「伯父さん、一緒に美術館に行こう」
 春真からの呼び出しに、夏樹は快く応じた。人が聞けばあの篠原忍が、と驚くだろうことを思えばつい口許に笑みが浮かぶ。
「よかったのか」
「なにが」
「真人」
 二人きりだった。伯父甥水入らず、と言えば言えるが、春真はそもそも真人のほうによりなついていた。
「いいよ、顔見ると帰りたくなっちゃうし」
 ぽつりと、けれど元気を失わない声で春真は言う。そのぶん嘘が滲む、と夏樹は見抜くが甥の気概を買ってここは黙った。
 ゆっくりと美術館の中を経巡っていく。あまり人気がないのか、さほど人は多くない。それが何より夏樹にはありがたかった。
 一枚の絵の前で春真が足を止める。じっと見つめるその眼差しに熱を見る。春真にこんな趣味があったとは、と意外に思う。
「好きか、絵」
「うん。て言うより、なんだろうな。こうやって見てると、文章が浮かぶんだけど、うまく言葉にならないんだ」
 それはまだ春真が子供だからだ、とは夏樹は言わなかった。いずれ大人になって語彙も増えれば、表現すると言うことを学ぶだろう。真人が春真の成長を喜ぶ気持ちの一端が、わかった気がした。
「意外だな」
「なに。あぁ、美術館に誘ったこと。こないださ、課外授業できたんだけど、ゆっくり見らんなかったから」
「友達と来ればいいだろうに」
「それじゃ一緒じゃん」
「だったら――」
 口にしてから迷ってしまった。振り返った春真がにやりと笑う。
「父さんもお母さんも忙しいしね」
「春樹は」
「兄貴かぁ……」
 まだ、馴染めないでいるのだろうか。真人が心の底から愛し慈しんで育てたのも良し悪しか、と夏樹は思う。
「ねぇ、伯父貴」
「なんだ」
「内緒、約束してくれる」
 まるで小さな子供に返ったかのよう、夏樹の袂を春真は取る。そっと、けれど離すまいと。夏樹は何事もなかったかのよう静かに微笑んだ。
「約束する」
 そう言ったからといって、春真がすぐさま話すわけではなかったから、一枚の絵の前にいては人の迷惑だ、とゆっくりと歩き出す。それでも春真は袂を掴んだまま、じっと従うだけ。
「……あのさ。父さんも、お母さんもさ」
 ぼんやりと、それでも決心がついたのだろう春真が口を開く。夏樹は黙って先を促した。
「一生懸命だよね。一生懸命にさ、僕を大事にしてくれる。それはわかるんだ」
「春樹は」
「兄貴もだよ。なんか四六時中かまってないと、またどっか行っちゃうんじゃないかって感じで、そばにいてくれる」
 ありがたいことではないのか、言いかけた夏樹は黙って春真を見ていた。横目で見やる春真は、美術鑑賞など本当は口実だったのだ、と語る。
 頼られているのだな、と思えば心が温かい。真人のように春真を息子だと思ったことはあまりない。血の繋がりがあるせいだろう。夏樹にとって春真はまぎれもなく甥だった。それでもいま、持ったことのない息子のよう愛おしく思う。
「それがさ」
 きゅっとまだ薄い唇を噛む。血の色が透けそうで、少し頼りない。真人は春真とよく似ている、と言っていたが自分はこんなにも繊細な少年だっただろうか、と思う。
「――ちょっと、鬱陶しいんだ。だめだよな、俺。すごいだめ。絶対にありがたく思わなきゃだめなのに。物凄い人でなし。だよね」
 言うだけ言って春真は笑った。癇症な、痙攣するような笑い方。夏樹は無言で春真の頭に拳を落とす。痛い、と美術館だと言うことをはばかって上げた小さな声。再び下ろされたときには、頭を撫でていた。
「お前な、春真。だったら両親や春樹のこと、嫌いか」
「全然。そんなことない。なんで、そんな――」
「だったらそれでいい。疎ましく思うことも、家族にはあるってことだ」
「でも、伯父貴は。そんなこと、あったの。父さんとも仲いいじゃん」
 ぷ、と頬を膨らませるから、春真も本気で疑ったわけではないのだろう。むしろ自分の不甲斐なさをひしひしと感じているだけなのだろう。成長期なのだな、と真人のようなことを感じて夏樹は内心で微笑む。
「春真、お返しだ。真人にも冬樹にも内緒だ。守れるか」
「うん、守る」
 あっけらかんとした言い方が、まだ子供だと夏樹に思わせた。これからまだまだ伸びていく一方の、若木。夏樹は努めてさりげなく春真を促す。歩きながらのほうが話しやすかった。
「俺の肩に古傷があるのは、真人から聞いたな。あの時は言わなかったことを教えてやる。この傷は――」
 夏樹の手が、いまだ痛むかのよう肩に添えられたのに春真は驚く。咄嗟に止めるべきだと思った。けれど止まらなかった。今しか、聞く機会はないのだとどこかで知っていた。
「母親に殺されかけたときのものだ。他の傷も」
「え。でも、それって。伯父貴のお母さんって、父さんのお母さんだよね。僕の、お婆ちゃんだよね」
「あぁ、そうだ。さすがに詳細は面倒だから省く。要点だけ言えば、俺は父親似で、冬樹は母親似だった、と言うことだな」
