夏樹が縁側で猫をからかっていた。少し疲れがあるのか、このところあまり食が進まないせいで真人の目には頬がやつれたように見えてしまう。
 足元にじゃれていた猫が彼に飛びかかった。それを意外な機敏さでよけたから、やつれたと言うほどではないのかもしれないとほっとした真人に聞こえる笑い声。ちらりと見やればこちらを見た夏樹が再びくすりと笑った。
「また笑ってる」
「……そうか」
「気のせいだとか言うんじゃないでしょうね」
 自分の言葉がぴりぴりとしているのを真人も感じないでもない。だが怒ってはいないのだと彼はわかってくれることだろう。
「すまん、思い出し笑いだ」
「だからそれが嫌って言ってるんでしょうに」
「そうだったか。気をつけよう」
「白々しい」
 ぷい、と横を向いた真人の口許だけが笑っていた。その顔が笑みに染まる。庭先から声がした。
「真人さん、遊びに来たよ」
 にっこり笑って真人は春真を迎えに出る。中学に入って会うたびに背が伸びたような気がしてしまう。
「また少し伸びたかな」
「気のせいだって。そんなにすぐ伸びないよ」
「そうかなぁ」
 言って真人は春真の頭に手を伸ばす。自分の身長と比べるつもりだろう。だが照れたように春真は身を引いた。
「はい、これ」
「ん、なに」
「親父殿のお使い。どっかのお菓子だって。真人さんが好きだろうから持ってけって」
 母親とはだいぶ親しんだようだったが、どうにも父は素直にお父さんとは呼べないでいるらしい。ただそれは幾分の照れであって、この年頃の少年ならば誰にでもあることかもしれない。
「あぁ、ありがたいねぇ。僕がお礼を言ってたって、伝えてくれるかな」
「うん、わかった」
「……よう」
「なんだ伯父さん、いたの」
「さっきからここにいるだろうが」
 すっかり無視された夏樹が機嫌を損ねたような声を出した。それを二人して小さく笑う。春真が日常生活から去ってしまった切なさが不意に真人の胸に湧き上がる。
「あ、いけね。忘れてた。これ、猫に土産ね」
 またも伯父を無視して春真は挨拶に来た猫の頭を撫でてやる。
「おや、いい猫だ。ちゃんとハルを覚えてる」
 真人もその額を撫でてやればごろごろと甘えた声を上げた。
「ハル、これはなに」
「煮干。猫、煮干が好きでしょ。普通、鰹節じゃないの」
「どっちも海産物だし。いいんじゃないかな」
「……海苔も食うぞ」
「伯父さんには聞いてないし」
 反抗期なのか、と呟く夏樹の声に春真はそっぽを向く。こんな可愛らしい反抗期などないだろう、と真人は笑いをこらえかねていた。
「こっちは真人さんにお土産ね」
「僕にもあるの、嬉しいね。ハル、大きくなったねぇ」
「もう、よしてよ」
 かすかに頬を赤らめたのに夏樹が多少いやな顔をしたのが真人の目に入ってしまった。子供相手になにを考えているのか、と口に出さずに彼を睨む。伝わったのだろう、先ほどの春真のようにあらぬ方を見やった。
「……ハル、これ」
「角の肉屋のメンチ。真人さん、好きでしょ」
 まだほかほかと手に温もりが伝わってくる。ありがたく思う反面、なにやら複雑な思いもまた込み上げる。
 と、夏樹が声を上げて笑い出した。それもついにこらえきれなくなった、といわんばかりの高らかな笑声。
「伯父さんが笑ってるし」
 長い間この家に住み暮らしていた春真ですらも珍しい。夏樹が声を上げて笑うのは。呆気にとられる春真を横目に見つつ真人は頭を抱えたくなった。
「夏樹、いい加減にしてよ。もう」
「ねぇ、何かあったの。伯父さん、どうかしちゃったの」
「まぁ、その、ね」
 言いにくそうな口ごもり方だったのならば、春真は引いただろう。春真は真人が思っているよりもずっと大人だった。だが、真人が浮かべていたのは呆れたような照れたような表情。
「ねぇ、真人さん」
「……この前ね、ちょっとね」
 そう言ってぽつりぽつりと話し出すうちに興奮してきたのだろう、真人の口調がきっぱりとしたものに変わっていく。
「買物帰りに買ったものを放り出して猫が体中につけた草の実を取ろうとした僕も悪いよ、そりゃね。でも笑って見てることないよね。あまつさえ」
 憤懣やるかたない、とでも言いたげな顔。そのときのことを思い出したのかほんのりと頬まで染めている。思わず見惚れた春真の目の端に伯父がいた。一瞬だけ渋い顔をして、すぐさま元に戻す。真人に見られないためにだとはわかっていたが器用な伯父だと呆れてしまう。
「僕を猫扱いだよ。そりゃ僕も養われてる身だけどさ。酷いよね」
「ちょっと待て、俺はお前を猫だと言った覚えはないぞ」
「嘘。猫二匹と……」
「同居している覚えはないって言ったんだ」
「でもそのあと、拾ったときは人間だったって言った」
「……言ったな」
「はい、伯父さんの負け」
