夏樹が取材で旅行をする、と言う。珍しいことではないが、旅に出る前後は彼の機嫌が悪くてならない。
 もちろん、旅行中もそれは機嫌が悪いのだ、と真人は聞く。伝聞だが当然だろうと思っていた。人伝なのは、真人が同道しないせいだ。
「ハル、伯父様にご挨拶は」
「んー。行ってらっしゃい。お土産、期待してるから」
「ハル。なに、その態度は」
「いいじゃん、伯父さんだって機嫌悪いんだから」
 玄関先で春真が拗ねれば、斜めで済んでいる夏樹の機嫌が縦になる。そう思っても夏樹のために案じるのだから、真人にはそれ以上はとても言えない。
「まぁね、伯父様も悪いよね」
「……おい」
「気をつけてね、行ってらっしゃい」
 よけいなことを言わせず夏樹を送り出す。むっつりとしたまま夏樹は背中を返した。そんなことだから、心配なのだとは真人は言わない。言えば余計に機嫌が悪くなる。
 自分の仕事に必要だから、夏樹は旅行に行く。旅行と言うよりは泊まりがけの取材か。いずれにせよ、人嫌いな男のこと、家から出る、それだけで億劫らしい。だから不機嫌になる。
「――真人さん」
 夏樹が行ってしまえば、春真はおとなしいものだった。だからあれは伯父に対する甘えだ、と真人は知っている。
「ん、なに」
 おやつの支度をしながら真人は台所で振り返った。扉の柱にもたれるようにして春真が立っていた。そんな姿勢は伯父によく似ていて真人をぎょっとさせる。
「ん、あのさ」
 別に何か言いたいことがあったわけではないらしい。伯父に対する不機嫌はそれはそれであって、真人には何も含むところはない、そう言いたいようなのだが、そこは子供のこと。巧く言えずに困っていた。
「なに、ハル。ハルまで機嫌悪い、なんて言わないよね」
「言わないよッ」
 ものすごい勢いで言われてしまって、言った春真も言われた真人も驚く。春真なぞ、自分で背を伸ばしているのだから、よほど驚いたのだろう。そんな自分を照れて笑った。
「ねぇ、真人さん」
 少しだけ笑みの戻った顔に真人はほっとする。以前、春真を預かるようになる前は夏樹の旅行には必ず真人が同行した。
 いま、そうしないのは春真がいるから。連休や長期休暇ならばいい。だが夏樹の取材は平日も何も関係があったものではない。子供に学校を休ませて取材に連れ出す、と言うのは考え物だ。だから春真は無論のこと留守番。当然、真人はその面倒を見るために同じく留守番。
 春真は気づいていないだろう、と真人は思う。夏樹の不機嫌の一因はそこにもあるのだ。そばに真人がいないこと。確かに生活無能力者の彼のことだから、不便ではあるのだろう。が、それ以上に。
「――前にさ」
 じっと春真を見るともなしに見つめてしまった真人が慌てて目を瞬く。気づかれただろうか、自分のこの物思いに。春真は何事もなかったかのよう話を続けた。
「伯父さんから、電報が来たこと、あったよね」
 言ってちらりと笑った。言われて真人は渋面を作った。あの時の騒動を思い出してしまった。
「真人さんさ、すごい慌ててさ。悪いけど、ちょっと笑いそうだった」
 旅先の夏樹から電報が届いたことがあった。いったい何事が起こったのか。すわ病気か、怪我か。あるいはとんでもない難事に遭遇したか。青ざめる真人の前に開かれた電報には万年筆の替えインクが見つからない、とそれだけ。
「だって、あれは酷いでしょう。僕がどれほど心配したか」
「うん。だからそれが面白かった」
「酷いこと言うね、ハル」
「だって、伯父さんだよ。そんなに心配することかなぁ」
「……ハルは知らないからね」
「んー、なにを」
 無邪気な問い。本当は、春真も知っている。この家で何年も共に暮らしてきたのだから。
「伯父様、体が丈夫じゃないの、知ってるでしょう」
 言えばやはり、なんだそれだけのことかとでも言いたげな顔をした。だが真人は心配なのだ。春真には言えない、言うつもりもない理由で。
「でもさ、いきなり倒れたりするほど悪いってわけじゃないし、だいたいさ、どっか病気ってわけでもないでしょ」
「そりゃそうだけどね。でもそっちのほうが悪いよ」
「なんで」
 不思議そうに言う春真に、真人はおおよそのことが飲み込めてきた。夏樹を送り出した真人が塞ぎ込んでいるように、春真には見えたのだろう。一概に否定はできない。
 だが真人としては喜ばしさが先に立つ。あの電報事件のときには小さかった春真が、いまはこんな風に育ての親を案じるか。それを喜ばない親がどこにいるものか。
「考えてご覧、ハル。伯父様は、なにもないのに具合が悪いんだよ」
「それってただの病弱じゃん。どっちかって言ったら軟弱かも。もっとさ、外出て体動かしたらいいんだよ。元気になるかもよ」
「ハル、ハル。考えて」
