最近ではめっきり少なくなっていた書生仕事だな、と真人は小さく含み笑いをする。 夏樹の使いだった。このところはずっと郵送するか本人が編集部まで持参していた原稿を、いま真人は預かって会社を訪れている。 「断固として拒否する」 夏樹のあの固い口調を思い出せば、やはりおかしくなってしまう。本当は笑っていられるようなことではないのだが、あそこまで本格的に怒っていると、かえって真人は笑ってしまうのだった。 例の夏樹を怒らせた会社の仕事だった。だから夏樹としてはどうしても郵送できる期限内に仕上げたかっただろうが、そこはそれ、いかに文筆業が長いと言っても思惑通りにいかないこともある。 「すまん」 そこで真人が名乗り出たのだった。自分が行きたくないから真人に行かせる、と言うのも夏樹は不本意だっただろうが、渋い顔の夏樹を見続けているくらいならば買物ついでに遠出をしたほうがまだましだ。詫びる夏樹に軽く手を振って真人は出てきたわけだった。 「これはこれは水野先生」 どうやらようやく自分のしでかしたこと――と言っても自宅を訪れただけのことなのだが――が篠原忍を激怒させたらしい、と気づいた編集者は影も形もない。もっとも、夏樹は家にきたことを怒っているのではなく、こないで欲しいという依頼がまったく理解されなかったほうを怒っているのだが。 「篠原の原稿です。お改めください」 だから応対に出てくるのは編集長だった。いまちらり、と例の編集者が衝立の影に見え隠れしたような気がする。どうせならばあちらのほうがまだよかったのに、と真人は小さく息をつく。 「わざわざ申し訳ない。うちのに取りに行かせましたのに」 「それはご遠慮ください。篠原がそう言っていませんでしたか」 「もちろん伺っておりますが。ですがそうお気遣いなさることはありませんでしょう、水臭い」 「違います」 真人はここで溜息をついても誰も怒らないだろうな、と思う。前任の編集長が懐かしかった。彼は篠原の性癖を理解してくれていたというのに。 「それは――」 怪訝そうな顔をする編集長に、真人はどう理解させようか首をひねってしまう。なにを言っても無駄なような気がした。 「篠原は自宅に他人がくるのを好みません。この場合、他人とは身内以外の一切を指します」 できるだけ端的かつ簡潔を心がければ、そのような物言いになる。きつすぎると真人自身思うのだが、変な曲解をされてはたまらなかった。 「前任の編集長から、聞いていませんか。篠原の原稿は基本的に郵送です」 「――では、なぜ水野先生が、ですね。その」 「さぁ、どうしてでしょう」 あなたの顔を見たくないと篠原が嫌がったからだ、とはさすがに本人には言えない。微笑んではぐらかす真人の態度に思うところがあったのだろう、少しばかり青ざめる。 「その、水野先生。これ以後、篠原先生は当社との付き合いを控えるなど、ですね。その――」 「篠原は文筆家としての誇りを持っていますから。連載中にどうの、と言うのはないはずですよ」 「では……」 「連載が終わったあとのことまでは私は関知しません。私は篠原の秘書でもなんでもないですから」 にこにこと微笑む真人がようやくただの温和な男性ではないのだと編集長も知ったのだろう。 「篠原先生は、ご機嫌悪しくあらせられますでしょうか。やはり、そうでございましょうね、えぇ」 「敬語がおかしいです」 「いえ、その。篠原先生のご実弟が水野元子爵とはついぞ知らずにですね」 冷や汗をかきはじめた編集長に真人は不快感を隠しきれなくなる。だからなんだ、と言ってしまいたい。 「だから、なんですか。冬樹君とは確かに兄弟ですけど、篠原忍と言う作家と血筋はなんらかかわりのないことと思いますが」 あぁ、うっかり口に出してしまった。内心で呟いてみるものの、心の言葉ですら棒読みだと真人は笑い出したくなった。 いえだのそのだの、呟いて汗を拭いている編集長を見やりつつ、真人は今日のことも夏樹に進言せざるを得ないな、と思う。連載を引き上げるとは言わないまでも、今後の付き合いは一切絶つことだろう。 「そう言えば、私事ですが」 真人は強引に話を変える、と言うより夏樹の指示を果たす。自宅で話した雑談だったのだが、これを編集者に言っておけ、と厳命されていた。 「はぁ、なんでしょう」 できれば篠原忍の元に飛んでいって平謝りに謝りたい、と思っているのが顔に書いてある。だがそれをすれば逆効果だと言うこともやっと理解したのだろう。顔色が非常に悪かった。 「私はいま、他社ですが百人一首の解説めいた雑文を書いているのですが」 「はいはい、拝読いたしました。いや、私のような浅学の徒にはさっぱりで」 それを言うならば無学の徒だ。しかも文学を扱う編集長が浅学非才とは、謙っているのならばともかく真顔で言うのはどういう了見だ。無学だとすれば更に絶望的だと溜息をつきたい真人はなんとかこらえる。 