ホテルの大広間に熱気がむん、と立っていた。とある文学賞の受賞記念パーティーだった。そこに真人はいる。
 無論、と言ってしまっては角が立つが、夏樹が主役ではない。それなのに彼は真人の隣にいなかった。理由は主催者にある。
 先日、真人の見合い話を持ってきてただでさえ自宅にこられるのを殊の外に嫌う夏樹を怒らせた編集者がいる。彼が在籍する会社が主催しているのでは、夏樹は絶対に出席しない。
 それなのに真人が出席しているのは、ひとえに受賞者のためだ。知己の少ない夏樹だ。まして文壇の、と限定すればほとんど片手で数えてなお余る。その数少ない知己が受賞した、となれば無視はできない。
「これは水野先生……」
 背後から声をかけられて真人は振り返る。声を聞いただけで見当がつく。例の編集者の上司、編集長だった。当の編集者も従えているから、心から夏樹がこの場にいないことに真人は感謝する。知己の受賞パーティーで皮肉を撒き散らすのはあまりにも無礼がすぎる。
「どうも」
 とはいえ、真人もこの編集者にはあまりいい感情を持っていない。当然、彼を夏樹の担当につけた上司にも好感情は持てなかった。
「今日は、先生。いったい……」
 編集長が怪訝そうな顔をした。確かに真人は招かれていない。招待されたのはあくまでも篠原忍だ。だがそれをはっきり表情に表すのはいかがなものかと真人は思う。夏樹がこれを知れば、いったいどうなることやら。思って込み上げてくる笑いをこらえた。
「篠原の名代です」
「あぁ、それで篠原先生がいらっしゃらないのでしたか。宛名を間違えたか、と青くなりましたよ、私は」
 大きく笑って見せるが、本人は豪快だと思っているのだろう。が、単に不快なだけだ。真人は曖昧に笑うことで返答を留保する。
「受賞者は、篠原の知己ですから。以前から私が篠原の書生めいたことをしているとご存知ですのでこんな形の無礼もご寛恕いただけると思います」
 にこやかに真人は笑った。つまり、腹をくくった。これは告げ口ではなく、夏樹に言うべきことだ。この場でなにがあったか、夏樹が知らないでいいはずがない。
 人当たりも柔らかく穏やかな人柄、として知られている水野琥珀ではあるけれど、本当のところを言えば強情で頑固極まりない。他人にそれを見せないだけだ。本人の自己評価も、夏樹にかかれば一本きちんと筋が通った男、と言うことになってしまうのだが。
「水野先生、いつもとなんだか違いますなぁ」
「ですから、今日の私は篠原の書生ですよ」
「それでなんだか馬鹿丁寧な。いや、失礼」
 また大きく笑う。真人はただ黙って笑っていた。こんな上司では、あんな編集者が来るのも致し方ない、と諦めがつく。
 近頃、新しく来た編集長だ、と聞いていたから、ずいぶん会社の体制も変わったのかもしれない。ならばなおさら夏樹に言うべきことだ。真人は外出嫌いな夏樹の目であり耳でもあることを自負している。
「あれ、琥珀さんかな」
 呼び慣れない、といった風な声で名を呼ばれた。まさかと思って真人は驚く。振り返れば、聞き慣れたはずの声の持ち主がやはり、いた。
「これはこれは水野元子爵」
 突如として腰が低くなった編集長だった。例の編集者は一応、場をわきまえているのか目を丸くするだけで口を挟むのは控えていた。
「正確には水野元子爵の息子、です」
 ぴしりとした言葉を物柔らかに言ってのける。夏樹ならば、満面の笑みならぬ満面の渋さ、なのだが、彼は違う。極々穏やかに言っていた。ただ、真人には見て取れる。目が笑っていない。
「冬樹君。どうしたの」
 夏樹の弟だった。考えてみれば元華族。華やかな席にいることが不思議ではないのだが、ここで出くわすとは思ってもみなかった。
「この文学賞の後援に名を連ねてるんですよ。驚いたな」
「それはこっちの台詞だよ」
 編集二人が、呆気に取られて彼らの会話を聞いていた。よもや知り合いだとは想像もしていなかったに違いない。
「水野先生、その」
 果敢に口を開いたのは上司。わざわざ冬樹が「近しい人たちの間にだけ存在する独特な空気」を作り出したにもかかわらず口を出すのだから、やはり夏樹に言わねばなるまい。
「ご存じなかったんですか。篠原忍は私の兄ですが」
「え、それは――」
「あぁ、言ってはいけなかったのかな。あとで兄さんに聞いておいてください」
「いいけど、たぶん嫌な顔をするだけだと思う」
「だろうなぁ」
「ねぇ、冬樹君。もしかして、あの人は冬樹君が後援に入ってるの、知ってたの」
「知ってますよ」
 あっさりと言われてしまった。これで真人は心の底から納得がいった。確かに不快な会社ではある。だから真人を名代に立てた。それはそれで充分な理由に見える、一見は。だが多少の違和感があったことも確かなのだ。
「欠席したの――」
