未練たらたらで真人が出かけたのは午前中のことだった。
 普段受けているのとは別の仕事で、どうしても数日家を空けなければならない、と言う。安請け合いした、と後悔したものの、受けてしまった仕事は仕事。
「ん……行ってくるけど……」
「大丈夫だって、真人さん。伯父さんのことは僕がちゃんとするから」
「ちゃんとするのは俺であってお前ではない気がするが」
「えー、嘘。伯父さんにちゃんとできるはずないじゃん。だから心配なんだよね、真人さん」
「お前ね」
 伯父と甥の言い合いに真人は小さく微笑を浮かべる。無理をした微笑だ、と夏樹は気づくけれどさすがに春真はまだ気づかなかった。
「春真も手ずから食事を口に運んでやらねばならんほど幼い、と言うわけじゃない」
 だから心配するな、と言いかけて夏樹は口をつぐむ。それに真人が不安そうな顔をした。夏樹は春真を見やり、にやりと笑う。
「まぁ、まだまだくちばしの黄色い小僧だがな」
「伯父さん。ひどくない、それって」
「どこかだ。この程度で拗ねるようだから、言っている。子供だな」
「当たり前じゃん。僕、幾つだと思ってるの。まだ子供だって。――あ、でも自分のことも伯父さんのこともできるから。だから心配しないで、真人さん」
 慌てて言い添えれば真人がほんのりと笑った気がした。普段はぽんぽんと伯父をやり込める真人なのに、こんなときにはどうしてだろう、とても果敢なく見える。なぜかそう思って春真は動揺した。
「じゃあ、行ってくるから――」
「心配しないで。気をつけてね、真人さん」
 まだなにか言いたそうにしているのを春真が遮る。このままでは彼が出かけられなくなる、と思ったのかもしれない。
 甥の成長を真人のように体中で喜ぶような男ではなかった、夏樹は。けれどこんな春真を見ると心の中が仄かに温まる。
「気をつけてな」
 真人に言えば、やっと彼はうなずいて背を返した。その背中こそをずっと追いかけてしまいそうで夏樹は強いて眼差しをはずす。
「……行っちゃった」
 ぽつり、春真が言った。なんのかんのと言ってもまだ子供だ、と夏樹は笑いたくなった。実の親のように慕っている真人がいないと不安なのかもしれない。
「なに、伯父さん」
「いいや。お前こそどうした」
「なんか言いたそうだったから」
「……別に」
「……ふうん。そっか。お茶、淹れるよ」
「殊勝だな」
 家の中に戻っていく甥の背中に夏樹は言う。改めて見るとずいぶん背が伸びた気がする。真人はよく春真は夏樹に似ている、と言うが実の親の冬樹に似たとしても春真は背が高くなるだろう。そんなことを思って夏樹は少しだけ戸惑った。
「――だって」
 春真が背中を向けたまま、何かを言いかけた。そっと近づけば、頼りない背中。いま伸びた、と思ったばかりの背丈すら縮んだ気がした。
「なんかさ、この。伯父貴と二人っきりって、ちょっとね」
 うつむいたまま言うから、嫌がっているのではないことはわかる。ここで笑ってしまっては春真の小さな心を傷つけることになる。だから夏樹は笑わなかった。代わりに肩に手を置く。
「変だよね。急に、親戚のうちに遊びに来た気分」
「……わからんでもないな」
「伯父貴もなの」
「――口にすべきことではないが」
 一応の断りは入れておく。伯父と甥が二人きりのとき、こんな会話をするのだと真人が知れば卒倒するだろう。あるいは笑って見逃してくれるかもしれない。そう思ったけれど、すぐさま夏樹は内心で首を振った。ありえない。春真のことに関しては神経質なほど気配りを欠かさない真人のことだ。知れば二度とではないにしろ、相当長い間口をきいてもらえなくなるだろう。
 そんな伯父の心のうちを見透かしたよう心得た、とばかり春真がうなずいた。
「真人がいないと、まるで知らない家だな、ここは」
 長い間住んできた家。真人と出会うより先に住んでいた家。それでもなお、いまだにこうも思ってしまう。
「今夜はどこかに外食に行くか」
 長い溜息の末、夏樹は言った。ちらりと春真がそれを笑う。
「珍しいね」
「なにがだ」
「伯父貴が外食したいなんて」
「……真人のいない家にいるのは、気がつまる」
「うん、わかる」
 本当に、わかっているのかこの甥は。わかってもらいたくはない。わかられては困る。それ以上に、不快だ。たかがこんな子供に、自分の血の繋がった甥である小さな子供に。
 夏樹は隣にいる子供を横目で見やった。そっと息を吸う。吐く。そして理解した。
 わかられたくない。自分の隣に真人がいない言う事実と現象をこんな子供に理解されたくない。
「いい年をした大人がと、お前は言うだろうな」
 呟きに春真が首をかしげた。なんでもない、と首を振り返せば今度こそ茶を淹れに行った。
