百人一首向けの原稿の助言をもらおうとしたら、夏樹の機嫌が悪かった。真人は怒るでもなく、かえって後悔すらして引き下がる。 夏樹はいま、必死になって原稿を仕上げていた。内容は決まっているのだろう。構成も出来上がっているのだろう。ただ書きあがっていない。 彼にしては珍しいことだった。あまり大汗をかいて仕事をする人ではないのだ、夏樹は。だからそんな彼に自分の用事で話しかけてしまったほうが悪い、真人はそう思う。 諦めて自分用に茶を淹れ、夏樹のぶんは熱いまま盆に乗せて傍らに黙って置く。ちょうどいい具合に冷めたころ、気づくだろう。 そしてもう一度仕事に取り掛かろう、としたときだった。そっと庭にまわって顔を見せた人影。庭に面した居間にいる夏樹は気づかない。あえて気づかせないよう、静かにしているのだと真人は悟る。 だから黙って玄関を指差した。本来ならば客はそちらからくるのだ。が、その客は呼び鈴を鳴らすのさえはばかったのだと真人は知っていた。 「こんにちは」 玄関を開ければ静かな佇まいで客は立っていた。にこりと笑って頭を下げる。 「お久しぶりです」 「珍しいね、土居君。上がって。いまちょうど――」 原稿を仕上げているところだから。ちらりと目で居間を示せば土居は困ったような顔をして笑った。 編集者だった。夏樹は自宅に編集者がくるのを殊の外に嫌っている。彼が締め切りより余裕を持って仕事を仕上げるのはそのせいだろう。 今日のようにぎりぎりになることなど、だからないはずなのだ。万が一、時間が迫っていた場合でも彼は編集者に取りにこさせるより、自分で持って行くほうを選ぶ。土居は貴重な例外だった。 「いまお茶淹れるから、少し待ってて」 「どうぞお気遣いなく」 「でもまだ時間かかりそうだからね」 真人とは実は旧知の仲だった。だからと言うわけではない、夏樹が土居を例外としているのは。 彼はただ、礼節と言うものの真の意味を知っているだけだ。たいていの編集者は、盆暮れ正月に挨拶にきて夏樹に渋い顔をさせる。もっともそれが社会的な礼儀と言うものなのだから、怒る夏樹が間違ってはいるのだ。 土居は自分が礼儀を果たしたと言われたいがために相手を怒らせる無礼を心得ているだけだ。きていいときと、顔を見せてはいけないとき、彼はよくわかっていた。 だから夏樹は土居が原稿を取りにくることを許している。許すというよりは自分の我が儘につき合わせて申し訳ないとすら感じている。たぶんそれも土居はわかっていた。真人はありがたいと思うより少しだけ、妬ける。そんな自分に少し笑いつつも。 「水野先生、お変わりになりませんね」 淹れたばかりの茶に礼を言って土居は口をつけた。それから呟くように旨いな、と言う。 「土居君は少し恰幅が良くなったかな。羨ましいよ」 「腹回りが増しただけですよ、少し体重を落とさないと」 「そうかな。ちょうどよく見えるけど」 言えばこの前、医者に節酒をするように言われたのだ、と土居は小さな声で笑った。 「酒は百薬の長とは言うけどね。すぎると毒だから」 「本当に、水野先生は――」 「おかしなこと、言ったかな」 「いえ。お変わりにならないな、本当に、と」 そうして土居は懐かしそうに目を細めた。彼がこんな顔をするとき、いつもわずかばかり後悔の色が目に宿る。 「藤井さんが亡くなって、何年になりますか――」 遠い目をして土居は言った。若いころを懐旧する口調。その中に潜む苦さ。 「ねぇ、土居君」 昔、彼は藤井桜が起こした出版者の社員だった。水野琥珀の歌を最初に載せてくれた雑誌は彼が手がけたもの。本人はただの助手でした、と言うが真人はずいぶん世話になったものだった。 「桜さんね、知ってたんじゃないかな」 土居は桜が亡くなる少し前、他社へと移っていった。雑誌よりも書籍を重点とした仕事がしたいとのかねてからの希望を叶えてくれる会社だった。それがいま彼が奉職する会社でもある。 「なにを、でしょうか」 土居はだからずっと後悔していたのだった。ほんの少し前だった。土居が転職して、そう時を経ずして桜は亡くなった。 まるで見捨てて出てきてしまったかのようで、今でも苦い物が込み上げる。藤井桜を心から尊敬していた。仕事も面白かった。ただあの会社では望む仕事が充分にはできなかった。それだけだった。決して桜を捨てて出てきたわけではない。そう、思ってはいる。だが。 「桜さん、自分の死期を悟ってたんじゃないかな」 「そんな……」 「なんだかね、最近はそんな気がするんだよ」 「気の、せいですよ。それは」 「そうかな。だって、桜さん、土居君のことをずいぶん買ってたんだよ」 「え――」 桜は真人に土居とは年が近いから、そう言って引き合わせてくれた。真人よりいくつか年下だと聞く。ただ童顔のせいで土居のほうが年上だとばかり思っていた、かつて桜はそう笑っていた。 