日曜日の午前中だった。真人も夏樹も曜日に左右される仕事ではないが、そこはそれ、春真がいる。どことなく休日、の空気が漂う。 「真人さん」 「ん、ありがとう」 庭で洗濯物を干す真人の手に、春真が一枚ずつきれいに伸ばした洗物を手渡す。 「親子、と言うよりは母子だな」 いつもの位置で夏樹は小さく笑う。聞きとがめた真人が振り返ってそっと睨んだ。 「真人さん」 「ん」 「僕、いやじゃないよ」 まるでうつむくのをこらえているような春真。慌てて真人はその頭を撫でていた。 「ハルがいやじゃなくってもね、僕はお母さんって言われて喜べないな」 真人の口調にはかすかに面白がっている風が匂う。それが春真を更に傷つけないための配慮だ、とは夏樹だけが気づく。 驚いたのだろう、春真が急に頭を上げた。跳ね飛ばされた手に真人は苦笑して子供を見つめる。陽の射した春真の目は、夏樹と同じ色をしていた。 「そっか。そうだよね」 「まぁねぇ、普通だったらお母さんがすることをしてるわけだけど」 「真人さんって普通のお母さんよりすごいと思うけどな」 「そうかな」 「だってそうじゃん。女の人のほうが得意でしょ、こういうのって」 首をかしげて言うけれど、春真も中々のものだった。真人が手ずから仕込んでいるのだ、成長の暁に独り暮らしをすることになろうとも、夏樹のよう洗濯物に埋もれ埃だらけの部屋で餓死をする、などと言うことはあるまい、と真人は思う。 「苦手な人もいるんじゃないかな。だから僕は好きでしてるだけなんだよ」 真人の言葉に春真がきょとんとした。縁側から夏樹のくつくつとした笑い声が聞こえる。 「表現が飛躍しすぎだ。子供にわかるか」 「あ、伯父さん。馬鹿にしたでしょ」 「してない。事実だ」 伯父甥が口喧嘩をするのを真人は柔らかな眼差しで見ていた。春真がこの家に来た当初にはとても考えられなかったことだった。夏樹は夏樹で子供が苦手だと公言していたし、春真はそんな伯父に馴染もうとはしなかったのだから。 「本当のところは、どうだったのかな」 続きの洗濯物を干しつつ真人は呟く。今となっては、わからないことだった。当時から、もしかしたら二人して自分をからかっていたのかもしれない、と思うこともある。 真人には血縁、というものが実感できない。母は早くに亡くなったし、父も戦争中に亡くなった。警官だった父は真人に決して優しいとは言えなかったし、そもそもあのころの父親というものはそういうものだった。 それでも時折、大きな手の感触を思い出す。撫でてくれたのか、ただ置いただけだったのか。小さな自分の頭の上にあった父の手。 思い出せることは、もうそれくらいになっていた。もっと色々と話した気もする。幼年学校に行けといったのも父だったのだから。 亡くなった両親を思い出すとき、真人は縁の薄さを考えてしまう。両親も人の縁の薄いほうだったのか、血縁がないに等しい。要するに、戦争中に父が亡くなったとき、真人は天涯孤独になった。 それなのに、と真人は溜息をつきたくなる。あまり寂しいとは思えない。無論、両親のことは懐かしい。だが、懐かしいだけだ。 自分と血の繋がった人が誰一人いない。そんな不安を感じたことが真人はない。もしかしたら自分はとても薄情なのではないかと思うほどに。 だから真人には、夏樹と春真がつかず離れず仲良くしている様が本当のところでは、よくわからない。 「真人」 呼び声に、はっとして振り返る。伯父と甥がそろって同じ表情をして真人を見つめていた。 「どうしたの、二人とも」 「それを言いたいのはこちらだ」 「ほんとだよ。真人さん、どうしたの」 跳ねるような足取りで春真がそばに戻ってくる。なぜか突然、真人は春真を抱きしめたくなった。 「真人さん」 見上げてくる、夏樹とよく似た春真の姿。思わず伸びた手を止めれば、春真のほうから飛び込んできた。 「熱でもあるの。大丈夫なの」 抱きしめた体からは、子供特有の甘い匂い。自分もこんな風に母か、あるいは父に抱いてもらったことがあっただろうか。思った途端、真人は笑った。 「どうしたの、ねぇ」 「大丈夫だよ。僕は伯父様じゃないからね。なんだかね、ちょっと両親のことを思い出してね」 「え、真人さんのお父さんとお母さん」 「うん。もう亡くなったけど」 一度言葉を切り、なにを言っていいかわからない春真の頭を撫でて腕を離した。 「家族の縁が薄いな、と思ったんだけどね」 夏樹に向けて、それだけを言った。彼にはそれでわかる。春真がいる場所で、それ以上のことを言うつもりは毛頭ない。 「いいんじゃないか、それで」 夏樹の答えは短いものだった。それでいて、はっきりと真人の意思が伝わっていた。 血の繋がった家族との縁は薄い。けれど今ここに、自分の家族と言える人がいる。そう言った真人を夏樹は肯定したのだから。 