先ほどまで仕事をしていたかと思えば、突如として飛び上がるようにして立ち上がり、一転して微動だにせず考え込む。そして台所に駆け込んで探し物をはじめた真人に夏樹は訝しげな目を向けた。
「……おい」
 あれでもないこれでもない、どこにいったと一人でぶつぶつと言っているからきっと聞こえてはいないのだろう。
「どうしたんだろうね、真人さん」
 きょとんとして春真が台所を窺っていた。次の春には実家に戻る、と決まっていた秋のことだった。
「ねぇ、夏樹。知らないかな」
 顔だけ覗かせて真人が尋ねてきた。思わず夏樹は口許に笑みを刷く。昔から妙なところで粗忽な男だった。
「それじゃわからんだろうが」
「あぁ、ごめん。お酒」
「流しの下にしまってあるんじゃないのか、いつもそうしてるだろう」
「料理酒じゃなくって。いただき物の二級酒」
 先ほどからがさごそと探しているのはそれだったのか、と夏樹は納得する。が、なにを探していたのかわかっただけで目的が皆目わからない。
「ちょっといいお酒だからって、いただいたじゃない」
 本当にいい酒は、酒蔵のほうが級の審査に出すのを嫌がるのだ、と聞く。理由は知らないしそれが本当なのかも真人は知らない。ただ審査に出さなかったせいで二級だけれど、といただいた酒はいつも中々に旨い。
「あぁ、あれか。どこだったかな」
 二人ともさほど家で飲むほうではない。真人はかなりいける口だと夏樹は知っていたが、旅先で少々すごすことがある程度。まして春真がきて以来、家でたくさん飲むことはない。
 と言うよりも、日常的に酒を口にすることがない。そのくせ、夏樹には少しは飲めばいいと真人は勧めた。多少なりとも食欲が増すことを祈ってのことかもしれない。
「真人さん、なんか変な絵の書いてあるちっちゃな瓶のお酒のこと」
「そうそう、一升瓶じゃなくって四合瓶って言うんだよ」
「だったらそれって――」
 ひょいと春真が立ち上がり、いままで二人が探していなかったところを指差す。もっとも、夏樹はいるだけで役に立っていなかったが。
「あ、そこだったか。あった、あったよ、ハル。ありがとう」
 満面の笑みで真人が酒瓶を抱えた。
「そんな格好をしていると無類の酒好きに見えるぞ」
 からかう夏樹に真人は唇を尖らせて拗ねて見せた。そして自分の子供じみた態度に思わず吹き出す。
「だって。見つかってよかったんだもの」
 そう言って抱え込んだ酒瓶をしげしげと見つめた。そして春真を見つめ、酒瓶に目を戻し。
「ねぇ、ハル。変な絵って、これ。変なのかな」
「うん、変。なんかべろーんて歪んでるもん」
「うーん。達磨なんだけど」
「えー。達磨さんって、もっとかっこいいよ」
「――達磨を格好いいと言うお前の感性が俺にはわからん」
 呟いた夏樹の声は二人に無視された。春真がこの家にきてからはこういうことが増えた気がした。が、その春真ももうすぐ実家に戻ってしまう。だからこそ、あえて二人ともが今まで過ごした時間の繰り返しをしているような気がした。
「で、どうしたんだ。急に」
 真人に話しかければ、そっぽを向いた。いまはまだ話したくない、と言うことかと夏樹は諦めて座敷に戻る。仕事の続きをもう少ししてしまいたい。
「夏樹」
 その背中にかけられた声。夏樹は振り返らず片手を上げた。詫びていた。詫びる必要はないと伝えた。微笑みの気配。つられて浮かんだ口許の笑み。
「ほんと伯父さんってそっけないよなぁ」
 文句を言う春真に今度こそ夏樹は振り返る。にんまりと笑っていた。
「ガキが。お前には何もわかってないな」
 真人が何事かを必死になって言っていたが、都合のいい夏樹の耳は一切を無視した。大変よい気分で仕事を片付ける。久しぶりに捗った。
 そうこうしているうちに夕食で、今夜も真人の手料理が食卓に並ぶ。ふと夏樹は訝しげな顔をした。
「どうしたの、夏樹」
「伯父さん、変な顔」
 二人が揃って声を上げたのに夏樹は苦笑する。そして目で食卓の上を示した。
「あぁ、お酒のこと」
「珍しいからな」
 食事時に銚子と杯が出ていることがまず、珍しい。春真の前で飲もうとするとなると異常事態並みに珍しい。
「ハル、花瓶とってくれるかな」
 真人は答えず、春真に頼みごとをする。なぜとは聞かずにいうことを聞く春真に夏樹は苦笑いをこぼした。自分ではこうはいかないと。
「あぁ、そうか……」
 花瓶には、真人が庭で丹精した菊の花。清々しい香りと白さ。そして秋。
「今日は重陽か」
「うん。また忘れちゃってて」
「なにをだ。何か、忘れてたか」
 首をかしげて問う夏樹に真人はそっと春真を見やった。その眼差しを受けて春真こそが問いたいような顔をしている。