「僕がいるからじゃないかな。面倒くさいの、兄さんは嫌いだから」
「だよね。これって、貸しにつけてもいいと思わないかな」
「もちろん。充分取り立ててやって」
 からりと冬樹が笑った。先ほどの豪快ぶった編集長の笑いとはまったく違う。大らかで、屈託がない。これこそ本物の器量と言うものだ、と真人は笑みが浮かぶ。
「それでは、水野先生。篠原先生がお預かりになっていらした甥御様と言うのは――」
「私の息子ですよ」
「さようでございましたか。聡明そうな坊ちゃまでした」
「世辞は要りません。篠原の弟、とご理解いただければけっこうでしょう。篠原の性格はご存知なのでしょうからね」
 真人に対するのとはまったく違う口調、声音。そこにいるのは夏樹の弟の冬樹君、ではなく元子爵の水野家当主だった。
 真人は、これが嫌で夏樹は実家に寄り付かないのだ、と改めて思う。言うまでもなく、両親が、殊に母が健在の間は寄り付くも何もあったものではなかった。
 だが今は違う。生家に暮らしているのは大事な弟夫婦とその三人の子供たち。夏樹にとって忌避するものではないはず。
 けれど、と真人は思う。この冬樹を見ればわかる。自分がなぜ母に殺されかかったのか。爵位のため。今はなくなってしまった、たったそんなもののため。そしてなくなってしまったのに、今でもこうして厳然とそこにある。そして夏樹はそれを目の当たりにしなければならない。それが嫌だから、あの家には行きたくない。真人にも少し、わかる気がした。
「ねぇ、冬樹君」
 家に遊びに来る彼はもっと快活で朗らかだ。ここにいる水野元子爵家当主とは別人のように。真人の態度に彼の内心を知ったのだろう冬樹は、わかっていてもどうしようもないとばかり苦笑して見せた。
「志津ちゃんは。どう」
「ずいぶんいいようですよ。最近はよく笑うようになった」
「よかった。心配していたからね、伝えておくよ」
 言うまでもなく夏樹が、だ。けれど二人とも篠原忍がどういう人間なのか、彼の私事を編集者たちに知らせる気はなかった。
「春真がね、琥珀さんを恋しがってる」
「なにを馬鹿な。もう中学生なんだからって叱ってやって」
「叱るときっと飛び出していくよ」
「うちにくるって言うの。きたらちゃんと叩き返すから。心配しないで」
「心配してませんよ。琥珀さんは春真をしっかり躾けてくれたから。雪桜も喜んでいます」
 その言葉こそ、真人は嬉しかった。両親が元気でいる以上、本来ならば彼らの意向に倣って躾けるべきだったのに、真人も夏樹もそれをしなかった。今更、春真が実家に戻ってから心配しても無駄ではあるのだけれど、不安でもあった。
「それも伝えとくよ。喜ぶんじゃないかな」
「どうかなぁ。きっと仏頂面だ」
 からからと冬樹が笑う。あまり似てはいない顔立ちなのに、どことなくやはり兄弟だ、と見える。顔の造作で言うならば夏樹と双子のほうがずっと似ている。
「そうだ、雪桜が読んだって言っていましたよ」
「え、なにを。篠原の新作が出たの、いつだったかな」
「違う違う、あなたの」
「え――。僕の。僕の本って」
「ほら、いま雑誌に連載をしているでしょう。あの百人一首の」
 言ってちらりと冬樹は編集者たちを見やった。だから真人には意図的に選んだ話題なのだとわかる。
「あぁ、申し訳ないな。他社の話題で。許してくださいよ」
 これをなんの他意もないよう言ってのけるのだから、冬樹はやはり夏樹の弟なのだなぁ、と妙な感心をしてしまう。無論、他意がないわけがない。むしろ他意だらけだと真人は知っている。
「いえ、とんでもない」
 どうやら後援者の不興を買っているらしいことは理解している編集長だ。額に脂汗が浮かんでいた。
「一応はこういう家だから教養程度には知っているけど、僕もあの作品は好きだな」
「そう言ってもらえるとほっとするよ」
「ああいう作品を載せる会社と言うのはどんなところなのかな。琥珀さんはもちろん、会社ぐるみで大切に作っている、そんな気がするから」
「そうだね、とても大事にしてもらっているよ」
 真人は語尾が震えないようにするのに苦労している。夏樹ならばこんなことはしない。冬樹も本当ならば拙速すぎて馬鹿馬鹿しいと一蹴するだろうやり方。他を持ち上げることで貶めるなど、あまりにも品がない。ならばよほど腹が立っているのか、と思う。
「雪桜さん、どの歌のを読んでくれたのかな」
 だからこそ、真人は止めに入る。冬樹がなにを不快に思っているかはともかく、彼にこんなことをさせるわけにはいかない。あからさまに話題を変えればちらりと彼は口許で笑った。
「さしも草の歌ですよ」
「ちょっと待って」
 突如として悲鳴じみた声をあげた真人に編集者たちがぎょっとする。大らかに笑う冬樹にもう険はなかった。




モドル