「さ、続き――」 もう残り少なくなった洗濯物を手に取る。そんな温かな時間を邪魔するものが現れた。夏樹の顰め面を見れば、春真も察したのだろう。 「失礼します、篠原先生」 案の定、夏樹の編集者だった。最近、新しい人になったとかでどうにも夏樹はやりにくくてかなわない、とこぼしていた。どうやらその当人らしい。 「近くまで来たものですから、原稿のご様子はどうか、と思いまして」 一礼する姿勢も折り目正しいものなのだけれど、夏樹は渋面を浮かべたままだった。 「庭先ではなんですから、どうぞ」 口を開こうとしない夏樹に代って真人が言えば、こちらまで睨まれて真人は困る。家まできてしまったものは仕方ないだろう、と目顔で言っても、夏樹はそっぽを向くだけだった。 「これは水野先生」 いま気付いたような顔をして編集者が頭を下げる。これはもなにもあったものではない。いま目の前で洗濯物を干していたのは自分だ。真人はもしかしたらこのあたりを夏樹が殊の外嫌っているのかもしれない、と思う。 「ハル、お茶の仕度を頼んでいいかな」 腰にしがみついていた春真に言えば、脱兎のごとく駆けていく。伯父に似ず人嫌いではない春真なのだが、初対面のこの編集者は苦手らしい、と真人は内心で小さく笑った。 ぱたぱたと、手に持っていたぶんだけでも片付けてしまい、真人は春真のあとを追う。居間には編集者と作家が残ったわけだが、話が弾むはずもない。 茶菓を持っていったときにも、夏樹は徹底して無言を貫いていた。が、敵もさるもの。編集者は一人でぽつりぽつりと喋っている。これはこれで立派だ、と真人など感心してしまった。 「お茶、ここにおきますからね」 夏樹に言えば、真人に向かってうなずいて見せた。機嫌は悪いが、当り散らすのは悪いと思ったのかもしれない。 それに真人はほっとして洗濯の続きをしようと庭に出かける。台所から顔を出した春真が一人はいやなのか、ぴょこりとついてきた。 「ところで篠原先生」 返答をしないとすでにわかっているはずなのに、編集者はあえて語りかける。これでは本来の目的である原稿の進み具合など、尋ねられなかったのではないか、と真人は背中で聞いた。 「お家の中などのことは、水野先生がなさるのですか」 そこに真人がいるのに夏樹に尋ねる、と言うことは話の糸口でも欲しいのだろう、と真人は放っておくのだが、少しだけ春真がいやな顔をした。 「いいんだよ、ハル」 小声で言って洗濯物を手に取る。奪うよう、春真にとられた。小さな体で大袈裟な身振りで、春真は洗濯物を伸ばす。どうやら邪魔だから帰れ、と編集者に言いたいらしい。 「篠原先生が女性の仕事をなさる、と言うのは想像がつきませんが」 編集者にしてみれば軽口のつもりだろう。が、徹底的に社交性が欠けていると言わざるを得ない。至極真面目な口調で言われては冗談には聞こえない。 無論、社交性皆無の夏樹であっても、やってできないわけではない。彼の場合、単にやりたくないだけのこと。やらねばならないのならばいくらでも愛想よくなれる男だ。だからだろう、編集者の言葉が癇に障ったらしい。 「いつも楽しそうでいいな」 わざわざ庭の真人に向けてそう言った。八つ当たりだ、春真はそう感じたのだろう。顔を真っ赤にしたけれど、真人に彼の真意はわかっている。 「えぇ、楽しいですよ。僕は好きでしてますからね」 にこやかに笑って言って見せた。編集者のほうも自分の失言を知ったのだろう、もごもごと何かを言っていた。 「あ、いえ。水野先生が女性的だと申し上げたわけではなく」 「そもそも」 はじめて夏樹は編集者を見た。その鋭い目つきに、ようやく不快を覚えていると気づいたらしいのはあまりにも鈍い、と真人は思う。 が、元々が人嫌いで偏屈と評判の篠原忍だ。あるいはこれが常態だ、と思われているのかもしれないと思えば溜息のひとつもつきたくなる。 「家事が女性の仕事、と決まったものでもないでしょう。それとも女性を家庭に縛り付けておきたいと考えていますか」 糾弾されて大慌ての編集者に真人は同情しない。昨今、女性の社会進出も珍しいことではなくなっている。それでもまだまだなのが現状だ。それはこの編集者のよう、家庭のことは女がするものと疑問にも思わない男がいるせいだろう。 「いえ、その。実は編集室内で、水野先生に見合いを、と――」 真人は呆気に取られた。用事は夏樹の原稿ではなかったのか。春真まで真人さん結婚するの、と言いたげな顔をして見上げてくる。 「洗濯掃除に通暁し、料理の腕は板前並み。もっともこちらは個人的な味の嗜好と言うことも考えられるが。こんな男に嫁は来ませんよ」 滔々とまくし立てる篠原忍、と言う珍しいものに遭遇した編集者は言葉がない。真人は洗濯物を手に、小さく溜息をつく。それでも口許が笑っていた。これが自分の家族だなんて、と。 |