頂き物だけれど、そう言って雪桜が干し椎茸を持って家にきたのはある午後のことだった。三人の子があるというのにどこか今でも少女めいた容貌は母の桜を思わせる。だが雪桜のほうがもっとおっとりと大らかに見えた。 「ありがたいな。これは嬉しい」 嬉々として干し椎茸を受け取る真人の声は真実弾んでいた。 「こちらこそ嬉しいわ。あまり使わないから、どうしていいかわからなくって」 「そんな、もったいない。おいしいのに」 「でも食べ方がよくわからないんだもの」 大家の奥様となればそのようなものかな、と真人は一瞬は思った。だが戦前ならばいざ知らず、いまは多少裕福だ、と言うだけのこと。雪桜は自分で台所にも立つし、洗濯も掃除もする。 「僕は煮て食べるのが好きだけどなぁ」 だから雪桜は単に干し椎茸があまり好きではないか、あるいは本当に調理法を多く知らない、それだけなのだろう。 「それは私もするけど。でも、そればっかりじゃ飽きてしまうんだもの」 そんな雪桜に真人は朗らかに笑った。隣で夏樹が冷めた茶をすすりながら苦笑しているところを見れば同じ感想を持ったのだろうとわかる。今でも可愛らしい雪桜、と。 実際、夏樹は雪桜が生まれる前、母の胎内にあったころから知っている。真人も彼女の少女時代を知っていた。桜の背に隠れるようにしていた、おとなしい少女だった。 その彼女がいま、こうして三人の子の母になっている。不思議でどこか温かい。同時に桜のことを思い出す。早くに亡くなってしまった彼女はどれほど娘の幸福を祈っていたことだろうか。 真人は心の中で呟く。桜さん、あなたのお嬢さんはこんなに立派な女性になりましたよ、と。良い夫と子供に恵まれて幸せそうですよ、と。 「真人さんはどんな風にするの」 首をかしげて問う雪桜に真人は微笑む。春真を息子のように思うならば雪桜はなんだろうか。年の離れた妹かもしれない。そんな風に思う自分を少し笑った。 「そうだね。一番はやっぱり甘辛く煮るのだけど」 それでは飽きてしまうんだよね。そんな和やかな目を真人は彼女に向ける。それからどうしようかな、とでも言うよう夏樹を見やれば彼は一つうなずいた。 「それがいいだろう」 「ん、そうかな」 「使えるだろ」 「まぁね」 二人のやり取りを雪桜は不思議そうに見ていた。当たり前だろうな、と真人は恥ずかしくなる。わざとらしい咳払いをして真人は言葉を継ぐ。 「豆腐を水切りして、鶏のひき肉と混ぜるんだ」 「干し椎茸、よね」 「うん、そこに干し椎茸を戻してみじん切りにしたのを加える。人参なんかも同じようにしてね。ちょっと片栗粉で繋いで、油焼きにしちゃう」 「ハンバーグ、なのかしら」 「そうそう。戻し汁は片栗粉でとろみをつけて餡にしてね」 「大根おろしを乗せたのが、好きだ」 「――って、この人が言うからよく作るよ」 「……子供も好きな味だしな」 ぼそりと夏樹が言うのに、ついに雪桜が口許を押さえて笑った。困り顔の真人は天井に眼差しを投げて頬をかいている。 「嬉しいわ。帰ったら早速作ってみる。春真、好きよね」 「うん、まぁ……ね」 「大好物だったぞ」 夏樹、と彼の膝を叩けば鈴を転がすように雪桜は笑った。真人は観念して雪桜に向き直る。 「ごめんね。ハルの好物なのは確かだけど、差し出口だったね」 「どうしてそんなことを言うのかしら。本当を言うとね、困っているのよ、私」 肩をすくめて雪桜が言った。そんな女性に似つかわしくない身振りが、なぜか雪桜にはしっくりと似合う。 「春真は手元から離してしまったでしょう。あの子も一生懸命馴染もうとしてくれているけど、やっぱり今更好きなものは何、とか聞けないもの」 「真人に聞けばいい。好きなだけ。滔々と答えてくれるはずだぞ」 「でしょう、おじさま」 にっこりと雪桜が笑った。こだわりなく言ってくれる言葉がありがたい。真人はこの夫婦にいくら感謝してもしきれない、そう思う。不意に雪桜がくすりと笑った。 「どうしたの」 うっかり少女時代のように雪桜ちゃんと呼びそうになって真人は口ごもる。それを見て彼女はまた笑った。 「いいえ、おじさまって呼ぶのややこしいかしらと思って」 「あぁ、ハルも伯父さんって呼ぶからね」 真実、春真にとって夏樹は伯父だ。だが雪桜と夏樹は彼女の言葉ではないがややこしい。真人など何度説明されても系図上の関係が飲み込めない。秘された血縁となるともっとわけがわからなくなる。 「子供のころから知っている親戚のおじさんに違いはなかろうさ」 真人の逡巡などどこ吹く風、と夏樹はあっさりと肩をすくめた。 「お母様は、おじさまの――」 「血縁上は叔母に当たるな。系図で言えば従妹だが」 「だったら私はおじさまのなんになるのかしら」 「知らん」 「あら、おじさまだったらご存知かと思ったのに。