外出嫌いの人嫌いのくせ、夏樹はかなり頻繁に出かけていく。それもこれも我が家と言う聖域を守りたいがゆえのこと。
 出版関係の集まりなどがあった翌日に、何がしのことがありましただの、誰某がこんなことを言っていましただのと編集者が御注進にくるのはなんとしても避けたい。
 だからこそ、何くれとなく集まりには顔を出す。正に出すだけ、ではあるのだが。それでも篠原忍がきたとなれば編集者はほくほく顔なのだからわからないものだ、と真人は半ば呆れていた。
 篠原忍を招待するとなれば必然的に水野琥珀も呼ばれることになる。ありがた迷惑ではあるのだが、同居している歌人を無視する、と言うのも具合が悪いのだろう。
 が、そもそも作家の集まりに歌人が出席しても場違いで話題も合わない。おまけにこのところは雑文を書いているものだから作家気取りか、と思われるのも癪だ。
「機嫌が悪いな」
 ぼそりと小声で夏樹が言う。それは誰のことだ、と真人は無言で彼を見やる。当たり前だが夏樹の機嫌も麗しくはない。
「これ、なんの集まりでしたっけ」
 真人は単に同行しているだけだ。招待もついでであって、自分が呼ばれているわけではない、と言う頭がある。だから招待状などろくに見てもいなかった。
「花見じゃなかったか」
「時期が違うでしょうに」
「そうか。いつでも使える言い訳だぞ」
 少しばかり機嫌の直った声だった。真人はそれに目許を和ませる。少しだけ申し訳ない。そんな風に思った。
「だったら冬はどうするんです」
 そのせいだった、そんな戯言を言ったのは。夏樹もただの冗談のつもりだったのだろう、目がわずかに驚きを帯びる。それから小さく笑った。
「そこは雪の花、と言う手があるな」
「――なるほどね」
「どうだ」
「さすが作家先生、と言うことにしておきますよ。いつの間にか口が達者になったものですね」
「お前は口が悪くなった」
「誰のせいだと」
 俺のせい、と夏樹は声にしないで唇の動きだけで表した。真人は人に見せない彼のそんな茶目っ気が好きだった。これではいつまでも機嫌を悪くしてなどいられない。
「なにか取ってきましょうか」
「いや――」
「なにも食べてないじゃないですか」
 言い捨てるようにして真人は歩き出す。会場はとあるホテルの大広間。一階の庭に面した広間だった。自慢の庭園をご自由に散策してください、と言うことか大きな窓は開け放してある。
 真人は屋台風に設えられた宴席を周っていく。一つ一つの屋台の中には料理人がいて、その場で調理しては客に勧めていた。
「それをひとつ。えぇ、ひとつで充分です。ありがとう」
 大人の男が食べるにはいささか少量だが、夏樹にはちょうどいいだろう。春真が実家に戻ったいま、食卓に洋食が乗る機会は少ない。元々和食を好む人だからだけれど、たまには彼もこんなものを楽しむだろう、と真人は皿を手に微笑んだ。
「篠原さん――」
 呼びかけそうになって、真人の足が止まる。そのままそっと小卓に出来たての料理を放置した。作ってくれた人には申し訳なかったけれど、とてもあの場に戻る気になれない。
 珍しいを通り越して明日は槍でも降るのではないか。わざとらしくそんなことを思ってみる。夏樹の横には、若い男がいた。水際立った男ぶり、と言うのはああいうことを言うのだろう、と真人は思う。
 そして夏樹が彼に微笑んでいた。屈託なく、と言っていいほどの表情だった。
「あ――」
 いつの間にかきつく拳を握っていた。そのまま掌を爪で破ってしまえたらいいのに。そんなことまで思う。
「僕は」
 小さく呟く。気づけば庭園に出ていた。あちらこちらに目を楽しませる提灯がかかっている。仄かな明かりが夜の庭を照らしてうっとりとするほど美しい。
 それなのに。まったく目に入らなかった。見えてはいるけれど、見てはいない。ただただ握った掌だけが痛かった。
 作家の集まりに歌人が一人。おかげで誰に出くわしても誰も積極的に話しかけてはこない。排他的で嫌いだが、幸い都合がよかった。
 ホテル自慢の庭は池を周遊できるよう、小道が整えられていた。ふらり、と足の導くまま、と言うよりはそちらに道が続いていたから、真人は歩いていく。
 提灯の明かりが、池に映っては歪んで、そしてまた光の像を結ぶ。見るともなしに見ていた。足も止めない。
「あ」
 池の上、何かが跳ねた。寝ぼけた鯉でもいるのだろう。池を半周したところで、ようやく真人は正気づく。やっと足を止めた。
「だれも」
 いなかった。宴会の途中でこんなところまで散歩に来る酔狂な人間は自分だけだろう。
「来たくてきたわけじゃないし」
 呟いてみて、また拳を握る。もう感覚がなくなっていた。