 上手に春真が笑って入った。すまん、と夏樹は春真に目配せをして見せる。貸しひとつ、とでも言うよう春真の目が光っていた。
「だいたい伯父さんが悪いんだよ」
「だよね、ハルもそう思うよね」
「思う思う。なにそれ、拾ったって」
「いやそれは事実なんだけど」
「事実としても言っちゃだめでしょ。伯父さん、どれだけ真人さんの世話になってるかわかってるの」
「まぁ、わかってはいるつもりだが……」
 歯切れの悪い言葉に春真は子供らしく食って掛かる。夏樹としては非常にやりにくい相手だった。
「わかってない。絶対わかってない」
「感謝もしてる。ありがたいと常々思ってる」
「思ってたら拾ったなんて言わない。酷いよ、伯父さん」
 最後は可愛らしく詰ってまで見せた。つくづく春真の将来が心配でならない夏樹だった。言いたくはないが、実家に帰ってからいささか演技に磨きがかかった気がしてならない。誰の影響だ、と考え込んでしまう。
「ちょっと聞いてるの、伯父さん」
 先ほどの仕返しだとばかり、真人は笑い転げていた。本当は春真が責めるようなことではないのだ、とわかっている。ただ真人は見たかっただけだ。あの日にあった情景を。
「お前、兄貴とはうまくいってるのか」
「急になんだよ。仲良くしてるよ。ちょっとかまわれすぎるけど」
「なるほどなぁ」
 にやりと夏樹が笑った。短い言葉のやり取りで、そういう態度は春樹の影響かと尋ね、答えた。
「ばれてたかな」
 小声で伯父の耳許に囁けば、年季が違うと返された。春真はそっと笑って体を離す。敵わないな、と思いつつ敵いたいのかもわからなかった。
「だいたいさぁ、伯父さん」
 真人がなにかおかしな雰囲気に気づくより先、とばかりもう一度春真は詰りはじめた。致し方ない、と夏樹は生返事をしつつうなずく。
「それ、その態度。ほんと伯父さん、わかってるの」
「だから、なにをだ」
「真人さんがいなかったら伯父さん、絶対に洗濯物に埋もれて埃だらけの部屋で餓死するに決まってるって」
「おい、真人」
 呆れ返った、とばかり夏樹は真人を見やった。見られた真人は自分ではない、と必死になって首を振っていた。
「子供相手になにを教えたんだ、お前は」
「だから僕じゃないって言ってるじゃない。まぁ……聞いてたかもしれないけど、僕の独り言くらいは」
「だったらお前のせいだろうが」
「だって……その」
 困ったな、と眉を下げた真人に春真は慌てる。二人の間に割って入って首を振った。
「違うって。真人さんじゃないって」
 真人を背にして伯父の前に立つ。この人を庇っているのは自分のほうだ、と伯父にだけ見えるよう誇らしげ。
「念のために言っておくと、いじめてはいないぞ」
「どこがー。真人さんをいじめる伯父さんは許さないぞー」
 子供っぽく言えば、背後の真人に頭を叩かれた。
「発音が悪い。僕はハルをそんな喋り方するように躾けた覚えはないよ」
「はい、真人さん」
 これが夏樹に言われたのであったら春真は不貞腐れたよう、はぁい、と言って見せたことだろう。けれど端正なほどの笑みを浮かべて真面目にうなずく。
「それでね、伯父さん。聞いたのは真人さんからじゃないよ」
「じゃあ誰だ。子供にそんなことを聞かせるのは」
「わかってるでしょ、親父殿だよ。真人さんがいなかったら絶対に云々って言ってた」
 夏樹が長い溜息をつく。仕方のない弟だ、と言うふりをして春真の嘘を容認し、隠す。
 確かに真人本人が言ったのではないだろう。そして冬樹でもない。ならば誰か。真人の書いたものを読んだに決まっている。おおかた例の百人一首の随筆だろう。
 読んだ、と一言いってやれば喜ぶだろうに。思った夏樹は内心で小さく笑う。知られたくないのか、と。間違いなく春真は和歌の随筆としてではなく、真人の日常を窺わせる懐かしいものとして読んだのだ。それは水野琥珀の本意ではない、そして親代わりの真人の本意でもない。それを春真はよくよく理解していた。
「まぁ、冬樹にまでそう思われているようじゃ仕方ないか」
「仕方ないも何も事実でしょ。ね、真人さん」
「まぁ、そうかもね」
 二人の間に何かやり取りがあったのは真人にも感じ取れた。ただ二人とも言いたくはなさそうだとも思った。だから真人はそっと微笑む。言うべきことならば春真が帰った後にでも彼が言ってくれるだろう。そう思えるだけの年月が二人にはあった。
「いけない、メンチ。冷めちゃうよ」
「おい、春真。俺にはないのか。土産」
「えー。しょうがないな、余分に買ってきたメンチ、伯父さんにもあげるよ」
 いかにも嫌そうに言う春真に真人は大きく笑った。最近食欲のなかった夏樹でも甥がわざわざ自分の小遣いで買ってきたメンチならば食べるだろう。弾む気持ちを抑えかね、真人はもう一度笑って茶を淹れに立った。




モドル