原稿が行き詰ったときに不機嫌になるのはそう珍しいことでもない。むつりと口もきかなくなるし、せっかく淹れてやった茶も飲まない。
 けれど今回は少しいつもと違う、真人はそう感じていた。おそらくは先日、編集部を訪れたときと何か関係があるのだろうと思っている。
「またやりあったな」
 台所で小声で呟く。下手に聞かれればまた機嫌が悪くなる。むしろあれ以上悪くできるものならば見てみたい、とすら思ったけれど。
 す――、と夏樹が立ち上がった気配がした。少し気晴らしになれば、と真人が居間に顔を出したとき、夏樹はもういなかった。
「まったく」
 笑いながら腹が立つな、と言ったつもりだったのに、自分の声が思いの外に苛立っていて、そちらのほうに驚いてしまった。
「僕だって……」
 夏樹が苛々としていれば、同じように腹が立つ。それは彼に寄せる何らかの感情ゆえに、などと言う甘ったるいものではなく、なぜに自分が八つ当たりをされねばならないのかと言う現実的なもの。
「そりゃさ、僕しかいないけどさ」
 それにしてももう少しやりようというものがあるのではなかろうか。時々自分の存在がないがしろにされているような気がして、寂しくなるよりやはり、腹が立つ。
「やめた」
 ぷい、と真人は台所を出てしまう。今日は夏樹が好きな肉じゃがにしようと思っていたけれど、これでは煮物をする気になどなれない。
 ではなにをしよう、と思ったところですることがないのに気づいてしまう。
 料理はやめた。洗濯も、夏樹のものだけ除けてするのは業腹だ。そもそもこんな午後も遅くにするものではない。掃除をするにしても、居間も寝間も自分と夏樹の共同だ。自分のために、と思ったところでやればやるだけ腹が立つだろう。
「僕って意外と無趣味だったんだな」
 思ってつい、笑ってしまった。笑った自分にも、腹が立った。それだけ苛立っていると言うことか、と冷静な自分が思う。
「まったく」
 昔から変わらない。自分のどこかに冷静沈着な「軍人だった自分」がいる。その彼が自分の感情ですら分析して仕分けてくれる。
「非常に腹立たしいね」
 普段ならばそんなことは意識しない。こんなときにばかり、気がついてしまう。
「それもこれも夏樹のせい」
 そのとおりだ、と拳を握る。散らかったままの居間を見渡す。書きかけ、と言うより準備だけはとりあえずしたものの、まったく書く気がなかったと窺われる真っ白い原稿用紙。愛用なのに、放り出されて転がった万年筆。辞書の類においては腹立ち紛れに蹴りつけたとしか思えない散らばりよう。
「本当に、もう」
 思わず片付けてしまってしまってからそれに気づいて、辞書を放り投げようかと思った。とはいえ、また散らかすのもなんだ、と溜息をつく。
「もう全部夏樹のせい。あぁ、そうだよ、郵便ポストが赤いのも電信柱が高いのも全部夏樹のせいだ」
 どこかで聞いたようなことを小声でぼそぼそと呟く。叫んで喚き散らしてしまえば多少は気が晴れるような気もするのだけれど、とてもそんなことはできなかった。
 ここは読書に限る、と真人は部屋にこもって本を開く。わかっていた。一文たりとも頭になど入ってこない。そんなことは自分の心に指摘されなくともわかっている。
「それでもさ。すること、ないんだもの」
 春真のところに遊びに行ってしまおうか、と思ったけれどこんなときに子供にすがるのもみっともない。ついでに言えば冬樹に「兄が面倒をかけて」と謝られるのはばつが悪い。
 だから真人は部屋で本を読むふりをする。いつまでも帰ってこない夏樹の気配だけを窺って、ただ本を開く。
 物音がしたのも、そのせいですぐにわかった。飛び出しそうになった自分を強いて抑える。これでも心配していたのだ、と気づいてほんのり胸が温まる。
「……夏樹。お帰り」
 まだ不機嫌な顔をしたままの夏樹が暗い庭に立っていた。いつの間にかすっかり陽が落ちていたらしい。
「飯は」
「あ、まだ」
「なんだ、まだか」
 真人の頭の中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。今のいま、ほんのりと温まったはずの胸が急激に冷えていく。
「なにそれ。どういう意味なわけ」
 言い捨てて、返事も聞かずに夏樹の横をすり抜けた。そのまま庭に降り、家を飛び出す。
 飛び出してしまってから、これは紛れもなく他愛ない夫婦喧嘩で妻が家を飛び出した構図、と気づいてしまう。
「馬鹿か、僕は」
 それでも腹が立って仕方なかった。確かに夏樹の態度に苛立っていたし、八つ当たりには腹が立つ。それはそれとして、帰ってこない彼を気にかけてもいたし、あまりにも遅くなるようだったら捜しにも行ったことだろうと思ってもいる。
「それなのに、なにあれ」
 食事の支度だけをしていればいいのか自分は。自分は家政婦か何かなのか。言えば言うだけ、ただの夫婦喧嘩だ。思えば思うだけ、だから真人は言えなくなる。
