珍しく夏樹の取材旅行が続いていた。立て続けにあちらこちらと行くものだから編集者は大変だろう、と真人はつい笑ってしまう。
 何しろ食事が口にあわない、と言うのならばまだわかる。彼は茶が口にあわない、と言って文句を言うのだ。これではいかに付き合いの長い編集者でも音を上げることだろう、と思う。
 幸い、直前の旅行に同行したのは彼が最も馴染んだ編集者である土居だった。あの男ならば適当にすかして相手をしてくれたことだろう。
「真人、茶」
 横柄に言う彼に真人は淹れ立てなのにぬるい茶を持っていく。一口飲んで夏樹は満足そうだ。膝上の猫が彼の代わりのよう、ごろごろと喉を鳴らした。
「ご機嫌だね」
「まぁな」
「あなたじゃない、猫」
 言って猫の頭を撫でてやる。夏樹同様、横柄な目つきで見上げ、猫は真人の手を許す。撫でさせてあげる、といわんばかりの目に真人は笑った。
「酷いことを言う」
 むつりと言うくせ、夏樹の機嫌は悪くない。むしろ近年稀に見るほどよい。帰ってきた、その気持ちが彼をくつろがせていた。
「どうだった、旅行」
「まぁな」
「それじゃ、わからない」
 笑う真人に夏樹は口許を歪める。なにを言えばいいのか、困っているその姿が好きだった。
 真人もまた、彼に感化されるようくつろいでいた。彼がいない日々はこれで一段落する。外出嫌いの人嫌い、それなのに度々否応なしに家をあける夏樹。
「やっと、ゆっくりできるかな」
 彼がいない家はがらんとして、まるで自分までいないかのよう、人気がなくなる。火の気が絶えて、無人の廃屋のよう。
「悪かったな」
 ぽん、と猫にするよう夏樹は真人の頭に手を置いた。それに黙って真人は頭を振る。拒絶ではない。ただ、どうしようもなく寂しかった馬鹿みたいな自分を遠くにやってしまいたかった。
「あなたがいないと――」
 言ってしまってから、口に出していたのだと気づく。はたと黙った真人を促すよう、夏樹の眼差しが額に注がれていた。
「なんだか、うちが廃屋みたいな感じが、しちゃって。馬鹿みたいだね。子供じゃないのに」
「廃屋、か……」
「ごめん」
「いや」
 小さく笑った夏樹が、そっと真人を抱き寄せる。軽く額に唇を寄せるのは、昼間だと言うのにもう春真がいないせい。邪険にどけられた猫が、みゃあ、と抗議した。
「なぁ、真人」
 真人が思い煩うより先に、夏樹は声を上げる。それに夢想を醒まされたのだろう真人が腕の中でびくりとした。
「お前、親父様の日記、読んだっけな」
「ううん。あなたに、さわりは聞いたけど。だいたい父親が息子に宛てた手紙みたいなものじゃない、僕が読んでいいわけがない」
「いずれ読んだらいいさ、時間があって気が向いたときにでも」
「いい。読まない」
 それは真人なりに何かを思うせいなのだろう。決して父を嫌っているだとか、腹を立てているとかそういうことではない、と夏樹は知っていた。
「それで、夏樹。お父様の日記がどうしたの」
 なにを突然そんなことを言い出したのか、と真人は訝しげに彼を見上げる。いまはただ腕の中に包まれる、そのぬくもりに漂っていたかったものを。
「あぁ……」
 ためらうよう、夏樹は部屋の中を見回した。真人の目もまたそれにつられる。猫までつられた。横柄な猫は、腕に真人がいるというのに、ここは自分の場所だとばかり、再び夏樹の膝で丸くなっている。
「この家は、親父の恋人が住んでた家だったな、と思ってな」
「あ……そういえば。そうか、そんなこと、言ってたね」
「薫さん、だったか。綺麗な人だったな」
「美人じゃなくって悪うございました」
「あのな、真人」
 呆れ声の夏樹に真人はくつくつと忍び笑いを漏らす。心底困った顔をしているのが見なくともわかった。
「――丈夫な家だよな」
 唐突に、真人の笑い声が止まった。思えば薫と言う男は、この家で亡くなったのだ。かつての震災で。
「そう言えば……」
「あぁ、ここで亡くなった。親父を残して。時々思う」
「なにを」
「薫さん、化けて出てこやしないかと思ってな」
「夏樹、なんてことを」
「だってそうだろう」
 窺うよう、夏樹は真人の顔を覗き込む。顔つきこそはにんまりと笑っていた。けれどその目。
「俺が薫さんだったら絶対に化けて出る」
「ふうん、そう」
「なんだよ」
「だって――」
 どうやら拗ねたらしい真人の額にくちづければ、体ごとそむけようとし、けれどぬくもりを捨てられずにいる気配。
「薫さんは、心配じゃなかったのかね。俺が彼だったら、一人残して死ぬなんぞ、それこそ死んでも死に切れん」
