「こんにちは、志津ちゃん」
 白い病室の白い寝台の上、夏樹の姪が半身を起こしていた。今日は少し顔色がいいような気がする。
「あ、おじさま。こんにちは」
 にこりと笑った顔など、ずいぶんと健康そうになったものだと真人は思う。そのほっとした顔を見られてしまったのだろう、冬樹が小さく微笑んだ。
「どうしたんです、真人さん」
「うん。夏樹のお使い。志津ちゃんにこれをって」
「え、なになに。伯父さまがどうなさったの」
 興味深げに体を乗り出す。そんなにしては落ちてしまうよ、と冬樹が笑って諌めていた。
「これね。志津ちゃんが退屈しないようにって」
 そう言って真人は一冊の本を手渡す。包装もしていない裸のままだったが、志津は受け取って飛び上がらんばかりに喜んでくれた。
 本を抱きしめて笑う。その姿に真人は彼女の祖母を見る。早くに亡くなった藤井桜。彼女も本の好きな人だった。雑誌社を運営し、真人の本を一番に出してくれたのも彼女だった。
 思えば志津は桜の孫なのだから似ているのも当然と言う気がする。だからか、とふと真人は気づいた。夏樹があまり志津の見舞いにこない理由を見た気がした。
「小説ですか、真人さん」
「うん。子供向けってわけじゃないみたいだけど、これなら志津ちゃんも面白く読むだろうって言ってたよ」
「よかったな、志津」
 微笑んで娘の頭を撫でる冬樹に、彼女はもう子供じゃないのよ、お父さん、などと言って笑う。春真の姉なのだから、当然もう中学に通う年だ。それなのに病がちのせいか春真より幼く見えた。
「もう一冊はもうちょっと待っててね。まだ読み終わってないんだって」
「なに、伯父様が読んでから私にくださってるの」
「だって読まないと志津ちゃんが面白いかどうか、わからないでしょう」
「それは兄さんらしいなぁ。そうか、ちゃんと読んでからくれてるんだ……」
 冬樹は兄と接したことが少ない。その兄のわかりにくい心遣いを噛みしめるように呟いていた。真人は彼がそう思ってくれることが何より嬉しい、そう思う。
「僕がもっと、少女小説みたいなものがいいんじゃないのって言ったらね、子供を馬鹿にしちゃいけないってさ」
「おじさま、どういうこと」
「ん、なんて言うのかな。子供だからあれがいい、これはだめとかそういうのって、当の子供は面白くないって言うんだ」
「あ、わかる。それ、よくわかるわ」
 ぱちん、と寝台の上で手を叩いて志津ははしゃぐ。喜びが頬を染めて、いっそ健康に見えるほどだった。
「だから大人が読んでも面白いと思うようなもののほうがかえっていいんだって、言ってた」
「うん、そうかも。私も子供向けの冒険小説とかって好きじゃないもの」
「どんな本が好きなの」
「時代小説が好き。歴史物じゃなくってね、剣豪が出てくるようなの」
「……それは、珍しい趣味だな、志津」
「お父さんに言うと笑われると思ってたから内緒にしてたの」
 ちらりと赤くなった頬を隠すよう、志津はうつむく。隠していたことをつい喋ってしまうほど本が好きなのだろう、彼女は。それを思えば微笑ましかった。
「それ、伯父様に言っておくね。伯父様も時代小説書いてるから、今度持ってこようか」
「ううん、いいの。伯父様のご本はみんな読んだから」
 その志津のあっさりとした言いぶりと笑顔に、真人は夏樹の語っていたことは本当なのだ、と感じ入った。篠原忍の本は決して子供向けではない。むしろ大人であっても突き放すようなところがある本だ。それなのに志津は楽しく読んだ、と体中で語っている。この小さな読者のことを夏樹に話したら、いったいどんな顔をするだろう。思えば楽しくなってたまらなかった。
「長居すると悪いね。もう行くよ」
「あぁ、真人さん。うちに寄ってください。この前兄さんに頼まれてた本が見つかったんで、持って行ってくれませんか」

「――と言うわけでね、取りにきたんだけど」
 病院での出来事を話せば雪桜がころころと笑った。今日は殊の外に志津が元気そうだったと言えばやはり嬉しそうな顔をする。
「えぇ、聞いています。ちょっと待っていて」
 居間を出て行き、雪桜はどこかに消える。戦前からある水野子爵邸だった。さすがに広く、そして品があるというのだろうか。真人の目には心地よい調度、と映る品であってもおそらくは聞いた途端に卒倒するような金額なのだろうと思えば触るのもためらわれる。
「はい、これね。真人さん」
 再び現れた雪桜が手にしていた大量の本また本。二重にした紙袋がそれでも破けそうだ。しかもそれが二つ。
「ちょっと重いわよね。だから」
 悪戯な少女のような目をして雪桜が微笑んだ。扉に向かって眼差しを投げる。開いたそこに春真が立っていた。
「息子に手伝わせるわ。使ってやってちょうだいね」
 にっこりと笑った雪桜に真人は何も言えないでいる。ただありがたくて涙が出そうだった。
