それはまだ春真がいたころ。慣れない百人一首にまつわる随筆、と言う仕事に真人は四苦八苦していた。
 元々文章を書くのは得意ではない。むしろはっきりと苦手だ。それなのになぜこの仕事を請けてしまったのだろう、安請け合いだったと後悔しきりでいた。
 だから原稿にも身が入らない。否、入れているつもりではいるのだが、どうにも集中できない。苦手だ苦手だと思うあまり、ついつい逃げたくなる。
「少しだけ、気分転換」
 逃げる先はと言えば、家の中にいくらでも転がっている本また本。雑誌につぐ雑誌。書くのは苦手だが読むのは大の得手だ。
 言うまでもなく、最も好むのは篠原忍の小説。そしてそれがこの家にはいくらでもある幸福。
「ちょっとだけ、ちょっとだけ」
 大事にとっておいた先月号の雑誌を手に取り、栞を引き抜く。あとで読むのだ、と栞をしていた自分を思い出しては口許に笑みが浮かぶ。
 読んでいる最中はもちろん陶酔する。だが真人にとって読む前、と言うのも大切なのだ。あの続きはどうなったのだろう、あの登場人物の行く末はどうなるのだろう。そんなことを思うのがたまらなく好きだ。
 篠原はいわゆる娯楽小説、というものを書きはしないが、かといってずいぶん昔に流行った私小説の類でもない。
 ならばなんだと言われても困るのだが、篠原は篠原だとしか言いようがない。娯楽は書かないと言いつつも、歴史小説も書けば現代物も書く。
 編集者には文豪の大先生のと言われているが本人にはまったくそんな気はなく、筆も早いし突然の休載をすることもない。
 これは夏樹を知っている真人としては驚異的なことだった。あの四六時中寝込んでいるような人が、ただの一度も原稿を落としたことがないというのは。それどころか締め切りすら破ったことがないのだから、驚いてしまう。
「ん、もうちょっとだけ」
 頭の中には百人一首の続きを書かねばとの思いがある。あればあるぶん、他のものも読みたくなってしまう。
 先月号をもう一度読み返し、ついでに先々月号を読む。ついには収まりがつかなくなって、単行本になっている一巻目を持ってきた。
「あぁ、もう」
 それすら読んでしまって、真人は意を決する。夏樹は広縁の定位置にいて、見るともなしにそんな自分を見ては笑っているようだ。
 が、真人は気にしない。もうここまで来たならあとは一緒だ。
「夏樹、原稿見るよ」
「かまわんよ」
「清書、するから」
「ほっといていいぞ」
 かすかな笑いが含まれた声。真人はそうは言ってもね、と呟きつつ書き上げられたばかりの原稿を手にとる。
 思わず溜息が出そうだった。新しい、夏樹の小説。まだ誰も読んだことのない篠原の新作。そのまま原稿を胸に抱きしめたくなってしまう。
「お前、自分の仕事はいいのか」
 夏樹がなにやら言っているのは聞こえていた。否、なにを言っているのかも理解していた。だから真人は無視をする。
 せっかくいい気分でいるのだから、現実に返ってきたくない。
 一度に渡すぶん、としてはまだ短いのだろうその原稿を真人は三度読んだ。それでもまだ読み足りない気がして仕方ない。
 うっとりとしたまま万年筆を手に取る。夏樹の字は決して読みにくいということはなかったけれど、所々にまだ書き込みがある原稿だ。あとで自分で清書するつもりでいたのだろうそれを真人は丁寧に書き写していく。
 昔はよくやったものだった。まだ歌人として名の立っていなかったころのことだ。水野琥珀ではなく、篠原の書生として知られていたころ。
 篠原忍の清書をするのも原稿を届けるのも真人の仕事だった。少し懐かしくなる。幸福が生新だった日々、不安すらもが新しく鮮やかだった。それを若いと言うのだろう。
「ただいまー」
 ぴょん、と跳ねるような声がした。清書の手を止め真人は振り返る。春真が学校から帰ってくる時間だとは気づかなかった。
「いけない、ごめん」
「いいよ、おやつは勝手にするから。真人さんは仕事――じゃないみたいだね」
 子供らしくない顔で春真がにやりと笑った。伯父のほうをつい、と見やれば夏樹は自分のせいではないと渋い顔をする。
「伯父さんが用事させてるんじゃないの」
「そう見えるか」
「見えるけどなぁ。だって真人さん、百人一首があるって言ってたじゃん」
「言ってたな。俺も覚えてる」
「だったら」
 言葉を切り、春真と夏樹はそろって真人を見やった。思わず万年筆を握り締めてしまう。
「二人とも。嫌味っぽい」
 顎を上げ、鼻を鳴らして言ってみても二人は笑うだけ。小走りに近づいてきた春真は真人の手元を覗いてそっと笑う。
「真人さん、清書なんかして。あぁ、そっか」