「ぜんっぜん、わかんないんだけど」
「親父殿の手記がある。お前が大人になったらやるよ」
 さらりと言って、いまはもう何も気にしていないのだ、と夏樹は笑う。はじめて春真は大人が笑顔の向こうで違うことを考えているのだと知った。
「これで弟と仲がいいってのは、何かの冗談のようだが、事実は事実だからな。それでもな、春真。俺に家族はいない。家族と思ったことは一度たりともない」
 たとえ仲のいい弟であれ、自分の家族ではない。夏樹はきっぱりとそう言った。まして父母など。そんなものは自分にはいないと夏樹はそう言った。
「家族なら、疎ましく思うことはあっても、嫌いになんかなれるもんじゃないだろう。いや、なることもあるかもしれんが、家族だと言う気持ちだけは残ってるもんだろう」
 そんなもの、自分にはない。幼いころのことを思い出すことはあまりない。索漠とした屋敷の空気と、自分を産んだ女の冷たい眼差し。女主人の意を汲んで横柄な使用人。そして家に居つかない父。あれは家族でもなんでもない、夏樹は断じる。
「お前は鬱陶しいと思っても、嫌いでもなんでもないんだ。健全なもんだ」
「伯父貴」
「なんだよ」
「……なんでもない。て言うか、うまく言えない。なに言っても、たぶん嘘になっちゃう。だから、言わない」
「つくづく真人の教育のよさを感じるな、こういうときには」
 にやりと笑って夏樹は何事もない顔をして足を進める。けれど春真は見てしまった。いつもならば滑らかな伯父の足取りがわずかに乱れていたことを。
「お前な、春真。馴染めない馴染めないって冬樹たちもお前自身も気にしてるみたいだけどな。俺から見れば立派な家族に戻ってるさ。気にしすぎるなよ」
「でもなんか、父さんとか、うまく呼べないし」
「そりゃ仕方ない、そもそもそういう年頃だしな。それに――お前が両親って言われて思い浮かべるのは誰だ、うん」
 からかうような声音に、伯父の足取りが確かなものへと戻ったのを春真は知る。真人のよう、肩先を打つ真似だけをした。
「伯父貴、意地が悪いって言われたことないわけ」
「絶えず言われてるな。参考までに聞きたいが、お前にとって父親はどっちなんだろうな、春真」
 性格が悪いの人でなしだの春真は散々な罵言を伯父に浴びせた。夏樹はといえば涼風に吹かれてでもいるかのよう、泰然としていた。
「ところで春真。そろそろ本題に入れよ」
「なに、気づいてたの。根性が曲がってるんだ、やっぱり」
「真人曰く、ぐねぐねに曲がりすぎててかえって真っ直ぐ、だそうだがな」
「言ってろ。――この前、読んだよ」
「なにをだ」
「さざなみや、志賀の都は荒れにしを。昔ながらの山さくらかな」
 どうだ、とばかり春真の頬が上気する。ちらりと見やって夏樹は褒めもしない。
「性格の悪さは俺に似たか」
「ちょっと」
「そう言うの、嫌味なガキって言うんだ。気をつけろよ」
「だって、伯父貴ならわかるじゃん。こんなの他人にするもんか」
 ぬかった、とはじめて夏樹は気づいた。つい先ほど、冬樹ですら家族ではないと言い切った自分。春真は、冬樹の息子はいったいそれをどういう思いで聞いたのか。
「俺と真人が育てたんだ。わかって当然だろうか」
 ふむ、とわざとらしく夏樹は顎先に手を当てた。それからまじまじと春真を見る。奇妙に照れた春真がたじろぐほどに。
「なるほどな。真人が息子同然って言うんだし、そういえば俺にも家族がいたか」
「今更気づくわけ。ちょっと鈍くない、伯父貴って」
 呆れて見せた春真の、それでも表情が明るい。これが世間一般で言う「家族」ではないのだと春真は理解しているのだろうかとわずかながら不安になる。もっとも、理解した上で喜んでいることも悟ってはいたが。とはいえ、血縁者としては、そちらのほうがよほど春真の将来に不安が残る。
「それでさ。あの話、まずくないの、いくらなんでもばれちゃわないの」
「それがな、あまりにも真人があっけらかんと書くもんだから誰も気にしない」
「嘘、ほんとなの、それって」
「冗談みたいな本当の話だ。俺も何かあったらそれとなく噂話のひとつでもばら撒くかと思ってたんだが、驚くほど誰も気にしていない」
 呆れたもんだ、と笑う夏樹に春真は大人の余裕を見る。敵わないとか悔しいとか、そういうものを越えた何かを春真は感じる。
「要するにお前、真人が心配で俺をわざわざ呼び出した、とそういうことでいいわけだな」
「そんなこと言ってないだろ」
「わかった、真人には春真が会いたがっていた、と言っておく」
「ちょっと、伯父貴。なに言って」
 すらりと足を進めた夏樹が途中で振り返る。少しばかり顎を上げた勝ち誇った顔に、見えてしまった。伯父の隣を物も言わずにすり抜ける。
 たまには顔を見せてやれ、などと大人の余裕を見せ付ける伯父が悪いのだ、と春真は頬を膨らませてむくれた。




モドル