「か――」
 呼びたくて、呼べなかった。あれは誰、と後で聞けば済む話だったのかもしれない。
「でも、聞けるはず、ないよね」
 自分の声にそのときなにが表れるのか、真人はぞっと背筋を震わせる。ゆっくりと池の端にしゃがみ込んで水面を見つめた。
「おい――」
 走り込んできた人影に肩を掴まれた。咄嗟に振りほどこうとした手が止まる。真人の目が丸くなる。
「夏樹――」
「お前、なにしようとしてた。なんでこんなところに」
「それは僕の台詞。どうして、こんなところに」
「お前を追いかけてきたに決まってる。途中で見失って、難儀した」
「え――」
 呆然と立ち上がる。夏樹が黙って手を貸してくれた。真人は足が痺れていて、そのことにまず何よりも驚いた。たったいましゃがみ込んだ、そう思ったはずなのに。
「料理を取ってきたな、と思ったらふらふらどっかに行っちまったからな」
「それは……」
 あれは誰。なにを話していたの。どうしてあんな顔していたの。他人に笑うような人じゃないのに。あの人は、あなたの何。
 言いたいことがあふれ出てきそうで、真人は唇を噛む。ゆっくりと目をそらした。池に提灯の明かりがはらはらと映っていた。
「真人」
 呼ばれても、真人は振り返れない。その体に手がかかる。
「夏樹。やめて」
 しかし彼はやめなかった。こんな強引なことをする人ではない。けれどいまは。
「夏樹、人目がある。何するの」
「誰かいるように見えるか、馬鹿」
「でも」
「いいから黙れ」
 無理に前を向かせようとはしなかった。代わりに背後から抱きすくめる。こんなとき、彼がずいぶん長身なのだと思い出す。
「さっき」
 耳の後ろで彼がくつりと笑った。その声に思わず腕を振りほどきたくなる。しっかりと抱きしめてくる腕だったけれど。
「お前、思いっきり嫌な顔してたな」
「そんな――」
「こと、ないと思うか」
「えぇ、思いますとも。嫌な顔なんて、してない」
 嘘をつけ。とは夏樹は言わなかった。代わりに指先が唇をたどる。嘘をつくのはこの口か、とばかりに。
「よして、夏樹。誰かに見られたらどうするの」
「酔っ払ったとでも言うさ」
 言って夏樹が真人の髪に顔を埋めた。ようやくだった。そのときになってやっと真人は夏樹が震えていたことに気づく。
「夏樹」
「なんだよ」
「あなた、震え――」
「うるさい。黙れ」
 あぁ、なんだ。そう思った。あの若い男が誰であれ、もうどうでもよくなった。自分が立ち去ったのを、夏樹は見たのだ。見て、追いかけてきた。追いついて、すがりつくように抱きしめている。
「ごめんなさい」
 胸の前の腕に手を添えれば、彼が無言でうなずいた。ほっとして一度彼の腕を抱きしめる。それから身を離して振り返れば、酷く傷ついた顔をした夏樹がいた。
 見られたのを恥じて彼がそっぽを向く。それを狙い済まして真人は彼を抱きしめる。背中に腕をまわして、着物に皺がよるほどに。
「おい」
 抱き返そうとした夏樹が不満の声をあげた。そのときにはもう、真人は離れていたから。
「いつ誰が見るかと思うとおちおち抱き合ってもいられないから」
「だったら」
「いますぐ帰ろうって言うのはだめだからね」
「……なんだよ」
 拗ねた夏樹の口許が笑っていた。お互いに恐る恐ると相手の顔を窺う。もうなんのわだかまりもない、と相手の顔に見つけてほっとしあうのを、二人でまた笑った。
「戻らないと」
「まぁな」
「それと」
「なんだよ」
 まだ誰かしらの相手せねばならないと言われ、夏樹は再び不機嫌になる。もっともその不機嫌はたぶんに作られたものでもある。むっつりとした篠原忍に話しかける勇気を持った人間は多くはない。
「さっき話してたの、誰かなと思って」
 言った途端に夏樹がせっかく作った不機嫌を吹き飛ばして笑い出した。人目がないのを幸いに、彼の背を思い切り叩く。――ふりをして、本当は軽く手を添えただけ。
「この年になってもまだ妬いてもらえるのはありがたいね」
 つい、と指先が頬に伸びてきた。提灯の明かりに夏樹の頬が赤く照らされる。
「誰でもない。赤の他人だ。――が、ちょうどあんな男を書きたかったからな」
「それで、機嫌よくお喋りしてたんだ」
「だから妬くなよ」
「うるさいな。妬いてなんかいない」
「それのどこがだ」
 ぷっと吹き出して、夏樹はまた難攻不落の不機嫌をまとう。姿を消した篠原を編集者が大慌てで捜していたようだ。向こうでほっと手を振っている。
「焼きもち妬きでも、俺はお前がいい」
 手を振って応えながら、夏樹は真人の耳にだけ聞こえるよう、そう言っては小さく口許だけで笑った。




モドル