夏樹が熱を出していた。いつものことといえば、いつものことではある。が、毎度真人が心配するのもまた、いつものことだった。
「少し、下がったかな」
 ほっとしたような声で真人が夏樹の額から手を外す。まだまだ充分すぎるほどに熱かったけれど、昨日よりはずっといい。
「……すまん」
 熱に掠れて力ない声。真人は聞きたくなくて黙って首を振る。
「少しなら食べられるかな。おじや、作ってくるよ」
 微笑んで台所へと立ったけれど、自分でその顔が強張っているのがわかっていた。彼の好きな味噌仕立てのおじやを作りつつ、真人は己の頬をこする。
「ほんと……だめだな……」
 もっと力づけられるようにならなければ。自分が青い顔をしていては、かえって夏樹が心配するじゃないか。
 いろいろと、考えはする。考えるだけならば、何度でもする。実行が、できない。もう何年も何年の夏樹を見続けていると言うのに。
 元々あまり丈夫な人とは言いがたい。頑健とは程遠い体。それでも今日この日までちゃんと生きている。
「いやだ」
 そんなことを考えてしまう自分が、いやだ。いやでいやでたまらないのに、不安で不安で仕方ない。
「真人さん」
 はっとして振り返る。春真が学校から帰ってきたのにも気づかなかった。
「ごめん。お帰り」
「ううん。ただいま。――伯父さん、どう」
「うん……」
 真人のためらいがちな言葉に春真は内容を察したのだろう、まるで大人のように肩をすくめて見せた。そんなませた仕種は叱らねばならないはずなのに、真人はいま、何も言えないでいた。
「伯父さん、変だよね」
 真人の様子をどう思うのか、春真はからりと笑って見せた。それが意外で、と言うよりは少しばかりは不快だったのかもしれない。夏樹があんなにも苦しんでいるのに、なぜ春真は笑うのか。
「……どこが」
「だってさ、どうしてなわけさ。真人さんが帰ってきて熱出すって、よくわかんないよ、僕は」
 数日、真人が仕事で留守をしていた。その間、夏樹は春真と二人きり。真人としては子供の相手が苦手な夏樹のことだから気疲れもしたのだろう、と思う。が、さすがに当の子供相手に言えるわけがない。
「真人さんが帰ってきてほっとしたって言うのはさ、わかるかなって思う」
「そう、なの」
「うん。だって僕だって伯父さんと二人っきりって疲れるもん」
 無邪気に何の衒いもなく春真は言った。思わず疲れた真人が笑みを浮かべてしまうほどに。
「だからさ、わからなくはないかなって気もするんだけど。でもさー」
 言葉を切ってちらりと春真は夏樹の寝間を見やる。襖に隔てられて見えない伯父の寝姿を想像したのかもしれない。
「おかしいじゃん。伯父さん、何にもしてないよ。ご飯の支度だって洗濯だって掃除だって僕がしたんだもん」
「……それはまぁ、そうだろうけどね。でも、その言い方は、うん。ちょっと」
 歯切れの悪い真人の言葉に春真が大きく笑った。真人だとて夏樹に家事ができるとはこれっぽっちも思っていない。元々は一人暮らしだったはずなのだ、彼が若かったころは。そのときはいったいどうしていたのか、と思うにつけ瞼に浮かぶのはある男の影。真人はあえて見ないふりをした。
「あ、伯父さん、いっこだけしてくれた」
 飛び跳ねんばかりの楽しそうな声に真人は現実に帰ってくる。思わずまじまじと春真を見てしまった。わかっていて、やっている気がした。気のせいだとは思う。が、夏樹と血の繋がった子供。自分が何かに打ち沈んだのに、理由などなくとも気づいた気がしてならなかった。
「ん、なに」
 戸惑いよりも、嬉しかった。春真が、励まそうとしてくれるその気持ちが、嬉しかった。知らず真人の手は春真の頭を撫でている。くすぐったそう、子供が笑った。
「最初の日にさ、ご飯に連れて行ってくれたよ」
「え。外食したの」
「うん。すっごい珍しいよね、伯父さんが一緒に外でご飯食べようなんていうの」
「……次の日、雨降ったんじゃないの」
「僕だったらそうは言わないな」
 にやりと子供が笑う。子供らしくない、どことなく夏樹を思わせる笑み。それでいてもっと明るいものが春真の目にはある。
 時々真人は思う。もしも夏樹が家族に恵まれていたならば。もしも母の愛を知っていたのならば。父に慈しまれ、戦争もなく、当たり前の温かい家庭に育っていたのならば。
 そのとき夏樹は春真のように育って行ったのかもしれないと。
 決して夏樹が捻じ曲がっているとは思わない。ただ、あったかもしれない子供らしい時間を過ごした夏樹、というものを想像してみるだけだ。
 そのたびに少しだけ、胸が痛む。そのような時間を送れなかった夏樹に、ではなくそのような子供であったのならば自分と彼は出逢うことがなかったのだという事実に。
「僕だったらさ」
 また春真が少しだけ大きな声を上げた。はっとして真人は春真を見つめる。なぜか知らず、目が潤んだ。
