夏樹が長編を書き上げた骨休めに、温泉宿に来ていた。夏樹の骨休め、ではなく真人の、だった。作品が佳境に入ると、どうしても夏樹は日常生活が疎かになる。そのぶん、真人に負担がかかる。だからこれは詫びであり礼であった。 「どうだ」 二人の定宿なのだから、特に変わったことはない。それでも尋ねるのは、すまないという思いがさせるのだろう。 「うん、いつもどおり。いいね。僕はやっぱりここが好きだな」 真人の朗らかな言葉に夏樹の疲労が解けていくようだった。本当ならば、書き上げた直後は家でのんびり虚脱していたい。 それでもこうやって出てくるのは真人のこの顔が見たいが為だと夏樹は心得ていた。 「そりゃ、よかった」 ぼそりと言うのに真人が笑う。照れているのだと知っているからこその、笑い。夏樹はあえて仏頂面のままそっぽを向いた。 「お茶淹れようか」 「あぁ、頼む」 「ん、ちょっと待ってて」 荷物をごそごそ漁っているかと思えば、持参の茶筒を探しているらしい。特別な茶を好むと言うわけではないし、旅館備え付けの茶で充分なのだが、真人はこうやっていつも持ってくる。 それはたぶん、取材旅行中には茶がまずい、とこぼすせいだ。婉曲に真人がいなくて恋しいと言っているつもりなのだがどうやら本気で茶の味を云々していると解釈しているらしい。 長い間その誤解を解かずにいたものだから、いい加減もう解説することもできない。ただ、それはそれでいいのかもしれないと夏樹は思う。 「夏樹」 柔らかな声に促されて茶碗を取れば、仄かな温もり。夏樹が好む濃さ、温度。口許に持って行っただけであぁ真人の茶だとわかる。だからやはり、真人の誤解もあながち間違いでもないのかもしれないな、ふと夏樹はそう思った。 「静かだね」 開け放した窓越しに、小鳥の声、木々を渡る風の音。到着したばかりの客を迎える仲居の声も聞こえる。けれど、それだけだ。 仲居も女将も夏樹が篠原忍であることを知っている。それでも部屋に挨拶にも来ない。それどころか到着時に部屋の鍵を渡すだけで案内もしない。勝手知った宿だから不自由はない。 夏樹はそれを好んでいる。篠原忍が好んでいると知っているからこそ、案内すらしないと言うありえない接客をしてくれる。 夏樹はぼんやりと風の音を聞き、真人の淹れた茶を飲む。からからと乾いた音がしたと思えば、真人がこちらも持参のあられ煎餅を出していた。茶菓子、と言うことか。 「こんなものまで持ってきたのか」 笑って言えば違うと笑い返された。悪戯にあられを一つ摘み取っては真人の口に持っていく。小さく開けた唇が挟み込み、かりり、と砕く。 「さっき、下で買ったんだよ。夕食までのつなぎにね」 「食えなくなるぞ」 「あなたがね」 今度は自分で摘んで真人はあられを食んだ。ぼんやりとする夏樹の横で、彼もまた呆けていたいのだろう。なにを話すでもなく、時折あられを噛む日常の音。 「夏樹――」 ふと思いついたとばかり真人が声をあげた。それなのにゆるりとした声で夏樹はただそれだけのことに聞き惚れそうになる。 「ん」 真人はそうと知ったのだろう。小さく微笑んだ。横目にそれが映って夏樹はわずかにうろたえた。この年になってもまだ、真人の一挙手一投足が気にかかる。そんな自分がおかしいと共に幸福だと思う。 「お風呂、使ってきたら」 「あぁ……」 「さっき、支度したからもう入れると思うよ」 「……いつだ」 こんなところまで来てもまだ真人は立ち働いていたのか。気づかなかった自分を恥じれば真人の笑み。好きでしていることだから気にしないで。言葉にしないのに、伝わってくる。 「そうさせてもらおう」 真人が言葉にしないのならば夏樹もまた。立ち上がってからわざわざかがみ、真人の唇に己のそれを重ねる。仄かな吐息が聞こえた。 贅沢な浴室だった。浴室そのものが、と言うより客室に小振りとはいえ温泉の出る浴室があること自体が贅沢だ、と夏樹は思う。 もっとも、それが気に入っているからこそ、ここに来るのだとも言えた。書き上げた直後は、殊の外に人と会いたくない。宿自慢の大浴場も、一人きりであれば喜んで入るが、他人がいると思えばそれだけで億劫だ。 小振りとはいえ、風呂は大人二人が入れば多少は窮屈か、と言う程度には大きい。家の風呂に比べれば段違いだ。 夏樹はゆっくりと足を伸ばす。ほっと息をつけば思いの外に疲れているのだと気づく。年々書き上げたあと、疲れが回復するのが遅くなる。 「年だな」 当たり前のことを言ってそっと笑う。立ち上がり、窓を開け放ってみた。いい風が入ってくる。再び浴槽に身を沈め、夏樹はぼんやりと湯に浸る。 