 水野邸を辞してなにを話すでもなく春真と歩いて家に向かっていた。自宅から出て行きがけに雪桜は息子にこう声をかけた。
「ちゃんとお手伝いしてね。早く帰ってくるのよ」
「はい、お母さん」
 何も知らなければごく当たり前の親子の会話。それでも真人には少しの切なさと、それに倍する笑いを生む。
「真人さん」
「ん、なに」
「さっきからどうしたの。笑いそうだけど」
 気づかれていたか、と真人は小さく笑った。実家に帰ってからそう時間は経っていないはずなのにまた背が伸びた気がする。あるいはそれは中学の制服姿だからかもしれない。
「お母様相手に緊張してたな、と思って」
「だってさー」
「別に悪いとは言ってないよ」
 いまの返事もそうだった。実家に戻って時間が経っていない。すなわち春真にとってはまだ肩のこる相手だということなのかもしれない。それではいけないと思う反面、自分をまだ親のように思ってくれているのが嬉しかった。
「この前、伯父様に呆れられたよ」
「え。伯父さんに呆れるじゃなくってなの」
「うん。呆れられた。なんでもできたら楽しいと思わないって聞いたら、馬鹿なこと言うなってさ」
 春真が実家でどう暮らしているのか、尋ねてしまいたかった。けれど春真もまだ戸惑っていることが聞かなくても、わかってしまった。だから真人は違う話をする。唐突だな、と自分でも笑えるほどに話題を変えた。
「藤原公任、わかるかな」
「わかるよ。三船の才の人だ」
 誇らしげに春真は胸をそらす。一体どこで知ったのか、と思ったけれどうちで知ったに決まっている、と真人は内心で舌を巻く。伯父の蔵書か、それとも自分の本か。いずれにせよ勝手に読んでいいことになっていたからそれで覚えたのだろう。
「伯父様はね、なんでもできたらどんなにつまらないことかって同情するって言ってた」
「うーん、わかるかも」
「え……」
 春真が、この年にしてなにがわかるというのか。思わず隣を見やった真人に春真は含羞んで笑って見せた。
「ほらさ、どんなに欲しくっても、どうしても手に入らないものとかって、あるじゃんか」
 春真が、この年で。真人は戸惑う。いったい春真はなにが欲しくて、そして手に入れることができないのだろう。
「でも、それって僕はいやなことじゃない。ずっと遠くにあって欲しいかなって思う」
「ねぇ、ハル。そういうの、なんていうか知ってるかな」
「憧れ、かな」
 ほんの少し遠い目をした。手に入れることができないもの、あるいは人かもしれない。真人は思う。だからこそ、聞かなかった。それが何かとは。
「伯父様はね、僕にはその気持ちは絶対にわからないって言うんだ」
「どうして。そんなこと、ないと思うけどなぁ。だって真人さん、鈍い人じゃないし。人の気持ちがわからないんだったら伯父さんのほうだと思うけど」
 ずいぶんと酷いことを言って春真は笑った。いま一瞬見せた遠い目などもうどこにもなかった。そのことに真人は安堵する。子供の目の中にそんなものを見るのは切なくなる。
「そうじゃなくって。伯父様は書くのに苦労するんだって」
「だよねー。じいっと動かないけど、あれって七転八倒ってやつだよね」
「伯父様が言うには、僕は息をするように歌を詠むんだってさ」
「それって格好いいな」
 さらさらと歌を詠むことがか、それとも伯父の使った表現か。春真は子供らしく拳を握って笑って見せる。
「真人さんってじゃあさ、歌を詠むのに苦労することとかってないんだ」
「なくはないよ」
「あ。でもその程度なんだね」
 その言葉に真人は笑い出す。重い荷物も忘れるほど晴れやかな気分になった。きょとんとする春真の頭を撫でてやりたい気になってしまう。さすがに自重したが。
「おっかしいの。ハル、それって伯父様が言ったのとおんなじだ」
「えぇー。なんか、いやだ」
「だって一緒だったよ。ほとんど表現まで一緒。おっかしいの」
「これって血ってやつかな」
 さも嫌そうに言う春真の口許が笑っていた。どことなく安堵の笑みに見え、真人は春真の身の上を思う。つらいとは言わないだろう。それでも実家に翻弄されてきた子供時代だった。いま生家に戻って春真はまた本当だったらしないはずの苦労をしている。兄や姉と自分を比べることもあるのだろう。
 だからこそ、かもしれない。伯父と血が繋がっている。それがなぜか春真の心のよりどころになっている。真人はそう感じた。
「当たり前じゃない。ハルはあの人の甥だもの。でも――」
 言葉を切れば訝しげな顔。それが見たかった、真人は。眉間に寄った皺を指でつついて真人は言う。
「兄弟三人の中で、ハルが一番伯父様に似てるかな」
 ぱっと晴れ渡った顔。それから照れくさそうにそっぽを向いた春真。手伝いに寄越してくれた雪桜に真人は心から感謝した。




モドル