 額を押さえてうめいた真人に春真は小さく笑う。真人もまた笑いを噛み殺しているのが見えてしまったから。
「あ、そっか。伯父さん、運動なんかしたら倒れるかも」
「でしょう。ほんと、外きらいだからね」
「そう言う問題じゃないと思うよ、伯父さんの外出嫌いは」
「でもやればできるからねぇ。僕としてもなんとも言いようがない」
 こんなことを、話せるようになっていたか、いつの間にか。真人は春真の表情を目に焼き付けるように見ていた。もう、中学に上がると同時に実家に帰す、とは告げてある。子供子供したところはなくなったし、背もずいぶん伸びた。だがそれ以上に春真は大人になった、そんな気がした。
「それって、絶対に真人さんが甘やかすからだよ」
「はい、僕が。甘やかす」
 何か意味のわからないことを言われて真人は春真の言葉を繰り返す。知らずの内に手が口許を覆っていた。
「そうだって。伯父さんが外行きたくないって言えば代ってあげるし、なにが欲しいから取れって言ったら取ってあげるし。それ、教育に良くないから」
 偉ぶって言う春真についに真人は笑い声を上げた。ふんぞり返っている春真はどうだといわんばかりの顔をしているくせに、口許だけがこらえきれない笑いに震えている。
「ハルったら。それ、伯父様の前で言ってご覧」
「いやだよ、絶対に怒られるに決まってる」
「だったら僕はどうなの」
「真人さんは甘いから。僕のことも怒らないでしょ」
 にっこりと、夏樹が幼い頃の顔で春真は言う。もっとも、この年頃の夏樹は色々と問題を抱え込んでいたはずで、こんな顔をしたことはなかったのではないか、と真人は思うが。
「まったく。舐められたものだね」
 ふん、と鼻を鳴らして真人は茶菓を調え終えた。盆に載せた茶と今日のおやつを春真に手渡せば、今度はにやりと笑う。
「……まぁね、確かに甘いかもね」
「でしょ」
「うん、決めた。僕はどうもハルには甘かったみたいだ。こんなことじゃ、いけない。ちょっと厳しくしようかな」
「ちょっと、真人さん」
「おやつ食べたら、風呂掃除、頼むよ」
 笑顔で言えば春真はがっくりと肩を落として見せる。が、やはり甘いと思っているのだろう。落ち込んでなどいなかった。そもそも風呂掃除は春真の担当だ。
「そう言えばさ、あの電報。真人さん、返信してたよね。なに書いて送ったの」
 真人手製のスイートポテトを頬張りつつ春真は首をかしげる。当時はまだ幼かったせいで、詳細は教えてもらえなかった。
「あのときは、なに書いたのって聞いても、子供は知らなくっていいのって。真人さん、ぷりぷりしてたもん」
「やだな、そんなこと覚えてるの」
「うん、ばっちり」
 にっと笑った春真の口許に、菓子の欠片がついていた。指先で取ってやれば、子供じゃない、と拗ねてそっぽを向く。それでもどこか嬉しそうだった。
 もうすぐ、こうして共にすごすことはなくなってしまう。それでも、離れてしまっても家族である、と春真は思ってくれるだろうか。思わないほうがいいのだ、本当は。彼の家族はちゃんといるのだから。逡巡する真人は、春真の横顔をただ眺めていた。
「真人さん」
「あ、ごめん。なに……あぁ、電報ね」
 慌てて言えば仕方ないな、と言いたげな顔。いつまでも春真を見ていたいと思う自分に真人は苦笑した。
「そんなの簡単。自分で探せって言ってやっただけ」
「うわ、きつい」
「そうかな。ほらね、ハル。これで僕が伯父様に甘くなんかないって証明になったでしょ」
「どうかなぁ。やっぱり甘いと思うけどなぁ」
 首をひねる春真は笑っていた。あのとき、夏樹が帰宅してから二人で繰り広げた大喧嘩をもしかしたら春真は知っているのかもしれない。一応は子供の目をはばかって、春真が眠った後にしたのだが。
「だって結局、許したじゃん」
 いやに大人びた目をして春真が笑う。だから真人は肩をすくめて見せた。やはり、喧嘩を知っていたかと思う。
「喧嘩って言うのは対等じゃなきゃできないものだよ、ハル。だから僕が甘いわけじゃない」
 要するに、夏樹も相当に甘いのだ、と言うことになるのだがさすがにそれを春真に言うつもりはなかった。

 旅行鞄に荷物を詰めつつ、真人はつい思い出し笑いをしていた。気になったのだろう夏樹が覗き込んでくる。
「どうした」
「ちょっとね。ハルがいた頃のこと、思い出した」
「そうか」
 万感がこめられた、短い言葉。真人はだから黙ってうなずく。懐かしいというよりはまだ寂しい思いのほうが強い。
「ハルが大人になったら、今度は三人で旅行に行こうか」
「それはいいな」
「あなたが言うの。珍しいね」
 同意してくれたことを茶化せば夏樹が渋い顔をした。その頬に手を添えて、真人はそっとくちづける。心のうちを感じてくれたこと。それがありがたかった。




モドル