中学の制服姿で学校帰りの春真が縁側にいた。足元でじゃれつく猫をからかって遊んでいる。時折笑い声を上げるのが、懐かしいような切ないような気持ちを呼び起こす。
「ハル、おやつだよ」
 雪桜も冬樹も春真と育ての親が疎遠になるのは望んでいなかった。そもそも夏樹は実の伯父なのだから縁が遠くなるも何もないようなものなのだが、たぶん彼らは自分のことを案じてくれているのだ、と真人は思う。
 ありがたくて、嬉しくて、その好意に甘えてばかりではいけないと思う。ここで過ごす時間が長ければ長いだけ、春真は実家に馴染めなくなってしまう。
 そう思っても、何度思っても、真人は春真を歓迎してしまう。彼がくればかつてのようにいそいそと食べ物の用意をする。そんな自分はもう笑うしかない、そう思う。
「真人さんってば」
 からからと春真が笑った。声変わりはまだのはずなのに、もうあの頃の子供子供した声ではない、そんな気がした。
「なに、ハル」
「だってさぁ。もう僕、そんなに子供じゃないんだよ」
「それがどうしたの」
「だっていっつもさ、おやつって。そんなにおなか空かしてるように見えるのかなぁ」
 不満そうに言う春真を夏樹が笑った。原稿を書く手を一休みして、真人が切った羊羹を口にしている。真人ならば熱い茶を合わせたいところだが、生憎の猫舌。ぬるい茶を夏樹はうまそうに飲んでいた。
「なにさ、伯父さん」
「なにが子供じゃない、だ。育ち盛りも真っ盛りなくせに」
「なにそれ。その言葉遣い。それでも作家なわけ」
「ほらな、真人。春真は絶賛反抗期中だ」
 茶化して夏樹は笑う。よけいに春真が機嫌を損ねるとわかっていてやっているのだが、よく似た伯父甥だ、と真人は呆れる。
「それこそ、なんなの。その絶賛て言うのは」
「だってそうだろうが。このおチビちゃんのどこが素直な可愛い子供なんだ。こういうのは反抗期って言うんだ」
「誰がおチビちゃんだよ」
 むっとして振り返った春真が夏樹の肩を打とうとする。他愛ない戯れ。春真も本気だったわけではない。それが真人にはわかっている。それでも咄嗟に止めてしまった。
「ハル、伯父様に手を上げるものじゃないよ」
 細い真人の腕に止められて。春真は少し驚いたようだった。しげしげと掴まれた自分の腕を見ている。
「あ……ごめん」
「んっと。謝るのって、僕だよね」
「うん、そうかも」
 なんともしまらないやり取りを、珍しく夏樹が声を上げて笑った。そしてそういう態度を取るから悪いんだ、と春真がもそもそと呟く。
「ねぇ、ハル」
「……うん」
「いままでね、ハルは小さかったから言わなかったけど」
「おい――」
 夏樹が言葉を挟んだ。じっと真人を見つめ、その目になにを見たのか諦めたよう夏樹は溜息をつく。それを了承と取って真人は続けた。
「伯父様の肩にはね、古傷がある」
「え――」
 傷跡自体は知っている。幼いころ風呂に入れてくれた伯父の体にあった痕。だが、あえてこんな形で話題にするようなものだとは夢にも思わなかった春真はそっと唇を噛む。
「知らなかったでしょ。僕も伯父様もそういうことは言わないからね」
「それって、黙ってたほうがいいってことだよね」
「ハルのお父様は――」
 ちらりと夏樹を見やれば彼は春真に向かってうなずいて見せた。それで子供の顔が青ざめる。
「知って、たんだ……」
「ねぇ、ハル。ハルは小さかった。だから誰も教えなかった。だってね、ハル。そんなこと聞いてハル、どう思うの」
「どうって……」
「痛かっただろうなとか、いつの怪我とか。聞きたくなっちゃうよね」
「つまり、聞くなってことだよね」
 上目遣いに真人の顔を覗き込んでくる。その春真の頭を夏樹が軽く叩いた。
「人の顔色を窺うな」
 ぴしりとした言い方だったにもかかわらず、春真は小さく笑う。叱られて、けれど許されたのを知った顔だった。
「ハルの言うとおりだよ。僕も伯父様も聞いて欲しくない。たぶん、ハルのお父様もね。だからそういうことがわかる年になるまで、黙ってた。それで許してくれるかな」
「そんな――」
 許すも何もない。驚いて春真が縁側から立ち上がる。足にじゃれれていた猫が抗議の鳴き声をあげた。
「うん、ありがと。ハル」
「あのな、春真。真人は気にしすぎなんだ。別にいまはもう痛まないし、どうと言うことのないただの古傷だ」
「それでも僕は伯父様の肩を叩いて欲しくない。ただの我が儘だけどね」
「それって……」
 言葉を探す春真を二人はじっと待っていた。真人は微笑んで、夏樹は不満そうに。
「いい我が儘だよね。真人さん、やっぱ伯父貴には甘いや」
