なにやら主題を決めて何人かの作家の描き下ろし選集を編む、と言うので夏樹は打ち合わせに編集部を訪れた。
「おや、篠原先生。どうしたんです、水野先生もご一緒で」
 編集者が訝しげな顔をする。当然だ、と真人は思う。いくら親しい「友人」と言うことになっているとはいえ、夏樹は真人に手を取られての訪問なのだ。これでおかしく思わなかったらどうかしている。
「猫をからかっていて足をくじいたんです」
 真人が溜息まじりに言えば、夏樹はいやな顔をした。それでも忍び笑いをしている真人を見てしまっては渋い顔をし続けることが難しいのだろう、同じように溜息をついた。
「猫、ですか。それは、その」
「放っておいてください」
「お怪我は大丈夫なんですか、酷く痛むとか」
「琥珀が大袈裟なだけです」
「嘘おっしゃい。痛くて一人では歩けないくせになにを言うんですか」
「お前な」
「僕が正しいんです。篠原さん」
 きっぱりと断言して見せた真人に編集者が呆気に取られ、ついで笑い出す。また夏樹の顔が渋くなった。
「まぁ、いいです。琥珀の事は放っておきます。放っておいてくれないみたいですから」
「おやおや、そんなことをおっしゃって――」
「いいんです。それで、打ち合わせに入らないんですか」
 急いて言うのは、これ以上この話題を引きずられたくないからだろう。真人と編集者は顔を見合わせ、そっと笑う。それから編集者は誤魔化すよう咳払いをした。
「それでですね、先日お話しいたしましたように、選集なんですが」
 そこで真人が不思議そうな顔をしているのに編集者は目を留めた。
「あぁ、選集と言うのはですね、アンソロジーとも言いますが、主題を決めて、それに沿った物を書いていただくなりしてまとめるんですよ」
「なるほど、題詠のことでしたか」
 編集者にはそちらのほうがわかりにくかったのだろう。歌人の真人としては自分に引き寄せて考えただけだ。
「題詠と言うのは――」
 簡単に、かくかくしかじかと説明をすればさすがに文芸を扱う編集者だ、あっさりと納得してくれた。
「題詠だけをまとめた歌集なんてのも、あるのか」
 不意の夏樹からのご下問だった。真人は言葉に詰まる。不勉強にして知らなかった。ないとは言い切れないけれど、あるとも言えない。
「さぁ、どうでしょう。ただ普通の歌集でも題詠の歌は多いですから」
「どんな題があるんですか」
 興味を引いたのだろう、編集者の目がきらきらとしている。どんな、と言われてもこれまた困ってしまう。ありとあらゆるものが題になる。
「自然物、例えば月・花・雪。こういうものも題になりますし、抽象的な、祈っても叶わない恋、なんていうものも題になります」
 ちょうどその抽象的な方を今度の百人一首に取り上げようかと思っていたところだった。それでだろう、口をついたのは。
「ははぁ、色んなものが題になるんですねぇ。こちらは単純に恋、と言う主題にしようと思ってるんですが」
「それでいいでしょう。むしろあまり状況設定されるとやりにくい」
「ご謙遜を。ぎちぎちに縛りぬいても期待以上の物を書いてくださるんですからね、篠原先生は」
「仕事ですからね」
 肩をすくめて言うものの、夏樹の口許が密やかに笑っていた。たぶん、編集者は気づいていない。真人には見て取れた。
「恋、ですか……」
 ふ、と夏樹が唇に指先を当てて考え込む。薄く伏せられた眼差し共々、妙に色気があって困る、と思っているのは真人だけかもしれなかった。
「琥珀」
 つい、と眼差しが上がる。当たり前だが普段、筆名で呼び合うことはしない。だからかもしれない。戸惑うと共にときめくのは。
「はい」
 掠れないよう気をつけて返事をすれば、夏樹の目が笑った。それに真人も目だけで睨み返す。
「さっきの題詠。詳しく話してくれるか」
「えぇ、いいですよ」
 とはいえ、きちんと覚えているかどうか。覚束ないながらも真人は話しはじめる。一度話をはじめてしまえば簡単だった。案ずるよりなんとやらだ。
「状況設定も無茶だが、歌も中々無茶だな」
「難解、と言うよりわかりにくい歌、と言われていますよ」
「どこが違う」
「歌そのものはわかりやすいんです。別に難しい語句があるわけでもない。ただ背景を知らないとわかりにくいですし、知ってもすんなり入ってくる歌じゃないですから」
「その辺はよくわからん。お前の判断を信用する」
 軽く言って夏樹は頭を下げた。歌の解説に対する礼だろう。夏樹と言うのは生真面目な男で、こういうことはきちんとする。
 だが編集者には驚きだったようだ。あの、人嫌いで偏屈、気難しいと並びたてられる、あの篠原忍が頭を下げている。
 驚きにぽかんと口を開けている編集者に夏樹は目を留める。わずかに顎を上げて見やれば慌てて編集者は顔の前で手を振った。
「それがいい。それで行きませんか、篠原先生」
「祈っても叶わない恋、ですか」