「僕だったら、槍が降るって言うよ。絶対に」
「槍、降ったりしてね。本当に」
「真人さん、内緒だよ」
 目いっぱい背伸びをして、悪戯っぽく春真が真人に耳打ちをする。
「隣の家の二階から、植木鉢、落ちてきたんだ」
「ほんとに」
「絶対ほんと。僕、驚いちゃったよ」
 きゃっきゃっと子供らしい声を上げて見せる、春真は。だから真人は気づいてしまった。やはりこれは、春真がわざと自分を励まそうとはしゃいで見せているのだと。心の底から温かくなった。
「本当におかしい。慣れないことするからだよ、伯父様も」
「だよね」
「ほんと。さ、できたからね、少しでも食べられるといいんだけどな」
 小さな椀におじやをよそる。ほかほかと温かい湯気を上げるところに鰹節をかけた。
「できたよ――」
 寝間の襖を開けた途端、真人の手から盆が落ちた。春真が驚いたよう大きな声を上げるのも聞こえなかった。
「嘘。どこ――」
 夏樹の姿がなかった。手洗いに立ったのならばわかる。台所にいれば、見える。けれど、そんな姿は見なかった。
「真人さん、どうしたの。大丈夫」
 振り返りざま、春真の肩を真人は掴んでいた。痛いと春真が顔を顰めるのにも気づかずに。
「ハル。夏樹がいない。どこに行ったの。ハル、見なかった。夏樹がいない」
 春真はその言葉に目を丸くする。普段、春真に向かって真人は決して夏樹、とは言わなかった。いつも伯父様、と言っていた。
「真人さん――」
「どこ行ったの。あんな体で、夏樹――」
 悲鳴じみた声。それなのに押し殺されて潰れていた。わなわなと震える手、というものを本の中で読んだことがある。春真ははじめてそれが修辞ではなく本当にあるものなのだと知った。
「真人さん」
「どうしよう、どうしよう。夏樹が――」
「落ち着いて、真人さん。大丈夫だから」
「どこがなのッ」
 春真に向かって真人が声を荒らげていた。これほど取り乱した真人を春真は見た覚えがあまりない。だからこそ、よけいに腰が据わってしまった。
「真人さん」
 掴むようにして彼の手をとる。もしも自分が伯父ならば、そのまま力ずくで座らせてしまえるのだろうけれど、子供の自分にそれはできなかった。
「伯父貴、熱あるんだよね。だったら外に行ってもそんなに遠くじゃない。僕が探してくるから。だから、真人さんはここ、片付けておいて。伯父貴が帰ってきたら、びっくりするよ」
 こぼれて散らばったおじやの残骸と割れた器。はじめて気づいた真人はぼんやりとそれを見やった。
「お願いね、真人さん。ちゃんと、つれて帰ってくるから」
 うなずいた気がした。何も理解していないのかもしれないけれど、とりあえずうなずいたことにして、春真は駆け出していく。
「あの馬鹿伯父貴め」
 口の中で思いっきり伯父を罵りながら。どこにいるのかなど、わからなかった。けれどさほど遠くないだろうことは見当をつけていた。
 事実、本当に近くにいた。家に一番近い古書店に、夏樹はいた。いた、と言うよりも出てくるところに春真は偶然出くわした。
「……伯父貴」
「どうした」
 不思議そうに首をひねっている夏樹の頬が赤かった。代わりに首筋など透き通るように白かった。唇は青いを通り越して紫だ。
「帰るよ。真人さんが心配してる」
 いつもと逆だった。背の高い伯父の手を引いて春真は帰途につく。何も喋らなかった。繋いだ手は熱に汗ばんで、そのくせ指先がひどく冷たかった。
 いつもどおり、庭に周る。玄関からより、縁側から家に入ることのほうがずっと多いから。その庭先で、春真の足が止まった。
「夏樹……」
 たったこれだけの短い時間で、真人は憔悴しきっていた。伯父よりもずっと顔色が悪く見えてしまう。春真は強いて何も見なかったふりをして明るく声を上げる。
「ただいまー。おなか空いちゃった。あ、でも先に風呂入ってこようかな」
 ぱたぱたと足音を立てて家に上がっていく。真人は一言も何も言わなかった。
「夏樹」
 ただひたすらに、夏樹を見ていた。歩くのも、今更つらくなってしまったのだろう傾ぐ体。汗ばんだ額。伸ばした手で抱きとめれば、熱の淀んだ体は熱かった。
「すまん」
「……いまは、責めない」
「すまん。どうしても」
「責めないって言ってるじゃないッ」
 耳許で、真人が悲鳴を上げた。夏樹はゆっくりと目を閉じる。ほっとしたような、申し訳ないような気がした。
「今日届くって言ってたからな。どうしても、お前に早く読ませてやりたくて」
 夏樹が何かを持っているのになど、真人は気づいていなかった。手渡された一冊の古書。真人がいつか読みたいと希求していた古書。
「……こんな風に、渡されたって。僕は、嬉しくない」
 庭先で夏樹の体と古書を抱き、真人は嗚咽をこらえていた。怒ればいいのか、喜べばいいのか、わからなかった。




モドル