「だから」
「あぁ、化けて出てやる」
「それって、恨んでるように聞こえるけどな」
「どこがだよ」
 今度は夏樹が拗ねて見せる番だった。いい年をしてどころか、いい加減に人様からは立派に大成して落ち着いた、と言われる年だと言うのに二人きりの時には互いにこんな顔をする。まるで昔のように。
「篠原忍さん、ご高名な作家でいらっしゃるんでしょう。だったらせめて、せめて夢枕に立つと言えないんですか」
「からかうな、それなりに意図があることだ」
「では伺いましょ」
 本当か、と口にしなかった声がありありと窺えて、夏樹は小さく笑う。
「夢枕、と言うからには寝ている間だろう」
「まぁ、そうだろうね」
「だったらそんなものは俺は嫌だな。四六時中、一時たりとも目を離したくなんぞないね」
 あぁ、と真人は内心に吐息をついた。これが彼が本当に言いたかったことなのだ、と。
 旅行になど行きたくない。たとえ仕事であろうとも、作家としての自分である篠原忍に必要なものであろうとも、水野夏樹はここに、真人のそばにいたい。
 馬鹿みたいな、子供のような言い分だった。恋を知り初めたころの少年のような言い分だった。
 それなのに、真人は言葉を返せない。笑い飛ばしてからかえない。ひたと彼の胸に寄り添うばかり。
「どうした、真人」
「……別に」
「本当か。言いたいことがあるんじゃないのか」
「……別に。ないけど。どうして、そんなことを思うの」
 押し付けられてくぐもった声が胸元から立ち上る。夏樹は声の香りを楽しむよう、胸いっぱいに息を吸う。
「そう言えば。連載、読んだぞ」
 香り高い真人の思いに浸っていた夏樹の心を破るような突然の悲鳴。当然、同じ胸元から聞こえた。さすがの猫も、これでは寝ておれぬとばかり飛び上がって逃げていった。
「夏樹、ちょっと待って。突然になに言うの」
「なにがだ」
「だから――」
「旅先でお前の百人一首の連載を読んだ。それのどこがおかしなことだ。別に唐突でもない」
「どこがなの」
 悲鳴じみた真人の声。起き上がり、赤くなって夏樹を見つめていた。中々に目を楽しませる景色だった。
「だって、お前」
「なにッ」
「そう切り口上になるもんじゃない」
「……ごめんなさい、でも」
「なぁ、真人」
 静かな指で彼の頬を撫でれば、また赤くなる。身をよじって逃れるより先、悪戯をやめて頬を包んだ。
「寂しかったんだろう」
 自分がいない間、寂寥に身を浸すのではなく焼くように。言葉に詰まった真人は眼差しをそらした。
「読んで、早く帰ってやりたい。そう思った」
「え――」
「そんなに驚くようなことか」
「でも、だって。そんな」
「どうした、真人。なにをうろたえてる」
 きゅっと真人が拳を握った。うろうろとさまよう眼差しが、彼の心を物語る。
「……そんなに」
 掠れた声が戸惑いではなく、恐怖を表していた。夏樹は頬を包んだ手に力を入れて再び真人を抱き寄せた。
「……あからさまだったかな、僕は。だから」
「あぁ、そういうことか。違うな」
「え、でも」
「お前ね、俺を誰だと思ってる」
 少々の呆れ声。歌人が四苦八苦して書き上げた文章の内意をわからない篠原忍ではないと嘯く声。
「そっか。うん、そうだよね。ごめん」
 実はあれは誰にでもわかるだろう、と夏樹は困るような笑みたいような気持ちでいた。
 ただし誰にでも、の内訳は、自分たちの真の関係を知っている人ならば、と言うことになる。誰にでもわかるわけではないだろう、と思っていた。思いたいだけかもしれない、とも思うが。
「俺がいない間、どれだけ寂しい思いをさせたのかと思えば薫さんの幽霊でも出てくれたらどれほどましかと思ってな」
「そうかな」
「親子揃って恋人に悪口を言われるってのも悪くはあるまいよ」
「別に……愚痴を言いたいわけじゃないから」
「ちょっと間があったな」
「夏樹ッ」
 からりと笑った夏樹だったけれど、心の内側では、本当に幽霊でもいい。真人を寂しがらせないのならば何でもいい。そう思っていた。なんでも、の内訳には無論、生身の人間は入らない。
「本当に。あなたって人は」
 馬鹿馬鹿しい、とばかり真人が胸に頭を寄せてきた。言葉とは裏腹の態度に夏樹はそっと微笑んで彼を抱き寄せる。
 本当は、言いたいことがあった。自分が先に逝くときにはお前もちゃんと連れて行くから。だから心配するな。
 言えなかった理由はただひとつ。言えば今すぐにでも実現しそうで怖かった。肯うよう小さく猫が鳴いた。




モドル