「真人さん、どうしたんです」 「なに、気にすることはない。原稿の組み立てに悩んでるだけだろうさ」 「放っておいていいんですか」 非難めいた声に夏樹が笑って答えている声が聞こえていた。聞こえているのに、真人の心には届いていない。 夏樹が言うとおり、悩んでいた。ただしそれは原稿の組み立てに、ではなく人の心に、と言うべきかもしれない。いずれにしても原稿がらみではあったが。 「真人、一段落したら上がってこいよ」 庭にいる真人に夏樹が声をかけた。それも聞こえていないのだろう、真人はぼんやりと梅の木を眺めている。 「せっかくきてくれたって言うのにな」 「いや、別に。僕は」 「照れなくてもいい。まぁ、そういう年頃だろうがな」 「からかわないでください」 夏樹の言葉にむつりとしたのは一人の青年。無言でにやにやとしているのは彼の父。 「そう思わないか、露貴」 「年頃か。そんなもんだろうな」 「ほら、親父殿もそう言っている」 夏樹にしては珍しく朗らかな声だった。それに気をよくした露貴が自分で茶を淹れに立つ。 「勝手知ったる他人の家、と言うところか」 「他人。誰と誰が他人だ」 悪戯に睨む父を青年はぽかん、と見ている。そんな父親の表情など見たことがないのかもしれない。 「悪かったな、勇人」 青年の名を勇人と言う。人には言えないことだが、雪桜の異母弟にあたる。この春、高校を卒業して大学に入った。中々優秀な青年だ、と夏樹は聞いている。 少し遅くなってしまったけれど。そう言って勇人は父と共に入学祝の礼にきたのだった。 いつもならばはしゃぐ真人が今日に限ってはぼんやりと庭に佇んでいるものだから、そんな彼を見たことのない勇人は戸惑っているのだろう。 「いえ。でも――」 「なんだ」 不思議そうな夏樹に勇人は更に戸惑いを深める。ずいぶん薄情だ、そう思ったのがありありと顔に書いてあって夏樹は小さく笑う。 「あれは歌人だがな、いずれ物書きなんていうものは似たような性質を持っている」 悪戯をする口調の夏樹の手の中、露貴が湯飲みを押し込んだ。咄嗟に文句を言いかけて睨みつける。その前に慎重に湯飲みを置いた。 「露貴」 「なんだよ」 「――熱い」 「それは当然。淹れたてだからな」 「真人なら――」 言いかけて口をつぐんだ。不自然であっても、口を滑らせるよりはましだ。勇人ももう子供ではないのだから家系がややこしいことくらいは耳にしているだろう。 だからと言って自分の父が年の近い甥を愛したことなど知る必要はないし知らせる必要もない。ましてや、だ。 「夏樹。いま何を考えたんだ」 「なにも考えていないが」 「ほう。何かを思い出してぬかった、そんな顔をしていたがな」 殴ってやろうか、と一瞬でも思った夏樹ははめられたのに気づく。それこそ口が裂けようが生皮を剥がれようが真人にはまかり間違っても言えない夜が一度だけ。 思い出したわけではない。あれが後悔なのか懐旧なのか、夏樹にはわからない。愛ではなかった、それだけが充分な思いだった。 ただそれでも、忘れられるようなことではなかった。忘れていいものではない、そう言うべきだろうかと夏樹は思う。 突き放すことも拒むこともできなかった自分だ。せめて覚えていることだけはしたいと思う。それだけが露貴にできるたった一つだけのことのような、そんな気がしていた。 「夏樹さん」 父と、年の離れた従兄の間にあるものになど気づかせたくはなかったし気づいて欲しくもなかった。それでも上手に介入したのは買ってもいい、そっと微笑んで夏樹は勇人に意識を向けた。 「ん、なんだ」 「さっきの続き。まだあるんですよね」 「あぁ……話が途中だったよな。物書きって言うのは、ああいうときには放っておいて欲しいものだって言うだけなんだが」 困った顔で言う夏樹に、なんだそんなことかと言いたげな勇人。二人を見比べ、露貴が満足そうに微笑む。 可愛い息子なのだろう、と夏樹は思っている。露貴は若いときから自分の端麗にすぎる容姿を気に病むと言う贅沢さを持っていたが、息子は彼の眼鏡に適うのだろう。あまり似ていない親子だった。勇人は父の瀟洒さを受け継がず、むしろ精悍で男らしい。高校時代はスポーツに汗を流した、と聞く。 「でも、あんまりずっとだと。風邪ひきませんか」 「俺じゃないから大丈夫だ」 きっぱり言った夏樹に露貴が大笑いをした。自覚はあるんだな、とからかう声に夏樹が憤然と声を荒らげる。 そんな声まで、真人には届いていないらしい。