「なに、ハル」
「怒らないで」
「怒ってないよ……たぶんね」
 言い分に春真が笑う。そうされてしまっては、怒る気にもなれない。元々怒る筋合いでもないのだが。
「真人さん、仕事あるんだったよね」
「あるよ、わかってるよ。お願いだから思い出させないで」
 悲鳴じみた声に春真も夏樹も忍び笑いをする。一応は吹き出さないようにこらえてはくれたのだろう。だが隠していても笑っているのだから真人には一緒だ。
「お仕事、したくなくって逃げちゃったんだ」
「ハル、言わないで」
「なんだか試験前みたいだね」
 くすくすと子供が笑う。真人は首をひねって思わず夏樹を見てしまった。
「どういう意味だ、春真」
「だってさ、ほら。試験の前って勉強しなきゃしなゃって思えば思うだけさ、別のことしたくなっちゃうじゃん。ついつい遊びたくなっちゃってさ」
「お前、勉強なんかしてたか」
「酷いな、ちゃんとしてるよ」
「見たことがない」
 きっぱりと言う伯父に春真が食ってかかった。真人は万年筆を握ったまま、暗澹としている。自分は試験前の小学生と同じなのかと思えば暗くもなろうというもの。
「おい、真人」
 先に気づいたのはさすがと言おうか夏樹だった。じゃれついてくる甥の手を軽く掴んだまま真人を見やる。
「あのな、俺もだからな」
「――なにが」
「仕事が立て込んでくると、うっかり遊びたくなる」
「嘘。そんなの見たことない」
「見せないだけだ」
 みっともないだろう。言い足した夏樹の言葉の裏にあるものを真人は感じる。真人の前ではいい男でいたいのだと言う彼の照れを。思わず顔がほころんだ。
「ねぇ、真人さん。真人さんじゃなくってさ、伯父さんが悪いんだよ」
「え――」
「だってさ、お仕事忙しいってわかってるのに、その辺に雑誌とか原稿とか放り出しとく伯父さんが悪い。あったら読んじゃうじゃん」
 そんな馬鹿な理論があるものか。思いはしても真人はつい笑ってしまった。
「そうだよね、悪いのは僕じゃなくて伯父様だね」
「そうそう。伯父さんが悪い」
「おい、お前ら――」
 呆れた夏樹の声。それでも満更でもなさそうだった。真人と春真と三人で他愛ない言葉をかわしている、その事実に満足しているのかもしれない。
「あなただって知ってるじゃない。僕は篠原忍の信奉者なんだ。あったら読むに決まってる」
「もう何度も読んだだろうが」
「わかってないな。何度読んでも好きなものは好きなんだ。あれば何度でも読む。だから、その辺に置いておくあなたが悪い」
 真人の戯言を春真がそうだそうだと囃し立てる。どうにも分が悪い夏樹だった。
「なるほどな……」
 ふむ、と何事かを考えるふり。真人はそんな顔をする夏樹が好きだ。難しい顔をしているより、よほど魅力的だと思う。
 つい、と夏樹が立ち上がって文机の前まできた。いまだ握ったままの万年筆を奪い返される。
「夏樹――」
 なにをするのだろう、と思ううちにさらさらと何事かをその辺の反故紙に書き付けた。
「ほら」
 机の上を滑らせて寄越したのは、ほんの二三行ばかりの文章だった。真人は書いてあるものは読むとの習性に忠実に、うっかり読んでしまった。
「あぁ……」
 溜息が出る。他人が見ればたかが殴り書きの書付。真人の目には金彩螺鈿のごとき輝きを放つ。篠原忍の文章だ、とすぐにわかる。本人が目の前で書いたなど、なんの理由にもならない。これこそが篠原忍の文章だ。
「時々、俺と篠原忍が一致してないんじゃないかと思うぞ、お前の中じゃ」
「そんなこと、ないと思うけど」
「お前は篠原と――」
 不意に夏樹が言葉を切る。そこに春真がいるのを思い出したとばかりに唐突に。忘れているはずがない。そんなふりをしたことで、真人に続きを悟らせただけだ。
「夏樹」
 春真に見えないよう、真人はそっと彼を睨む。睨むと言うには、甘い目だったけれど。
「あなたなんか」
 小声でそっと言えば、夏樹が目を剥いてみせる。ごく親しい人だけが知る、夏樹の表情だった。
「そんなこと言うと」
「なに。言えばいいじゃない。僕に何をしてくれるつもりなの」
 つん、と顎を上げれば向こうで春真が笑った。まるでこの先の展開が読めているといわんばかりの笑い方。
「なら、教えてやる。それ、まだ当分書くつもり、ないからな」
 夏樹の指が書付を示す。真人は悲鳴を飲み込んだ。嘘だろうと夏樹を見てもそっぽを向かれるばかり。
「夏樹、続き」
「さっさと仕事しな」
 やっぱりだ、と春真が二人のやり取りに大笑いをしていた。




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