咳もつらいが、熱でぼんやりとした体がうまく動かないのが最もつらかった。滅多にひかない風邪とはこのようなものだったと思い出す。 真人は風邪をひいていた。あの晩、長く夜風に当たりすぎたらしい。夏樹が温めておいてくれた半纏も体に宿った寒気を追い出すことはできなかったようだ。 「どうだ」 襖の向こうから、咳が気になったのだろう、夏樹が声をかけてくる。真人は無言で襖の隙間を見やった。 「まだつらそうだな」 原稿を書いている間は人が話しかけてもほとんど聞こえない男だった。それなのにたかが咳の音が気になるはずがない。 「水、飲むか」 わざわざ立ち上がり水を汲んでくる。原稿を書いているその最中に。 「夏樹――」 掠れた声に自分で笑ってしまう。その拍子にまた咳が出た。 「喋るな」 頭を支えて飲ませてくれた。ありがたいより気恥ずかしい。 少しだけ、普段の自分の態度を反省した。彼が病に伏せるたび、自分はもっと邪険に扱っている気がする。 早く治って欲しい、だからおとなしく寝ていて。そんな感情がありありと透けていたのではないか。優しいくせに不器用な彼はそれをどう思っていたことだろう。 「ありがたいな」 小さく笑って夏樹が布団を直した。妙に手馴れていて、真人は訝しく思う。 「なにが」 「お前が」 こうして静かに寝ていることがか。仕事の邪魔はされないし、今日は家の中もずいぶんひっそりとしていることだろう。 「違うからな」 考えていることが筒抜けのその表情に夏樹は苦笑して彼の額を撫でた。熱に浮かんだ汗にしっとりと濡れている。これではつらかろう、と夏樹は濡れた手拭いをとりにいく。 「どうだ」 冷たいそれを額の上に乗せてやれば真人はほっと息をついた。よほど心地良かったのだろう、口許にかすかな笑みが浮かぶ。 「こうしてな――」 身じろいだときにできてしまった布団の隙間を夏樹は手で叩いて直した。ぽんぽんと直すその音が、太陽の温もりのように聞こえる。 「いつもお前がやってくれるだろう」 自分が寝込んでいるとき。仕事の途中だろうが関係なしに真人は見にきてくれるではないか。夏樹の言葉に真人は瞬きをする。 「当たり前じゃない」 喉に絡んだものを払えば、また水をくれた。汲み立ての水がこんなにも旨い。 「お前が看病してくれるからな、俺はいつも早く治る」 どこがだ、と言いたげな真人の顔に夏樹は微笑む。そっと頬に手を当てれば熱かった。まだまだ熱は高いらしい。 「お前が看病してくれるから、俺はこうやってお前の看病をしてやれる」 昔は看病の仕方なんか、知らなかったからな。夏樹は言い足して真人の汗ばんだ髪を撫でた。 髪に触れられるその感触が、頼りなくなるほどに心地良い。普段とは逆の位置で彼を見上げているのは不思議でそして気持ちよかった。 「夏樹――」 「うん、どうした」 「お水、もっと」 甘えているのだ、と自分で気づいたときには遅かった。頬に上った熱も、発熱に誤魔化されてしまってわからなくなる。それでも見抜いた夏樹が口許に笑みを刻んだ。 「ほら、こぼすなよ」 その言葉に覚えがあった。いつも彼が伏せるたびに、自分が言っている言葉。横になったままの彼の口許に湯冷ましを含ませるときの言葉。 「湯冷ましのほうがよかったか」 「ううん」 「まぁ、旨いものではないらしいがな」 「夏樹は――」 「飲み慣れているせいかな。嫌いじゃない」 肩をすくめた夏樹に、今度彼が寝込んだときにはもう少しおいしいものに変えよう、と真人は決めていた。 「いつも自分がしてもらってることを、してやれるのは嬉しいもんだな」 嫌味ではなく、彼の本当の気持ち。それが伝わってきて真人は眼差しを伏せた。 「なぁ、真人。食欲はあるか。食えそうか」 これもいつも自分が尋ねる言葉。子供のように無邪気に夏樹は真似をする。だから真人は逆らえない。たとえまったく何も食べたくないとしても。 「うん、食べられそう。ちょっと待って――」 「おい」 「なに」 「それは俺の台詞だ。なにをするつもりだ、お前」 「なにって。ご飯の支度――」 言った途端に熱のある頭を叩かれた。ふらついて、寝床に倒れそうになる。慌てた夏樹が支えたけれど、そもそも体を起こしてもいなかった。 「お前な」 くらりと歪んだ視界の中、夏樹が呆れていた。