珍しい彼の大きな声が聞こえていないとなると、かなり深刻かもしれない。常日頃共にあるわけではない露貴だからこそ、そう思う。 「とはいえ、ちょっと声をかけにいくか」 「おい。ほっといてやれよ」 「聞こえなかったら放っておくさ」 さらりと言い捨て、露貴は庭に降りた。ゆっくりと真人の隣に立つ。彼が何を見ているのか知りたい、そんな気がした。 「真人君」 そっと呼びかける。下心が、ないとは言わない。真人が没頭している間、夏樹は自分のことだけを見てくれる。 「あ――。露貴さん」 そんな露貴だからこそ、かもしれない。真人はふわりと陰のある目をして笑った。 「なんだ、気づいたか」 「え」 「もうけっこう前に来てたんだけどな。ほら、息子の入学祝の礼」 ちらりと眼差しを居間に向ければ、真人が慌てて飛び上がろうとする。それを留めれば、居間で夏樹が笑っていた。 「なぁ、何を考えていたんだい」 「原稿に悩んでいて」 「それは、どんな。聞いてもいいのかな」 覗き込んでくる目の柔らかさに、真人は密やかに身震いをする。敵わない、いつもそう思う。どうして夏樹はこの人ではなく自分を選んだのか。露貴を前にするといつも思う。 「ねぇ。露貴さん。人間って言う大勢の生き物を愛したり憎んだりする気持ちは、わかるんです」 いつの間にかまた梅の木を見ていた眼差しを、露貴へと据えなおす。しっかりと正面から受け止めてくれた。 「でも僕にはわからない。一人の人を愛したり憎んだりするって、どういうことなのか、わからなくなっちゃって」 「それって、何かの皮肉――ってことはないよな、君に限って」 「あ――」 露貴の目が静かに夏樹に流れ、何事もなかったかのよう庭へと戻ってくる。ただひと巡り、見渡したのだと言わんばかりに。 「でも、露貴さん――」 「愛憎は裏表って、言うだろう」 「でも」 「愛したぶんだけ、憎んだこともある。どうしてだ、なぜ私のものにならない。思わなかったとは言えないね」 「……ごめ」 「謝ったりしたら、嫌いになってやる」 「あ……」 言葉を奪われた真人に、露貴は朗らかに笑って見せた。なんの屈託も翳りもない澄んだ笑い。騙されるほど、もう若くはなかった。 「それにさ、真人君。君さ、相手が私だからって変な遠慮、しなかっただろう」 「するべきだったと後悔してますよ」 「冗談を言うんじゃないよ。私は、そんな君だから憎めない」 露貴の笑みは見事だった。こんな素晴らしいものを見たことはないと思えるほど。真人はただじっと立ち尽くす。 「――だから」 「ん、なんだい」 「だから、露貴さんには敵わないなって」 「それはまたいったいなんの冗談なんだか」 露貴の目が、見もしないのに夏樹を示す。真人は無言で首を振る。ゆっくりと息を繰り返す。そんなことでもしないと取り乱しそうだった、この年になってまだ。 「大事にしてます、すごく」 「まぁね」 「それ以上に」 夏樹が、露貴を大切に思っている。それは知っている、と答えた。親戚だからではない、血縁以上にだと真人は言い返す。 省略しすぎて意味の通らない会話。それでも互いに通じた。目を見交わしてにやりとする。 「おい」 見咎めた、夏樹だった。不機嫌そうな声でただ一言、おいと呼ぶだけ。真人は自分が呼ばれたと理解してすらりと居間に上がる。そのまま動作も止めず改めて茶菓の支度をした。 「あれ、よくわかるよなぁ」 「なにがだ」 「いまの」 「長い付き合いだからな」 どこか誇るような夏樹の声は、真人に聞かせるためのものだった。台所にいても、その声は聞こえるだろう。 「ごめんね、勇人君。せっかくきてくれたのに」 淹れなおした茶とともに菓子を勧める。新しい湯飲みを手にした夏樹がにんまりと笑った。 「やっぱりこれでなくてはな」 そう言って露貴に湯飲みを掲げた。献杯の仕種でするものだから勇人が笑いをこらえかねて吹き出した。 「なに、夏樹。どうしたの」 「さっき私が淹れてやった茶がまずいとお冠っていうわけさ」 「まずいとは言っていない」 「だったらなんだ」 「熱い茶は嫌いだ」 ふん、と鼻を鳴らした夏樹に真人が茶々を入れる。猫舌で飲めないだけでしょ、と。やっと収まりかけていた勇人の笑いの発作がぶり返した。 よく笑う、屈託のない露貴の息子に真人は目を細める。どんな大人になるのだろうかと。瞼の裏に春真が浮かんだ。 真人は知らない。将来、大人になった勇人が志津と結婚することを。そして生まれた子には父の名をもらい、露貴と名づけることを。 |