「いつかもっと大きな仕事をさせてあげたいけれど、自分のところは雑誌が主体だから難しいって、言ってた」 「藤井さんが、そんなことを」 「うん。書籍、やりたいって言ってたものね、土居君。桜さんも、もっとやりたかったんじゃないかな、ほんとは」 「でも、できなかったから、いえ」 「そう。やるつもりだった。計画だって、してたんじゃないかな、あの人のことだから。でも、できなくなっちゃった。だから、土居君を転職させた。僕はそう思ってるよ」 持ったままの湯飲みを土居はきつく掴んでいた。そんなことはない、一概に否定はできなかった。藤井桜ならば、たぶんそう考えただろうことが容易に想像できる。 「だからね、土居君。いつまでも悔やんでたら、桜さんが怒ると思う」 自分の好意だったのに。なぜ素直に受け取らないのか。彼女はそうやって笑って叱る人だった。思い出が色鮮やかに色づいて土居はそっと笑みをこぼす。 「……水野先生、ずいぶん強くなりましたね」 「そうかな。変わってないと思うけど」 「嘘ですよ。はじめてお見掛けしたとき、こんな人で大丈夫なのかなと思いましたから」 「見かけたって、いつ。最初は桜さんが会わせてくれたときだよね」 首をかしげる真人に土居は目許で否定した。声も潜め、仕種さえも抑え目なのは隣室で原稿を書く夏樹のため。 「違いますよ。はじめて会社にいらしたとき、あったでしょう」 「桜さんの会社にはじめて行ったっていうと……。あぁ」 思い出して真人の口許がほころんだ。夏樹の原稿の使いだった。あの直前まで彼が篠原忍と言う高名な作家だとは知らなかったような気がする。確か紙に書いてもわからないような複雑な血縁を説明されたのもあのころだった。 「篠原先生のご紹介で、藤井社長に会いにいらした、あのときですよ」 「あれは篠原さんの悪戯だよ」 真人は顔を顰める。原稿を持って行ってくれ、とだけ言われたのだ、真人は。確かに桜に紹介しておくとは言われた。一応、紹介状が入っているとも。だがあんなものは紹介状とは言わないと真人はいまだに固く信じて疑わない。 「ご存知じゃなかったんですか」 「知ってたらあんな風にあつかましくのこのこ行けるもんか」 真人らしくもなく無頼ぶって言えば土居がくすりと笑った。 「あのとき、私もいたんですよ」 「え、そうなの……」 「社の片隅で、先輩がたの雑用係でしたけどね」 当時のことを思い出した土居の眼差しに、はじめて心からの懐かしそうな色が浮いた。 「ですから、あの篠原先生がご紹介になった歌人ってどんな方なんだろうなんて、興味深々と覗いてました」 「こんな男でがっかりしたでしょう」 悪戯っぽい真人の言葉に土居は顔の前で手を振って見せた。無造作な仕種だが、そのぶん付き合いの長さが窺えるようで真人はどことなく嬉しくなる。 「歌人の先生とはお付き合いがなかったですから、どんな想像をしていたんだと問われても困るんですけど」 「でも、してたんでしょ。どんな風にかな」 「そうですね――」 ちらりと居間の気配を窺えば、まだ夏樹は仕事中らしい。その真人の仕種を読み取って土居も言葉を続ける。 「線の細い、華奢な方ではないかと。儚げで繊細な方、と言うような想像をしてましたね」 「それが土居君の歌人に対する想像なの」 「当時は、ですよ。でも当時は本当にそう思ってましたから」 「まったく。与謝野晶子を見てから言いなよ」 「ご自分と女性を比べるのが間違ってますよ」 「まぁね、それは否定しないけど。だったら色々な意味で僕なんか、がっかりしたでしょ」 「がっかりはしませんでしたけど。驚きましたよ」 「どうして」 不思議そうな真人に土居は首をかしげる。いまだに若々しいこの歌人は、自分がどのように見えるのかと言う自覚が昔も今もないらしい。 「小柄でおとなしそうに見えるのに、目の奥に芯がありましたから。あぁ、こんな目をしてないとだめなんだなぁと思った記憶があります」 「そんな変な目をしてたかなぁ。緊張してたせいじゃないかな」 笑って真人は土居の言葉をいなした。少しばかりひやりとする。あのころはまだ、自分が軍人であった意識が抜け切っていなかった。いまになってようやくそれがわかる。抜け出したいと足掻いていた若かりしころだった。 「それなのに」 隣室を気にしつつ、土居がこらえ切れなかった笑い声を漏らした。軽く口許を覆って真人を見る。 「篠原先生がお迎えにいらしたんですよね」 「あれは――」 「外出嫌いの篠原先生でも、秘蔵っ子さんのためには出ていらっしゃるんだ、と思ったら驚くやらおかしいやら」 真人が言い返そうとしたちょうどそのときだった。はたと土居が振り返る。 「出来上がった。悪かったな、待たせた」 夏樹に向かって、とんでもない、そう頭を下げつついそいそと原稿を受け取り土居は立ち上がる。真人には言い返す機会を失ったのを悔やむべきか、それとも有耶無耶になったことを喜ぶべきかわからなかった。 |