 嫉妬だと、夏樹は知った。もしもこれが他の真っ当な人間であったのならば、こんなことは思いもしないのだろうと夏樹は思う。
 相手は春真だ。そもそも子供だ。年齢の問題を置くとしても、春真は血の繋がった甥だ。それすら置くとしても、春真は同じ男だ。
「まったく、因果な」
 いつもの定位置について夏樹は溜息まじりに顔を覆う。春真が同性だという点については言い訳のしようがないくらい、どうにもならない。それを言うならば、真人と自分たちの関係はどうなる。
 おまけに甥だということについても夏樹にとっては心の痛い前例がある。
「はい、ここに置くよ。……伯父貴、どうしたの。やっぱり変だ。熱でもあるの。具合」
「悪くない。妙なところで真人の影響を受けるな」
「だって」
「……そんなにおかしな顔をしていたか」
「してた。だから聞いたの」
「まぁ……。なんというかな。いささか、考え事をしていた。主に、己を含めた周囲の環境とその道徳心と言うものに関して」
「……やっぱ、熱ない」
「大人になればわかるさ、お前も」
 春真が入れてくれた茶は、真人が淹れてくれるそれよりずっと熱くて閉口した。

 目覚めても一人。隣に真人がいない。春真が学校に行ってしまえば昼間は文句なしに一人。原稿用紙の前に向かっても一人。昼食をとる気にならなくても、一人。真人が怒ると思っても、一人。
「……食うか」
 とりあえず、飯だけは炊いてある。常備菜の類は出かける前に真人が作り置いていった。
「つくづくまめな男だよ、お前は」
 食の細い夏樹のため、幾種類もの細々としたおかず。昆布を佃煮風にしたものだけでも、胡麻を混ぜたもの、椎茸とともに煮たもの、紫蘇の実が入ったもの、と三種類もある。
「まるで」
 長い間帰ってこないみたいじゃないか。言いかけて、夏樹は思いとどまる。口にすれば、帰ってこないような、そんな気がしてしまった。
「読まれてるな、これは」
 たぶんきっと、この大量の昆布は夏樹がろくに食べないだろうことを見越したものだ。間違いなく真人は春真に言い置いて行っただろう、飯だけはなにがあっても炊け、と。白いご飯さえあれば、作っていった常備菜がある。それで夏樹は茶でもかけて食べるだろう。
「まったく」
 見通されているのが不快などではない。むしろ快かった。だから心置きなく茶漬けを食った。
 普段はこんなものは口にしない。真人が作ってくれる食事は申し分なく美味だ。わざわざこんな他愛もないもので腹を満たす必要はない。
「だから、か」
 いつもと同じようで、そして違うもの。自分がいないときにしか、食べないようなもの。わざわざ真人はそれを選んで作って行ったのかもしれない。
「馬鹿だな」
 春真のことももちろん心配だっただろう。小さな子供を家に残していくのだ。が、真人は決して死んでも口にしないだろう。それでも夏樹にはいま、わかる。
 真人がより懸念していたのは自分のこと。夏樹一人で置いていく不安。
「いや」
 そうではない。夏樹はいつの間にか原稿用紙に向かっていた。考えていることと、筆を進める手が一致しない。面白いように、違うことを書いていた。それでいて、同じことを。
 一人になること。離れてしまうこと。一瞬一瞬を共にできなくなる子供じみた他愛ない不安。笑い飛ばしたいような、心の奥底に抱いて墓まで持って行きたいような、この気持ち。
 春真が帰ってきたのにも気づかなかった。きっと春真は不愉快に感じただろう、と後になって思った。真人がいなくとも、ごく当たり前に仕事をしている自分を見て。そうではない、と知っているのは夏樹一人。
 いないからこそ、打ち込めている部分がある。夏樹はそれを理解していた。
 明けた朝。また一人。夏樹はぼんやりと天井を見やる。春真が出かけて行った音が聞こえていた。遠い「行ってきます」の声。
 悪いことをしてしまったな、と遠くの場所で夏樹は思う。朝食は食べていったのだろうか。春真のことだ、自分が起きなくともきちんとして行ったに違いない。
「二日――」
 たった二日。隣に真人がいない。いままでもなかったわけではない。真人が出かける。あるいは夏樹が取材に行く。
「いままでも」
 何度もあった。それなのになぜ。夏樹は冷たいと知っている隣に手を伸ばす。息を吸った。
「夢――」
 気づいた。いままで離れている間、夢すら見ないなどと言うことはなかったと。夏樹は小さく首を振って起き上がる。
「迎えに、行ってしまおうか」
 思った途端、首を振る。帰ってくる。必ず帰ってくる。だから、待っている。ぎゅっと拳を握り締め、夏樹はその日も原稿に打ち込んだ。




モドル