「――夏樹」 細く扉を開けて真人が声をかけた。何も照れるようなことでも遠慮をするような仲でもないというのに、真人はいまだにそういうことをする。 「どうした」 「背中、流そうか」 気にするな、少し休んでいればいい、自分でできる。色々と思ったものの、結局夏樹はにやりと笑う。 「あぁ、頼む。ついでに入ってくればいい」 「ちょっと、それは……」 「なんだ。嫌か」 「いやって言うより――。いいよ、わかった。ちょっと待ってて」 諦めたような笑い声。夏樹は黙って物音に耳を澄ます。聞こえてきたのは真人が着物を脱ぐ、その衣擦れの音。妙に照れてしまう。音そのものより、中学生のように耳をそばだてている自分が恥ずかしくなったのかもしれない。 「お待たせしました」 「なんだ、それは」 「だって。なんて言って入ったらいいかわからない」 ぷ、と頬を膨らませる。夏樹は笑って立ち上がる。動揺している自分を悟られたくなかった。椅子に腰掛けて無言で背中を向ければ、心得たよう手拭いに石鹸をこすりつけて流してくれる。 「痛くないかな」 「あぁ。ちょうどいい」 よかった、そう呟きながら真人は丹念に背中を流す。まるでこの上なく貴重な珠でも磨いているようだ。そう思ったことでつい、夏樹の唇から笑いがこぼれる。 「どうしたの」 「いや……別に」 「そう」 ありありと信用していない、そんな顔が正面の鏡に映った。夏樹は思わず鏡を見つめる。首をかしげてしまえば、動かないでと叱られた。 「お前、変らないな」 「なにが」 「体。若いときとほとんど変わらない」 「どこを見てるの、もう。そうかな、けっこう肉がついたよ。あなたこそ、変わらないよ」 一度ぴしゃりと背中を叩かれた。水音まじりで音こそ大きかったけれど、痛みはほとんどないに等しい。 「そうか。ずいぶん緩んだように思うけどな」 言いながら夏樹は腹の辺りを手でさする。その仕種にこらえ切れなかった真人が吹き出した。 「変な夏樹。なにしてるの、本当に。僕が言ってるんだ、変わらないよ、あなたは」 「それはずいぶんと意味深な言葉だな」 何事かを仄めかせば鏡の中の真人が赤くなる。 「そういうことを言うなら、嫌がらせをする」 宣言し、真人は背中を流していた手拭いで、首を洗う。腕、肩、腹と下りていく。 「なにをしてるんだ」 「だから、嫌がらせ」 「俺には丁寧に洗ってくれてるようにしか思えんが」 「――ちょっと、恥ずかしがるかなと思って」 なんだ、と正面に周ってきた真人が溜息をついて、けれど笑った。本気で嫌がらせ、などとは思ってもいなかったのだろう。 「お前が楽しんでくれてるなら、俺はそれでいいよ」 いつの間にか石鹸まみれになってしまった真人の頬に指を滑らせる。泡を取ってやったつもりだが、真人はまた赤くなる。 「ほんとに、お前ってやつは」 「なに。悪戯はよしてよ」 「素直なやつだな、と思ってな」 また泡が飛んだ。口では文句を言いながらも真人はせっせと手は動かし続けている。足の指の間まで丁寧に洗うのだから、気恥ずかしいより感心してしまう。 「なにを、急に」 いったいなにがどうしたというのか、夏樹のそんな言葉に突如として真人は照れた。長く共にあっても予測のできないこんな態度が、だから夏樹は楽しいのだ。 「ほら、その顔だ」 「だからなにが。動かないで、夏樹、目に石鹸が入るよ」 「嬉しくって楽しくってどうしようもない、そんな顔してる」 「そんなこと――」 ふい、とそっぽを向いて、また夏樹を磨きたてる。どうやら今度は機嫌を損ねたようだ。 「なんだ、言い当てられたのにご機嫌斜めか」 「そんなことないけど」 「お前、隠し事が下手なんだよ、俺には筒抜けだ」 「え。そうかな。けっこう上手だと思ってるんだけど」 どこがだ、笑いながら夏樹は真人が洗い流すそばから真人に泡をなすりつけていく。仕舞いには競争のようになって、ついには夏樹が声をあげて笑い出す。そのときの真人の顔こそ。 「その顔だ」 つい、指先で頬をつついた。この上もなく幸福で、体中の幸せに酔った顔。 「――どんな顔、してるのさ」 顔をそむけて、けれど横目で夏樹を窺う。それでも耐えられないとばかり、湯船に身を沈める。夏樹がその横に入り込めば、照れてどうしようもないのか、鼻先まで沈めるようにして、ぶくぶくと泡を出している。 夏樹は答えなかった。答えなくとも、真人は気づいている。互いをどう思うのか。どんなに相手を思うのか。それを話し言葉では伝えられなくて、だからこそ今すぐ歌を詠みたい、そう思っている顔。たぶん、と夏樹は思う。自分も同じ顔をしているはずだ、と。 |