著名な作家でいらっしゃるんだもの」 「作家だからと言って親類の呼び名が全部わかるものか」 渋い顔の夏樹に真人は笑いを噛み殺す。一つくらい答えてあげればいいのに、と。 「言えないほうは、従妹だよね。夏樹」 「別に知ってる人間は知ってる話だがな」 「それでもまだ子供たちには話せないわね」 当然だ、と夏樹と真人が揃ってうなずいた。露貴と桜が本当に愛し合っていたのは事実だ。それは責められるべき問題だ、とは真人は思わない。確かに異母兄妹ではあったけれど、同じ家で共に育ったわけでもない。二人にとってはだから相手は心から愛しく思った異性であった、それだけのこと。 「現代社会において、倫理上の問題があることはまぁ、確かだからな」 「人のことは言えないけどね」 「おい、真人」 少しばかり慌てた夏樹の眼差しを見るのが真人は好きだった。顔は多少、焦っている。それだけ。それなのに目は遥かに真剣さが増す。 「冗談だよ、冗談」 さらりと言えば一瞬より短い間、嫌な顔をする。はじめのころはそんな表情を目にするたびに怯えていた。だがいまはもう夏樹の顔の一つ、と楽しんでいる。 「雪桜」 話をそらそうとでもするよう今度は夏樹が咳払いをした。珍しい彼の仕種に真人は内心で微笑む。 「志津子はどうなんだ」 春真の姉のことを夏樹はそう呼ぶ。みなが志津ちゃん、と呼ぶ中でいささか奇異だった。 「いまは家に帰っているのだろう」 「帰ってきてるわ、久しぶりに。でも食欲がなくって。それを隠そうと頑張って食べて見せたりするのが、少し可哀想だわ」 病気の娘のことを語るとき、雪桜は少女の気配を失くす。母として毅然とそこに立つ姿があった。真人はこの上もなく美しいものを見た、そんな気がして目を瞬く。 「真人」 「あ、うん。ちょっと待ってて」 「あぁ。あと、あれもだ」 「だったら――」 「いいぞ。また作ってくれれば俺はそれでいい」 「じゃあ、雪桜さん、ちょっと待っててね」 いったい何が起こったのか、と瞬きをする雪桜に軽く手を振って真人は台所に消えていく。 「おじさま――」 「すぐに戻ってくるだろう。茶は」 「えぇ、いただきます。おじさまは」 「もらう」 茶を勧めたくせ、淹れるのは雪桜だった。急須にすでに茶の葉は入っている。あとは湯を注げばいいようなものなのに、それでも失敗する夏樹と言う男を雪桜も知っていた。くすくすと笑いながら三人分の茶を注ぎ足す。 「あ、おかわり入れてくれたの。ありがとう」 「どういたしまして。おじさまに頼むと大変なことになるんだもの」 「だよね。はい、これね」 真人が持ってきたのは大量の保存容器だった。あれこれと中には色々入っている。 「これは胡桃味噌。ご飯に乗せて食べるとおいしいよ。こっちは鰹節で作ったふりかけ」 「真人さんが作るの」 驚いた声を出した雪桜に真人は照れて頬をかく。それから眼差しで夏樹を指した。 「食欲のない人が、ここにもいるからね」 他にもある容器を手早くまとめてしまうのは、どうにも照れて仕方ないせいだった。いずれにせよ、中身は見ればわかる。一々説明することもないだろう。 「夏樹の好みだから、志津ちゃんは好きかどうかわからない」 「いいの、真人さんが作ってくれたよって言えばあの子、きっと喜ぶから」 「はてさて喜ぶのはどの子かな」 夏樹が笑って茶化した。その膝をぴしりと叩けば雪桜まで一番喜ぶのは春真だ、などと言う。 「もう、二人とも」 怒って見せれば雪桜が笑いに滲んだ涙を拭っていた。 「そう言えば。真人さん。読んだわ、この前の号」 きょとんとしてしまった。突然のことでなにを言われたかわからない。そんな真人に百人一首のことだ、と雪桜は言う。 「才能のあるもの同士の夫婦の話、書いてらしたでしょう」 「あぁ、あれか。うん、うまく行かないと最悪の組み合わせだよね」 そう言った真人に雪桜は思わせぶりに眼差しを投げた。真人に、それから夏樹に。 「二人はうまく行ってる例じゃなくって」 ゆっくりと言うものだから、真人は言葉が接げないでいる。立ち直ったのは夏樹だった。 「そうでもない。この前は差し出口をされて参った」 「僕なんか、ずいぶんぞんざいに扱うしね」 「そんなこと言って。でも結局仲直りするんだから、うまく行ってるんだと思うわ」 微笑んで言う雪桜に二人は言葉もなかった。別に喧嘩をしようと言うのではないし、うまく行っているとも思うのだが。だが人に言われるとこんなにも気恥ずかしいものだとは。 「母になった女は強いな」 あまりにも一般的ではある。だが雪桜が帰ったあとそう言った夏樹の言葉が、なぜかすべてを表している、そんな気がした。 |