「なんともロマンチックじゃないですか。篠原先生にぴったりだ」
 言われた当人は苦虫でも噛み潰したような顔をしていた。書くものが浪漫的なのか、それとも本人がそう見られているのか悩むところだ。いずれにせよ、どちらも当てはまらないだろう、と夏樹自身は思っている。ちらりと真人を見やった。
「そうですね、僕もぴったりだなと思います」
「ちょっと待て。どっちだ」
「どちらも」
 なにがなにやらわからない問いを発する篠原に、意味があるとは思えない短い返答をする琥珀。編集者はそう見た。
 当然、二人の間で意味は通っていた。その証拠に納得しかねる、と言わんばかりの顔で夏樹が唸る。
「忍ぶ恋、と括ってもいいのかな。お好きじゃないんですか」
 よく書くじゃないか、と言いたげな顔に、好きで書いているわけではないと答える顔。ただ真人は騙されなかった。
 自分の歌がすべて夏樹を指すように、彼の書くもののどこかに必ず自分がいる。年齢も、時には性別すらも変えて自分が描かれている。それが真人だ、とわかるのは書いた本人と真人だけだった。
 これを忍ぶ恋と言わずしてなにを言うのか、と真人は言葉にしないでそう言う。夏樹はむつりと答えない。
「忍ぶ恋、ですか。それはまたロマンチックな。いいですねぇ」
 編集者がうっとりと言葉を挟んだ。天井を見上げた編集者の目に映っているのは、現実の薄汚れたそれではなく、篠原忍の描く世界なのだと真人にはわかった。彼もまた篠原忍の信奉者の一人なのだと。嬉しいような誇らしいような心地だった。
「傍で言うほど楽なものではありませんよ」
 ぼそり、と夏樹が言った。真人は自分の心臓が跳ねるのを感じる。なぜ夏樹の描く世界に真人がいるのか。なぜそれがすべて忍ぶ恋なのか。知っているのは当人と二人にまつわる親しい人だけ。
「どうしたんです、何か思い当たる節がおありですか、篠原さん」
 はらはらとするものだから、よけいな口を挟む。言ってしまってから黙っていればよかったと思う始末。
「隠しても隠してもいずれ露見する恋、なんていうのは中々神経が疲れるぞ」
「疲れる……ですか」
 ではこの長い年月、彼はずっと疲労していたのか。明かしてしまいたい、あるいは終わらせてしまいたいと。
 わずかに顔色の変わった真人に夏樹は気づかない様子で溜息をついた。
「いっそ全部ぶちまけてしまえたらいい」
「それは――」
「だってそうだろう。近づく相手すべてを許さない、と思ってもこちらは何も言えやしない。黙って悶々とするだけだ」
 はぁ、とこれ見よがしの溜息。いったい何事か、と編集者まで顔色を変えている。真人はそれどころではなかった。呼吸の仕方まで忘れそうなほど慌てていた。
「それができないならばいっそ、と考えを弄ぶものの、とはいえ別れたいと思えるはずもない」
「あの――」
「あぁ、そうだな。別れたいと思ったことはただの一度もない。それは断言する」
 ようやく冷めた茶を夏樹は口にする。真人は呆然とし、編集者は二人ともを窺っている。真人はその眼差しにわなわなと手が震えないようにしているのが精一杯だった。
「その上で、会うもままならないだと。ただでさえ隠し続けていると言うのにか」
「あの、篠原さん……」
 声が掠れる。今度は隠せなかった。それでも編集者は戸惑いゆえのそれだと思ってくれるだろう。否、思って欲しい、是非とも思っていただきたい。そうでなくては困る。
「隠している上に会うこともできないなんて、ぞっとする。冗談ではないね」
 ぬるい茶をもうひとすすり。夏樹一人、なんでもない雑談でもしているかのようだ。そもそもそれがおかしい。篠原忍は雑談を好むような男ではない。
「――と言う話でも書いてみますか」
 そこで顔を上げて夏樹はにやりとした。真人は今この瞬間、彼を殴っても文句は言われないはずだ、と思う。さすがに人目があるから自重したが。それでも嫌味のひとつくらいは言いたい。
「実感こもりすぎですよ、篠原さん」
 だが夏樹はと言えば飄々としたものだった。あどけないとでも言うような目をして真人を見やる。根本的な問題として、いい年をした男性に向けてあどけない、と表現してしまう真人が間違っている。わかっていてもなおそう思うのだから、真人に勝ち目はなかった。
「……誰も現実にあった、とは言っていないがね」
 実にいやらしく、にたりと夏樹が笑う。これは篠原忍の冗談だ、とようやく理解した編集者が虚ろに笑った。いっそ真人も追随したい。
「誰が聞いたって現実のことだと思うに決まってるじゃないですか、今の。ぞっとしましたよ、僕は」
「おやおや、私の生業が何か、忘れているようだね。琥珀君」
 まったくもって手に負えない。本当に、こんなときには捨ててやろうかとほんの少し、思う。けれど先ほど夏樹が言った。考えを弄ぶだけだ。そんな気は微塵もない。だからやはり、真人の負けだった。




モドル