仕方のないやつだとばかり、動いたときに落ちてしまった手拭いを直される。 「俺がするから、ちょっと待ってろ」 「それって――」 「なんだ」 「……ううん」 さすがにあなたに食事の仕度ができるのか、とは問いかねた。遥か昔はひとり暮らしをしていたはずだ、夏樹は。たぶんそのころは露貴がほとんど面倒を見ていたのではないか、と真人は疑ってはいたが、そうだとしても三食毎度毎度作ってくれていたわけではあるまい。ならば、多少のことはできるのだろうか。 「そう言えば……」 もう台所に行ってしまった彼の背中を目で追いつつ真人は一人、呟く。 こんなに酷い風邪は久しぶりだった。が、生まれてこの方はじめて、と言うわけでもない。昔は軍人だった真人だ。根本的に体は丈夫だ。だから夏樹ほど頻繁に寝つきはしない。 それでもたまには風邪もひく。一晩寝ればたいていは、治ってしまう。それでも治らなかったことが、いままでなかったわけではない。 「前に……」 こんなことがあったはずだ。あのときは、確かもっと酷かった。なぜならば、そのときのことをいまでもあまり思い出せないせい。朦朧とした記憶の霧に覆われている。 「でも」 看病してくれた人がいる。気のせいでないのならば、それは夏樹だった。わざわざ看病をさせるためにだけ誰かを呼びつけたはずがない。 あれは、でも。誰だったのだろうか。本当に彼だったのだろうか。思ううちにとろとろとした眠りに引き込まれていった。 「おい」 枕元で呼ぶ声に、真人は目を開ける。夏樹愛用の小さな鍋を持っていた。彼が寝込んだときのおじや専用の鍋。 「あぁ……ごめん。寝ちゃってたかな」 「うとうとしてたが、食べてから寝たほうがいいだろう」 「うん、ありがとう」 真人ならば、枕元には正座する。夏樹は照れているのだろうか、落ち着かない素振りで胡坐をかいた。そして覚束ない手でおじやをよそう。 「ほら」 椀を突き出して、そして戸惑ったよう首をひねる。それから思いついたのだろう、突き出した椀を引っ込めた。 「夏樹、お椀ちょうだい」 「いい。待て」 「ちょっと、夏樹」 体を起こした真人に彼はにやりと笑う。手に持った椀に匙を入れる。これ見よがしに吹き冷まして見せる。 「ほら、熱いぞ。気をつけろよ」 「ちょっと、夏樹」 「ん、なんだ。いつもお前がしてくれてるようにやったんだがな。気に入らなかったか」 心から心配そうな顔。けれど騙されてやるほど真人は人がよくはない。 「僕、そんなことしないと思うけど」 「嘘つけ。いいからさっさと食え。冷めちまうぞ」 差し出された匙が、かすかに震えていた。真人は自分が眩暈を起こしているのだと、そう思った。けれど。 「……うん」 違った。緊張して、幾分は照れて。そして震える匙。熱いおじやからほこほこと湯気が立つ。 「どうだ。食えそうか」 「うん。おいしい。――ありがとう」 「なにを……別に。まぁ」 そっぽを向いて、椀の中身をかき混ぜた。それから吹き冷ましてまた口許に運んでくれた。不器用な親鳥のように。 「ねぇ」 「なんだ」 「夏樹、作ったんだよね」 「悪いか」 「ううん。おいしい」 「嘘つけ」 おじやに味はしなかった。風邪のせいで舌が鈍っているせいもあるのだろう。けれど味らしい味が本当にない。精一杯に刻んだ葱は大きさが不揃いで、時々大きな塊には火が通っていなかった。溶き卵も、思い切り火が通り過ぎたところと、完全に生のところがある。 「ううん。本当に」 かき混ぜすぎてどろどろになったおじや。火加減を間違えて少し焦げたおじや。 「本当に、おいしい」 けれど夏樹が作ってくれたおじや。 「おい……」 ふっと、真人の目が潤んだ。自分で驚いたのだろう、照れて笑った真人が目許を拭う。 「泣くほどまずいか」 「だから違うって。――もう」 からかわれたのを知った真人が少し笑った。それから口を開けて匙を待つ。 「まだ食えるか」 「あなた手製のおじやなんて、滅多に食べられないんだもの。残すなんてもったいない」 「できれば二度と食って欲しくないがな」 頼むから病気なんぞしてくれるな。言葉の裏側の声のほうが真人にははっきりと聞こえた。そっと、けれど力強くうなずいて真人は彼のおじやをきれいに食べた。 |