「……みっともない」
 飛び出してきてしまったから、何も持っていない。気晴らしに豪遊でもしてやろうとしてもかなわない。
 そう思った自分にそっと真人は笑った。自分の稼いだ金ではあるし、誰はばかることもない自分の金だ。それなのに、真人はどうしても無駄遣いができない。腹立ち紛れの豪遊などもってのほかだ。
 いままで真人が買った高価なものと言えばみな、夏樹のもの。時には月々貯めた金で彼のために反物を買ったこともある。
「あれは」
 夏樹渾身の小説を書き上げたときだった。長さはと言えば、決して大長編と言うほどでもない。有名な賞を取ったわけでもない。それでもあれは夏樹が自分で「いまの俺にはこれ以上のものは書けない」と真人にだけ言い切って見せた作品だった。
 祝うようなものではないと夏樹は言ったけれど、真人は書き上げたその事実を祝いたくて普段だったら手の届かない反物を買った。仕立てあがってきた着物は、夏樹もここぞと言うときにしか袖を通さない。大事に大事に着てくれている。
 小遣いで求めるには少々値の張る根付を買ったこともあった。前の煙草入れがだめになったとき、新しいものを見つけてきたのも自分だった。
「結局」
 いつも夏樹のためにばかり金を使っている。それも嬉々として。馬鹿馬鹿しいと思うには、思い出がありすぎた。
「だって」
 自分が夏樹のためにばかり使うと言うのならば、彼はどうなのか。真人はつい、と袖口を弄う。いま着ている着物も、夏樹があつらえてくれたのではなかったか。帯もそうだ。取材旅行に行ったときだった。お前に似合いそうだと思ったから、そう言って土産にぽん、と買ってきた。
「馬鹿みたい」
 ふう、と真人の口から溜息が漏れる。帰ろう、そう思った。それほど長い間出ていたつもりはないけれど、夏樹は腹を空かせて待っていることだろう。
 それでも庭から恐る恐る夏樹を窺ってしまった。ここまで戻る間にも行きつ戻りつ、警官に見られたら不審人物として呼び止められていたに違いない。
「……あの」
「……おう」
 どちらが先に見つけて、どちらが先に声をかけたのか。むっつりとした夏樹の顔を見て、真人はどうでもよくなった。
 不機嫌ではない。本人は変わらないと言うに違いないその顔。けれど真人にはわかる。心の底から困っている顔だというのが。わかる、そのこと自体が嬉しくて、嬉しいと思うぶんだけ喜びになる。
「いま――」
「ちょっと、座れよ」
「でも」
「いいから。ちょっと待ってろ」
 なにを言っていいのかわからないのだろうか。夏樹にしては珍しく彼のほうが席を立つ。
「ねぇ」
 台所で何かごそごそとやっている音がする。茶でも淹れてくれるのだろうか。気持ちは嬉しいけれど、後始末が増えるだけではないか。
「いいから待ってろ」
 鋭さから険を抜いて口の中でぼそりと言えばこんな声になるのだろうか。夏樹の困惑は更に深まっているらしい。
「できたぞ」
 どこでもない場所を見つつ夏樹が持ってきたのは、蕎麦だった。乾麺を茹でただけではある。それでも彼がするとは珍しい。
「……悪かったとは思ってる。お前に当り散らすことはなかった」
「それは……その。別に」
「俺が……。まぁ、その。つまり、食ってみろ」
 夏樹が横柄に蕎麦猪口を寄越すにいたって、真人は吹き出した。彼の態度に、ではなく自分たちそれぞれの態度に。
「なにをやってるんだろうね、僕たちは」
「悪かったのは俺だからな」
「あなたの不機嫌なんて今にはじまったことでなし。いなせない僕にも問題があったんだと思う」
「言い合ってても、仕方ないよな」
 このままではどちらが悪いと一晩中言い合うことになりかねない。夏樹の目に和解を望む色を認めて真人は微笑む。
「うん。いただきます」
 ただの乾麺だ。それでも夏樹が茹でてくれた。ぎゅっと胸が詰まるほど嬉しい。猪口を手にして、真人は目を瞬く。
「卵蕎麦。食ったことないか。けっこう旨いもんなんだが」
 蕎麦猪口の中には、汁と共に生卵の黄身が入っていた。驚く真人に夏樹は小さく笑う。こうしてな、と言いつつ自分の猪口の黄身を箸でつついて潰す。そこに蕎麦をちょいとつけてすすった。
「へぇ、知らなかった」
「けっこう旨いぞ」
 知らなかったのは、夏樹がこういうものを好むと言うことのほうだった。けれど真人は言わず黙って蕎麦を手繰った。
 食べたことのない味だった。だが嫌いではない。物珍しい、が正しいかもしれない。
「どうだ」
「うん、好きかな」
「そりゃよかった」
 それだけ言って黙々と夏樹も蕎麦を食べた。真人も手を伸ばす。所々硬い蕎麦だった。器用に茹で損なったのだろう。猪口の中の刻み葱は大きさもばらばらだった。冷やし方がまずいせいでなんだかぬるいざる蕎麦だった。
 それでも真人にはこんなに旨い蕎麦はなかった。




モドル