「ハルがね、おうちに帰る前に一度、菊の着せ綿を見せてあげようと思ってたのに」
「菊の着せ綿って、なぁに」
 実家に帰る、と言う言葉を春真は聞き流した。いまは聞きたくない、はっきりと態度で語る。その頭を真人は撫で、菊の花弁に手を触れる。ひんやりと冷たい心地がした。
「菊の花にね、前の日のうちに綿を乗せておくんだよ」
「綿――」
「うん。次の日になると、しっとりと露を含むでしょう。その綿で体を拭うとね」
 老いを捨てられる、というものなのだが真人は口ごもる。それを言えば春真が夏樹をからかうのが目に見えている。だから言葉を変えた。
「病気にならないとか、健康になるとか言うよ」
 むしろ、真人はそれであっているのだと思っている。そう願っているのかもしれない。夏樹が健康であることを。少しでも元気になってくれることを。
 真剣に思えば思うだけ、毎年つい手が鈍る。こんな祈りじみたことをするのを彼が望まないのではないのかと。
 だからこそ忘れたと言い張ってきた。夏樹が、重陽の風習を知らないはずがない。だから忘れたと言えば、逆説的に何を気にかけているのか、彼は知ることだろう。
 今までは、それでよかった。ただ今年は。春真がこの家で過ごす最後の秋。忘れずにしようと思っていたはずが、真人は今年こそ本気で忘れた。
「残念なことだな」
 真人の表情に表れた感情に、夏樹は呟く。真人は忘れたかったのだろう、と彼は思っていた。春真が帰ってしまうことを。この秋が過ぎなければいいと思っていることを。
 無言で夏樹に向けた真人の目が、かすかに潤みを見せ、そして何事もなかったかのよう笑って見せた。
「本当にね、見せて上げられなくって残念だよ」
 春真に微笑んで、真人は目を細める。その間に心を立て直したのだと気づいたのは夏樹だけだった。
「ねぇ、夏樹。お許しをもらえるかな」
「なにが――。あぁ、そういうことか。かまわんよ」
「よかったね、ハル」
「ん、なにがなの」
 無邪気に真人を見上げる目。もう幼いというほどではないのに、真人はつい頭を撫でたくなってしまう。
「待ってて」
 銚子から、杯に酒を注ぐ。澄んだ酒と甘い香り。
「ここにね」
 言って真人は菊の花弁を摘んでは杯に散らした。はらりと白い花びらが酒に舞う。子供ながら春真はうっとりとそれを見つめた。
「だから、ぐい飲みじゃないのか」
「うん、この方が綺麗じゃない」
「そうだな」
 特別な日に、と真人が大事にしている朱塗りの杯だった。なんの模様もなく、ただ口のところにぐるりと一周、控えめに金箔がおいてある。
「きれい……」
 こっくりとした朱色に浮かぶ透けるような白。春真が感に堪えかねたとばかり、溜息を漏らした。
「菊酒っていうんだよ」
「これも――」
「うん。病気をしないようにってね」
 いままでは春真が眠った後、そっと夏樹の手元に出してきた酒。今年ばかりは見せてやろう。着せ綿を見せられなかったのだから。
「春真、飲んでいいぞ」
「え、いいの」
「一口だけだ。祝い事だからな」
 伯父に言われて春真はいそいそと杯に唇を寄せた。酒の味は、本当は好きではない。正月の屠蘇など、正直に言えば大嫌いだ。
「あ――」
 だがこの酒は。菊酒は。鼻先に香る、つんとした酒の匂い。そこに立ち混じる菊の香。急に大人になった気がした。
「はい、伯父さん」
 照れて無造作な手が伯父に杯を押し付ける。眉を上げて怒るふりをし、けれど夏樹は受け取った。
「旨かったか」
「そんなこと、わかんないよ」
「嘘つけ。顔に書いてある」
 春真が言い返すより先、飲みさしの杯から夏樹は一息に酒を煽った。
「あぁ、夏樹。花びら――」
 一緒に飲んでしまってはさぞ口当たりが悪かっただろう、と案じた真人の前、杯が返される。
「ほんと、器用な人」
 呆れて真人は杯を見ていた。そこにはきれいに花弁が残っている。
「すごいや、伯父さん。どうやって飲んだの」
 感心する春真に夏樹は目だけで微笑む。大人になればわかる、とでも言っているようだった。
「真人、銚子」
「え――」
 戸惑う真人の代り、春真が伯父に銚子をとった。二人で企みごとでもあるかの顔。杯をきれいにし、夏樹が酒を注ぐ。そこに春真が花弁を散らす。
「ほら、お前も」
 つい、と差し出された杯に真人は目を丸くする。飲まないつもりではなかった。だが自分で仕度をするつもりだった。
 二人が作ってくれた菊酒。鼻の奥がつんとする。それを隠すよう、夏樹を真似て一息に飲み干す。彼のようきれいに飲めない真人を春真が囃して笑った。




モドル