「以前書いたものに読者の方からお手紙をいただいたんですよ」 「けっこうですなぁ。作家さんにとっては励みになりますでしょう」 「えぇ、本当に。そこに定頼がどうにも嫌な男で、と書かれていましてね」 「定頼……とは」 「小式部内侍をからかった男ですよ」 それで通じるとは思っていない。問題はそこではないので真人はさらりと流す。編集長は飲み込みがたいものでも飲んだような顔をしていた。 「実際、困った男ではあるのですがね、私はさほど嫌いではないのです」 多少行き過ぎた冗談や鼻につく言動も多々あるのだが、なんだか子供のまま大きくなった男のような気がして、遠くで眺めているだけならば微笑ましい、そんな気がする。 「篠原はこの男が大嫌いなんです」 「はぁ……」 「いい加減で与えられた仕事をまっとうしない男は理解すらできない、と言ってね」 浮かない顔の編集長は、誰のことを当てこすられているかわかっているのだろうか。真人は申し訳ないけれど定頼に悪名をもうひとつ着てもらうことにした。 「篠原はそもそも人の話を聞かない人間が嫌いなんですよ。こういう理由でこれを頼む、と言ったのを相手が了承したにもかかわらず果たされなかった、なんてことがあったら激怒しますからね。些細なことで腹を立てるような人ではないんですが」 「それは、その――」 「定頼の話ですよ、もちろんね」 にっこり笑って言ったけれど、さすがにそれは信じられないだろう。と言うより信じてもらっては困る。 真人はそもそも喧嘩を売ることが得意ではないのだ。若いときからそうなのに、いまは年とともに丸くもなっている。なおのこと苦手だ。 「――お原稿は確かにお預かりいたしました。今後は、配慮いたします、はい」 「できれば、心に留めておいてください」 とは言っても連載終了後は付き合うことすらなくなるだろうが。それでもとりあえず連載中は否応なしに付き合わねばならない相手だった。 「ところで水野先生」 「はい、なんでしょうか」 突然に笑みを浮かべた編集長に、真人はいやな予感がする。これでは理解されたのかも覚束ないではないか。 「水野先生も、そのですね。水野元子爵のご縁者だったり――」 「しませんよ、そんなの」 「いやいや、他意はなく。同じ水野姓なものですから」 「恩人の名をいただいただけです。本名は加賀ですが」 「あぁ、さようでしたか。これは失礼を」 頭を下げて見せる大仰な仕種に、少し腹が立った。もしかしたら夏樹が言う定頼のいい加減な態度が気に入らない、と言うのはこういうことなのかとはじめて思い至る。 「はて。恩人、ですか」 「篠原ですよ。私もあちこちで書いていますし、文壇ではそれなりに知られた話ですが」 ちくりと言ってやれば、赤くなったり青くなったりしていた。 どうやらおかしい、と真人が気づいたのはこの時点だった。いくらなんでもこの業界のことを知らなさすぎる。まったくの他業種、あるいは畑違いから編集長に据え付けられただけなのかもしれない。 「失礼いたしました。無知でして」 「篠原と親しい作家さんは少ないですから」 「えぇ、まったくです。はい」 「ですが、人間関係もある程度は知っておいたほうがいいかと思いますよ」 よけいなお世話ではある。が、その程度のことはしてもらわないと、とばっちりがくるのだ。火の粉を被りかけるのは夏樹でも、その前に立って彼を庇ってしまうのは真人なのだ。 「不勉強で申し訳ないですなぁ」 ついに開き直ったかからからと大笑いをした。これはだめだ、と真人は断じる。真人が真人でなかったならばさっさと連載を終わらせてしまえ、と夏樹に言うところだったが、そうもいかないのはわかっていた。 「編集長」 いつの間に衝立の陰から出たのか、例の編集者が青くなって飛んできた。なんだ、と横柄な態度で部下を見やった編集長の顔も青くなる。 編集者が止めるも案内するもない。勝手知った編集室に入ってきたのは夏樹だった。 無言が如実に彼の不機嫌をあらわしている。二人はそう思ったことだろう。が、真人はわかった。違う。どことなく楽しんですらいると。 「これはこれは篠原先生、ようこそ――」 「帰るぞ」 編集長の言葉など聞こえた様子も見せず、夏樹は言葉を被せた。真人はにやりと笑って帰り支度をする。 「先生」 慌てた編集者たちに目もくれず、けれど出て行きがてらに夏樹は振り返る。 「琥珀を迎えにきた、それだけです。用はない」 言い捨ててあとはそのまま。これではなにを言われるかわかったものではない、と真人は思ったけれど案外それどころではなくて忘れてくれるかもしれないと思う。 無言で隣を歩く夏樹に、ほっとしていた。押し付けてしまった用事に嫌な思いをしていると汲んでくれた夏樹。だから真人は夏樹の願いを果たすのだ、いつも。 小さく笑えば、横目で覗く夏樹のそこはかとない笑み。 |