなかったのだろう。
「そうだ、真人さん。もう一度和歌をはじめたきっかけってなんだったの」
「え――きっかけ」
「うん。なんかあったのかなって思って」
 なかったんならそれでいいんだ。春真は子供らしくなく言い添える。だからだ、たぶん。真人が言う気になったのは。
「僕はね、色々あって、戦争が一番、かな。でもほんとね、色々あったよ、あのころは、みんなそうだったんだろうけどね」
 思い返す表情に、苦痛の色は薄かった。もしもつらそうな顔をしたのならすぐさま止める、と思っていた夏樹は黙って真人を見つめていた。
「ほんと、生きてるのも嫌になっちゃうくらい」
「いまは」
 すぐさま春真が問うた。一瞬もためらうことなく真人も答えた。
「生きていたいよ、ハルもいるし、伯父様は手がかかるしね」
 笑って真人は言う。密やかに聞いていた夏樹は肩の力をそっと抜く。伯父さんかぁ、と笑う春真の声が夏樹の横を通り抜けていった。
「ねぇ、ハル。伯父様のこと、好き」
「え。それは……うーん。嫌いじゃないけど、けっこうだめな大人かなって、思う」
「ハルったら。ひどい言い草だね」
 からりと笑って真人は夏樹を見やった。言われた当人は春真の言葉に逆らえないのか逆らう気がないのか、ひょいと肩をすくめて見せた。
「ハルはそういうけどね、伯父様はすごい人なんだよ」
「どこがぁ」
「だって僕にもう一度歌を詠ませたの、伯父様なんだよ」
「え、そうなの」
 いままでの舐めた目が途端に尊敬の眼差しに変わった。夏樹は苦笑してそっぽを向く。真人に言われると反論したくなるが、我ながら自分に似た甥だ、と思わなくもない。
「伯父様がいてくれた。死にかけの僕を拾って、養って、住むところも着るものも食べるものもくれた。その上僕にもう一度歌を返してくれた」
 真人は明後日を向いてしまった夏樹の背中に向けて言う。夏樹はわかっていてくれている。それでも時々言いたくなってしまう。
「ハルの伯父様はね、僕の命の恩人で、魂の恩人なんだよ」
 あなたがいたから、僕は生きていかれる。あなたがあのとき拾ってくれたから、いまもこうして生きている。身体の生命活動だけではない、この心を救ってくれた。
「えー、伯父さんがぁ。嘘だぁ」
 あからさまに疑って見せる春真の嘘を真人は感じる。春真は信じた。真人の言葉を信じた。子供ながらに言葉の真摯さに照れたのだろう。気恥ずかしさを誤魔化す言葉だった。
「いけないね、ハル。人の言葉をすぐに嘘って言うのはよくないよ」
「あ、ごめんなさい」
「そうだぞ、真人の言葉は疑うなよ」
「じゃあ、伯父さんのは疑えってことなの」
「そうは言ってないが……油断はするなよ」
 振り返った夏樹がにやりと笑った。仕方のない人だとばかり今度は真人が肩をすくめる。そんな二人を見て春真が笑った。
「さ、宿題の続きしちゃいな。もうすぐ晩御飯にするよ」
 間延びした春真の返事を真人は言葉でたしなめ、それでも聞かない春真の頭に夏樹が拳固を落とす。ぴたりと黙って宿題に専念しだした春真を真人は小さく笑った。
 夕食後、今日はまだだったからと言って春真は風呂に入っていた。その間に作文を見て欲しいのだろう、夏樹の前においていく。正に見るだけ、で誤字を直せくらいしか言わない伯父でもやはり見ては欲しいのだろう。以前は周囲の目をはばかって見せることすら嫌っていたのだからたいした進歩、あるいは成長だった。
 一読し終わった夏樹が口許に笑みを浮かべていた。真人がなにを聞くより先に、ついと作文を滑らせて寄越す。
 真人もまた、微笑んでいた。作文の主題は「将来の夢」だった。春真はこう書いていた。学校の先生になりたい、と。




モドル