 照れたような、くすぐったいような表情。真人はその言葉にこそ、身の置き所がないものを覚える。どうしたものか、と夏樹を見やればにやりとしていた。
「でもさ、真人さん。意外と隠し事が上手だね。全然知らなかった」
「意外ってなにさ」
 唇を尖らせた真人をけれど夏樹は笑った。くつくつと、さもおかしげに彼は笑う。そんな伯父はこの家で暮らしていた春真にとっても珍しい。それどころか春真よりも長く共にある真人にしても珍しかった。
「お前、隠し事が上手いと思ってたのか」
「まぁ、上手ではない、とは思ってるけどね」
「だろ」
 声音にある含みに真人が気づかないはずもない。嫌な顔をして彼を見れば春真が笑う。
「要はお前、下手ではないとは思ってるわけだ」
「その程度はね。悪いかな」
 胸を張って言えば、今度は春真が笑いをこらえてそっぽを向く。無理やり猫を抱き上げて背中に顔を埋めるものだから、嫌がって猫が鳴いた。
「だいたい、あなたのほうが隠し事、下手じゃない」
 どうだ、といわんばかりの真人の態度に夏樹は納得しがたいのだろう、首をひねっている。それから嫌がる猫に手を伸ばしておざなりに額を撫でてやった。
「ねぇ、ハル。聞いてよ」
 そんな夏樹の態度に真人はついに強硬手段に出る。ほとんど告げ口だ、と思って子供相手にそうする自分をそっと笑った。
「昨日さ、伯父様。いなかったんだよ」
「珍しいじゃん。どこ行ってたの」
「行ってない。原稿書いてた」
 即座に言うから、春真も嘘だと気づいたのだろう。にやりと笑って伯父を見やる。
「ふうん。ずっと書いてたんだ。だったら捗ったよね」
「そうだよねぇ。僕もそう思うんだ。でもね、ハル。午後に様子を見たらさ、伯父様、いなかったんだよねぇ」
「へぇ、ほんとにいなかったんだ。ねぇ、伯父さん。どこ行ってたの」
 いかにも無邪気な子供の問い。夏樹は顔を顰めてあらぬ方を見やる。
「そりゃずっと座ってたわけでなし。手洗いに立つことも――」
「それは大変。ねぇ、夏樹。お腹の具合でも悪かったの。四時間くらいいなかった気がするな、僕は」
「そりゃすごいや。盛大な下痢だね、伯父さん」
 にこにこと言う春真と、うっとり笑った真人。この二人にかかってはかの篠原忍といえども形無しだった。
「誰が腹下しだ」
「うん、ほんとは三時間くらいかな。でもいなかったのは確かだよね」
「そんなことは――」
 まだ抵抗する夏樹に真人は笑いかける。これでもか、とばかりに。それでも怒ってはいないよ、と知らせつつ。
「きっとね、どこぞで甘いものでも食べてきたんだよ」
「あ、ずるいんだ。そういう時はさ、ちゃんと真人さんにお土産買ってこなきゃだめなんだよ」
「土産を買ってくればいいのか」
「そうしたらさ、ほら。懐柔されてくれたりするかもしれないじゃん」
「ハル――。なんてことを」
 あぁ情けない、と大仰に天を仰いで見せる真人に伯父甥は揃って身を縮めて見せた。それを悪戯に睨んでおいて真人は吹き出す。
「ほらやっぱり。大方、団子でも食べてきたんでしょ」
「まぁ……な」
「だから夕食の箸が進まなかったわけだ。せっかく、僕が、あなたの好物を作ったのにね」
 ぴしりぴしりと言葉を区切って言う真人に夏樹は苦笑するしかない。業界では水野琥珀の奥床しさが評判になっているが、これのどこがだ、と夏樹は内心で笑う。自分だけが知っている真人、と言うのは大変に気分が良かった。そしてそれを目にしているもう一人に気づいて顔を顰める。
「そんな顔してもだめなんだから。僕は篠原忍に怯えるような編集者じゃないんだからね」
 誤解して真人が誇らしげに言う。鬼の首でも取ったよう、とはこういうことを言うのだな、と変に感心してしまった。
「ね、ハル」
「うん、なにが」
「だから伯父様のほうが隠し事が下手っていう話。僕にだって見抜けてるんだから」
「それはねぇ……」
 何かを言いたげに春真が溜息をつく。悪戯っぽく笑いつつそんなことをして見せるのだから、妙なところで大人になったものだ、と夏樹は思う。
「なにさ、ハル」
「けっこうどっちもどっちかな、と思って」
 肩をすくめて見せたから、夏樹には春真の嘘がわかった。真人は何も気づかず春真とじゃれている。微笑ましげな景色に夏樹の口許がほころぶ。が、すぐさま凍った。
「ほんとさ、二人の喧嘩ってほとんどあれだよね、夫婦喧嘩」
 真人が動きを止め、夏樹が持っていた湯飲みを取り落としそうになる。
「お前ね、おかしなことを言うもんじゃない。真人が驚いてる」
 春真の言葉を上っ面でたしなめつつ、夏樹は違うことを語っていた。それに了解、と春真が片目をつぶって見せていた。真人は気づかず大きく息を吸う。




モドル